学級日誌
「ふぅ……」
怪我人の治療にあたっていたルペス医師が、禿げ上がった額に流れる汗を拭う。
そのおでこに反射するであろう、陽の光はまだ登っていない。
「幸い、誰も死なずにすんだのお……。兵士たちが今朝がたから警戒警報を触れ回っておったから助かったわい」
何か知っておったのか……ううむ、一先ず今は皆の無事を案じる方が先か。
それでも少しずつ明るさを感じ始めた。紺色だった夜空が、気づけば竜胆のような薄い青紫色の空に代わっていた。
エスポフィリア国の人々は、ぼんやりとだが互いの様子が、より分かるようになった。
泥や、煤で汚れた顔を見合わせて、思わず笑ってしまう。
王都の火は、消え去っていた。
「――お? お、おいみんな! リーナ様が言ってた第六師団じゃねえか?」
東の稜線が、黄金色に輝き始めた頃。
日の出の光に照らされて西より姿を現したのは、第六師団と義勇兵たちだった。
「あ、あいつらも戻ってきたぞ!」
城壁の向こう側からは消火活動にあたっていた兵士や王都の人々が現れる。
「あれ? でもリーナ様がいないぞ?」
「本当だ。一体どうし――。ってなぁんだ、後から来られた…………ん?…………お、おいおいおい……!!」
兵士たちから少し遅れて戻ってきたリーナ。と、そのそばにいたのはプレア王妃と彼女を背負うタウカン少尉だった。
「あれは、プレア様じゃねえか!?」
「どうなってんだよ!? いっぺんになにもかも、頭がおいつかねえぞ!」
「――皆の者! 静粛に!」
リーナの一喝が城塞都市の前に広がる名もなき平原に響き渡った。
城塞都市エスポフィリア王国王都は、四方を山に囲まれている。北に流れるエボレ川を水源とし、東の山脈を越えるとすぐに港町が出迎える。
かつては北部には田園地帯が広がっていたが、聖域を建造するにあたり、全てが王国に差し押さえられたものの、必要なかった場所は耕作放棄地となって雑草が稲穂の代わりに風になびいていた。
肌寒い風が山々から吹き降ろされる。汗ばんだ肌には少し寒い風だった。
王都の民、王国軍の兵士、文官、使用人たち……。
そして、ロウマ平原から見事にたどり着いた第六師団の面々、そしてフーリィ達義勇軍が一堂に会した。
暁に照らされた皆の表情は、眩しさに目を細めているゆえに厳めしくもあったが、まさに十人十色だった。
安堵した者、王妃の登場に歓喜するもの。
疲労や痛みに苦しむ者、不安がぬぐえず震える者。
その全てを受け止め、皆が声を静めた頃、リーナが言葉を続けた。
「静粛に。プレア王妃様の御前であるぞ!」
リーナが場所を開けるために降りた台は、瓦礫を適当に積み上げて急造されたものだ。
入れ替わりにそこへ姿を見せたのは、プレア王妃――……を背負ったままの、タウカン少尉だった。
その憎たらしい笑みに対して、当然どよめきが起きる。
「何やってんだタウカンてめぇ!」
とタウカンの顔見知りの兵士たちからの罵声はもちろん、
「誰だあれ……?」
とタウカンの顔を知らぬ民たちからは、怪訝な顔をもって出迎えられる。
――それだけならまだいいが、
「え、プレア王妃様ってあんな顔なの!? おっさんみたいだぞ」
後ろの方で、角度的に満足にそのお顔を拝見出来ない者たちからの、あらぬ風評被害まで招き始めた。
それでも壇上のタウカンは鼻を高くし、ほくそ笑む。
「あー、諸君、静かに。よくぞ頑張った。今よりプレア王妃様からご挨拶があるぞ」
少尉という位はこの国では低い方ではないが、それでも中尉や大尉またそれ以上の位の高い者もいるし、先輩もいる。
「タウカン! 貴様、誰に向かって!」
と興奮する兵士に向かって、タウカンは自分の胸を親指でさした。
は?――と怪訝な表情を浮かべる兵士たちだったが、やがてその意図が分かる。
彼の体の向こうに背負われている、プレア妃を指さしたことに。
まるで自分が王妃だとでも言いたげなその振舞いに兵士たちは歯噛みするが、 王妃が静かに皆を眺めていることがわかり、不満をいだいた者たちはぐっとこらえた。
タウカンはますます気をよくしたのか、胸を反らし始めたが、それが運の尽きだった。
「きゃっ!」
人を背負っているのに、胸など反らせば、背負われている者は落ちそうになる。
落ちないようにプレア妃が慌ててタウカンの首に腕を回した。
元々細身の体であり、二年もの歳月をほとんど寝て過ごしていたプレアの体にふくよかさを期待はできないが、仮にそうであっても無理だろう。
頸動脈を絞められては、タウカンは瞬く間に小汚い顔を青くし呼吸困難になった。
「ちょっと! もっとシャキッと立ちなさいよ!」
プレアに怒鳴られる。タウカンが何とか前傾姿勢を取り戻すことができたのは、王国軍の兵士として鍛えていたからだろうか。
涙目になって呼吸を乱すタウカンを、
「タウカン!」
リーナ師団長が鋭く名を呼ぶ。
「わわ、わかりましたよ……。えーっと――」
「王妃様!」
タウカンのことなどそっちのけで、そう叫んだのは民衆の中の誰かだった。
その短い呼びかけは、我慢していた人々に火をつける火打石となった。
「あぁ、良かった、ご無事で……!」
「一体王都に何があったんですか!?」
「さっきの妖しい気配、あれは魔王ジャルファだったのではないですか!?」
「こんな時に勇者である王様はなにをされてるんですか!?」
「イノス宰相は!? 確か王妃様をお守りするからと一人残られたはずです!」
「こら静かにしろ! 王妃様の御前だぞ!」
――聞き取れたのはそこまでだった。
爆発的に発せられる不安と、それを抑えつけようとする兵士の怒号が混ざり合い、すぐにも判別はつかなくなる。
その時、プレア妃はタウカンの耳元に顔を寄せた。
何を言っているのか、誰にも聞こえない。
だけど、何をさせたのかはすぐに分かった。
タウカンは自分の両膝に手を置き前傾を強める。
すると、プレア妃は彼の両肩に左右の足を乗せた。
そしてタウカンは足首を持って、こめかみに血管を浮かび上がらせつつ、そのままどうにか立ち上がった。
プレアもまた、彼の肩の上でまっすぐに立ち上がる。タウカンの青くなり始めた顔は、スカートに納まり見えなくなった。
「プレア様!?」
「タウカン、羨ましいぞあいつ……!」
その言葉が聞こえてきて、タウカンは頭の中で怒鳴る。
――バカ野郎! こっちゃ必死だっての。それに『上見たら即斬首刑よ』って脅されてんだぞ!
そのおかげで、民衆の奥の奥まで、全ての人の顔が見られるようになった。
「みなさん!」
すっかり注目の的になった王妃の、いつもより淑やかで半音高い声に、タウカンの努力が実る形で皆が聞き耳を立てた。
「お久しぶりです……。二年間、ほとんど寝ていてばかりで、みなさんにこうして再びお会いできた奇跡を与えてくださった女神に、まずは感謝します」
プレアの言葉に、王都の民の老齢の者たちはばらばらの歓声で応える。高齢な民たちの中では早くも涙を流し始めるものもいた。
「そして、皆さんのお顔を見て、安心しました。王城は崩れて、王都の町は火の海に侵され、みんな泥だらけで傷だらけで……王とイノスも不在。そればかりか師団長もほとんどいなくて、かつての魔王の復活の気配もあって……」
兵士や民たちがおぼろげな息を吐く気配が伝染していく。
「だけど何の問題もないわねっ」
プレアは嫌味なほど得意げに笑った。
「アタシは信じてます。皆さんが、それでも立ち上がれる人たちだって!」
興奮しているのか口調もかしこまったものから、徐々に普段の彼女の声音になっている。
「だってそうでしょ? エスポフィリア王国ってなに? 王様なの? 王家のもの? 違うでしょ……。王国はアタシたちこの国に生きる全ての人のものなんだから!」
今度は、皆がはっと息を飲む音が重なる。
「むしろこんな危機的状況だからこそ、アタシたちの底力が試される。二年間、ほとんど寝ていたアタシが走り回ってやるわ。だからみんなも、倒れるまで自分にできることに全力で取り組みなさい!」
兵士と、そして民たちの怒号のような歓声が沸き上がり空気が震えた。
タウカンは見たかった。もちろん上ではない。正面の景色を。
そして彼だけが分かっている。プレア王妃の足が、震えていたことを。
「そして、今日はもう一つ朗報があるわ!」
タウカンの背後から、ルミナーラがひっそりと壇上に登り、姿を見せる。
「だ、誰だあの子?」
「ん? お、おい、まさか……!」
兵士たちがざわつく。
「ぷ、プレア様、そのものは指名手配を――」
そう言いかけた兵士を、プレアは穴が開きそうなほど強く睨む。
「へぎゅっ」
その兵士の喉がきゅっと細くなり、おかしな声が出たところで、プレアは張り付いたような笑顔に切り替えた。
「それ、間違いだったみたいね」
「へ……?」
「王様の間違いだったみたいよ。アタクシが訂正しておきます。アタシの大好きなルミナーラが指名手配? 可愛すぎてならわかるけど。あ、もしかしてそうなの?」
「え? は、はぁ、いやその、え?」
「もう一度言います、それは間違いです」
「は、はいっ!」
「今この瞬間からその話はなし。あなた、お名前は?」
「はっ! ユービーン・サガクロであります!」
「ユービーン、責任もって王国全土に伝達すること。いいわね? 知らされてない人が一人でもいたら、十年の禁固刑に処すわよ」
「は、ははあ! 御意!!」
「それとみんなも、以後口にする者がいたら連れてきてくれる? 百年の禁固刑に処すから」
暴君かくもあらん――。
一部の兵士たちの頭の中にはそんな言葉が浮かんだかもしれない。
だが多くはその意見に好意的だった。特に民の中でその色が強く、
「やっぱ何かの間違いだったんだな」
「よかった、ルミナーラ様は何も悪くないんだ!」
「おかしいと思ったんだよ。なんだって十歳にも満たない子どもを指名手配なんて……」
などとぼやいていた。
一瞬走った、殺気にも似た気配が穏やかになった。
プレアはタウカンに合図し、降ろしてもらうとルミナーラに近づく。
「あとは、あなたの仕事よ。王家の人間としての、初めてのね」
ウインクをしてみせると、頬と頬とを軽く触れあわせた。
初めて……ねぇ――と、タウカンは後ろで苦笑を浮かべた。
「……わかりました」
居並ぶ老若男女を前に、ルミナーラは実に落ち着いた態度だった。
再びタウカンは担ぎ役となり肩車するが、まだ幼いルミナーラを掲げるのは造作もなかった。
――本当なら、こんな姿を、父上や、エッジに見てほしかった。
……二人とも、私を見守っていてください。
この一人一人が国であり、この一人一人が私を支え、この一人一人を私が守っていきます。
半分だけ昇った朝陽を見上げていたルミナーラは、ふうと短い息を一つ吐き、そして改めて皆を見渡した。
「初めて会う者もいるかもしれないな。私の名は……ルミナーラ・エスポフィリアだ」
うぅ……――と早くも涙にぬれた嗚咽を漏らす者が幾らかいた。
その中には、もちろんプレア妃が含まれている。
そして、遠慮がちに端の方に立つフーリィたちルミナーラと苦楽を共にした者たちも彼女の雄姿を拝み、泣き崩れていた。
「みんな……詳細はまた後日、話そうと思う。ひとまず安心してほしいのは、魔王ジャルファは、確かに復活した。だけど、すぐに封じ……そして、今度こそ、完全に浄化した」
民衆から安堵の息遣いが漏れ広がっていく。
それまで肩ひじ張っていた兵士たちも露骨に気が緩んだようで、鎧兜のこすれる音があちこちで立った。
「魔王を葬ったのは…………」
ルミナーラの言葉が止まる。
言葉を待っていた民たちも、次第に怪訝な顔を傾けだす。
「ルミィ……」
「ルミナーラ様……」
プレアとリーナが、心配そうにその背中を見上げた。
目を閉じ、深く息を吸う。そして、細く長く吐き出すと、ルミナーラは静かに瞼を開いた。
「魔王を葬ったのは、我らの偉大なる王であり、英雄であるカージョン様だ」
一同から歓声が沸き上がる。
「そして……カージョン様は、魔王と刺し違えて……先程、息を引き取った」
音が世界から奪われたように、皆息を飲んだ。
そして沈黙を破るのは、誰かのむせび泣く声だった。
「悲しむ気持ちは私も同じだ」
その言葉に、返って弾みをつけて泣いてしまう者もいる中、フーリィ達は驚きのあまり固まってしまう。
――ど、どういうことだ? 王の討伐に向かわれたのではないのか?
――魔王の復活……聖獣様が言ってたのはこのことだったのか?
――というかイサミたちはどうしたんだい?
しかし、トリヒスが窘める。
――何か事情があってのことだろう。今はひとまず、ルミナーラ様がご無事であったことに安心しようではないか。
そんな声が聞こえてきた気がした。
ルミナーラはトリヒスたちを見つけて、小さく笑っていた。
「だけどご覧の通りだ。その余波ですっかり王都は崩れてしまった。だが、お姉様の言う通り。生憎だが悲しんでいる暇は我々にはない」
その言葉に気が引き締まり、皆泣くのをやめていく。
「だから今は二つだけ、お願いをさせてほしい。……みんな、もうこれ以上、誰かの為に、誰も死なないでくれ」
フーリィが咳込むように嗚咽を漏らし、慌てて口を抑えた。
プレアは、口をへの字にし、気丈に振舞ってみせるが、目から零れる涙は抑えられなかった。
「そしてもう一つ。……生きていれば……辛いことは沢山ある。だが、楽しいこと、嬉しいこともいつかは必ず、やってくる。そう信じて、一日も早く王都を…………いや、エスポフィリア王国を復興させよう」
闇の眷族の王たる魔王ジャルファの復活、それを阻止したのはルミナーラと、カージョン王……そしてタウカン少尉の三人。
ジャルファが復活した点についてはアイサの書いた手紙の通りとはいかなかった。
当初の筋書きでは、カージョン王を討ったのがイサミたち。そして王の仇を討ったのがルミナーラとタウカン少尉ということにされていたのだ。たとえ実際にルミナーラが雪辱を果たしていたとしてもそうするつもりだったらしい。
カージョン王を英雄の立場にしたのは、ルミナーラの提案だった。タウカン少尉の処遇に関しては、アイサの意思を汲んでそのままにした。
もっとも、プレアを助けたのは紛れもなく彼だったので、リーナ以外誰も反対しなかった。
リーナは決してタウカンの苦労を一蹴したいわけではない。ただ上官としてタウカンの、可愛く言えばお調子者、鋭く言えば野心家の気性をしっていたから、やたらに褒美を取らせることに抵抗があったようだ。
一方でリーナはというと、アイサがキョゥーカの町で手紙を書いた頃にはリーナの存在を知らなかったので、その筋書きに名を連ねていなかったからルミナーラが推薦するも、リーナは頑として断った。
イノス宰相は、その後の王城修復作業の最初の頃に発見された。
意識がもうろうとする中、歩き回っては転倒を繰り返したのか、複数個所の骨折と流血が認められた。
事情を知らぬ兵士たちが駆けつけ、運ぼうとしたのだが、
「王が魔を支配し、我もまたこの世を闇で包むのだ!」
と叫び、状況は一変。リーナ師団長及びタウカンの預かりとなった。
王がミララセの蘇生を願う中で、魔王の囁きに耳を傾けたのか、もしくはイノスが唆したのか。
その言葉の真意は定かではないが、もう問いただすことはできない。
彼はその後、運ばれた診療所の中で自害してしまった。
魔王の復活の原因については、確かなことはわからない――ということしか語られなかった。
そして、エスポフィリア王国国内を荒らし、『魔王再来』の日に王城を破壊し、王都内で目撃された謎の三人組については――当初の筋書きに近づけられないことはなかったが、ルミナーラが許すはずもなかった。
「あいつらが好きにしたのだから、私だって好きにさせてもらう」
謎の三人組が魔王の浄化に大いに力を貸してくれたが、行方不明になってしまった。
魔王の浄化に巻き込まれたかもしれないが、まだ礼も言えていないので、見つけたら王城へ連れてくるように!
――ということで、イサミ、セイマ、そしてアイサの三人はある意味でお尋ね者になってしまったのである。しかし、名前も人相書きもなく、ともすれば噂話のような形で。
もちろん、生け捕りが条件で、万が一命を奪った場合は、プレアより千年の禁固刑が処されるらしい。
その御触れと共に大きく改変されたアイサの筋書きは、王国内の人々に伝えられていく。
イサミたちの名前は、エスポフィリア王国の伝記に残らないだろう。
だが、ルミナーラと、そしてフーリィ達ともに過ごした義勇兵、タウカンやプレア、そしてリーナの記憶には深く刻まれているのだった。
納めきれなかったので、次回が本当に最終回です。
何度も引き延ばしてすみません。
次回は明日更新です!




