6時間目 道徳 休み時間 前
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「――すごいわ。よくできたわね」
両親の優しい声がいつも聞こえてくる家庭だった。
「本当だ。まだ4歳なのに……天才だよ!」
それが親バカと呼ばれるものなのか、本当に才能に溢れているのか、当時の私には判別がつくわけもなかった。
ただ――。
「それに比べて……どうして愛は何もできないのかしら?」
自分が弟よりも劣っているのであろうことだけはわかっていた。
私との扱いの差だけは分かっていた。
私は、積み木を積む手を止めてしまったあの光景だけは、何故か死して尚未だに覚えている。
それからしばらくして、父は亡くなった。
持病があったらしい。何かのはずみでそれが悪化したとか。あまり覚えていない。
その後、母が心の病にかかり、人が変わってしまったことがあまりにも衝撃的すぎて、記憶がかすんでしまったからだろうか、それとも興味を持つという心を失っていたからだろうか。
「霧矢ぁ、あなたは本当に可愛いわね」
とベッドの上で、母は耳にするだけで背筋が寒くなるような甘えた声をだす。
弟である霧矢を目の前にして。
「ほら、ゲップだしちゃいましょうね」
古ぼけた猫の人形を抱きしめ、弟の名前を呼びながらその猫の背を撫でていた。
「――愛! いつまで待たせるの! 私を飢え死にさせるつもりね!」
つい三十分ほど前に食べたはずの昼食を忘れてしまっている。
最初の頃は私も「先程食べました」と言っていたかもしれない。でも途中から心が折れてしまった私は、「申し訳ございません」と謝りただ黙って食事を作ったり他の家事をこなしたり、入浴や、トイレの介護をする日々だった。
「姉ちゃん、だいじょうぶか?」
唯一の救いだったのは弟の気遣いだった。
私のように人権を侵害されることもなく、しかし、人形のように愛されるでもない弟まで、人生が狂うことはあってはならない。
「ええ、大丈夫」
私は自分の不幸を飲み込み、淡々とそう答えた。
小学校を卒業する頃には、もはや笑顔の作り方など忘れてしまった。
楽しい学校生活などは無縁だった。放課後みんなと遊ぶこともなく、部活を楽しむこともなく、宿題さえもする暇がない。
授業中は貴重な睡眠時間になっていたのだ。
みるみるうちにテストの点数が下がっていく。当たり前だが。
そんな日々を過ごしていると、学校の先生が不安に感じてか、家庭訪問をしてくれた。
しかしそのことが母の逆鱗に触れた。
「あんたが! 出来損ないだから! 私たちが恥をかくのよ!」
止まらない仕打ちに、私の顔は腫れあがった。
ベッドの上から起き上がるのは、猫の人形をあやす時か、私を殴る時だけだった。
かつてのように優しい声など聞こえてくることはない。
我が家に笑い声など響かない。響くのは母の怒声と私を叩く生々しい音ばかり。
殴り返してやろうかと思った時もないわけではない。
だが、私はこの人と同じにはなりたくない。大義もなく理性に背いて自分の欲望のまま暴力を振るうのは獣だ。
その思いだけで踏みとどまった。
学校を休めば先生たちがまた何をするかわからない。もっと痛い思いをしなければならないかもしれない。
でもこの顔で登校すれば、結局は先生たちが不安に思って声をかけてくるだろう。
その時は誤魔化すしかないけれど、その方がまだ可能性があると思った。
ただ少なくとも宿題はやって行こう。勉強だけはしておこう。成績が落ちるとまた何を思われることか……。
日中は母の世話をして、怒鳴られ、殴られた。
幸いなのは薬の影響なのか一度寝ると朝まで起きない。母は色んな薬を飲んでいた。それこそ薬だけでお腹がいっぱいになるくらいに。
どの薬を飲めば何の病気に効果があるのか、私は薬に興味が沸いて調べたことがある。
……いや、それは綺麗ごとだろう。調べたかったのは他のことだった。
とにかく、私は夜の間に、勉強をすることにした。
そしてその間だけ、私は泣くことにした。少しだけスッキリするから。
幸い、周りの同級生たちと違い、娯楽を与えられていない私には、勉強が唯一の現実逃避になったのか、学校の勉強だけでなく、色んなことを知るのが楽しくて、面白いほど理解は進んだ。
家のこと、母のこと。
それらが終わり、ようやく訪れる自分だけの微かな時間。
1分1秒無駄にできない。効率を重視する癖がついてしまった。
その頃には弟も成長していたので私の肩の荷が少しだけ降りたことも幸いだった。自分のことは自分でやるようになったし、介護も手伝ってくれたおかげで、家に帰って出迎える便臭がなくなったのは心底嬉しかった。
そして、一日中ベッドの上で過ごすことをもう何年も続けていた母の体力が弱っていたことも、私の顔が腫れなくなった一つの要因だった。
終わりは突然やってきた。
私が高校卒業の日、母は自殺した。
私の独り立ちを見届けて安心したのか、それとも、高校卒業と同時に家を出る計画をしていたことへの当てつけか。
その何れでもないだろう。最後の方は私のことを他人だと思いこみ、何度か通報していた母が、そんなことを考えることはまずない。
微かに繋がっていた親族や、近所の人は、泣いていた。哀しさからなのか、それとも私たち姉弟に気を使ったからか。
私は、涙を流した。
ただ、未だにその理由は分からない。
全てが終わり、解放されたと思えて安堵したからなのだろうか。
母との別れが悲しいからではない。それだけは断言できる。……とても残念だが。
自分の涙の意味も分からない。
私は心底バカらしくなった。
何もする気になれなくなった。
弟は寮のある高校に入ることになっていた。父の遺産が十分あったのが不幸中の幸いだ。
私は弟を見送った駅からの帰りに、通り魔に殺された。
あとで理事長に聞いた。
あの犯人は私に何か恨みでもあったのか。
理事長は答えた。
一切無関係の人間だと。
ただの無差別殺人だったらしい。私の他にも中学生や小学生、サラリーマンの人が殺されたようだ。
私は霞みゆく視界の中、私の中は母や世界への怒りや恨みで満ち溢れてしまった。
自分は好きなように生きて、勝手に死んで。
私は十八年間、満足に笑うこともできず、いつも何かに怯えて誰かの機嫌を伺って生きてきた。目標も夢も、目的さえない、機械未満の人生だった。
そんな中、私の魂に才能があるということで私は再び生を受けた。
新しい人生、どんなことがあっても私は私を貫く。誰かの顔色など窺いたくもない。
もう泣き寝入りするようなことだけはしたくない。
そして同時に……、私も誰かを愛してみたい。
男女の仲という意味ではない、他人に興味を持ってみたい。その程度だけれど。
そんなこと……いきなり上手にはできないでしょうけどね。
でも、その愛には差がないように心がけたい。私に愛の才があれば、それも可能だろうか。
あぁ、でも……一つだけ、叶わない夢ができてしまったわね。
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――オラァ! どうしたアイサ!? この程度か! あっひゃっひゃっひゃあ!
イノスの視界の中では、セイマが倒れ、タウカンが倒れ、アイサが糸が切れた操り人形のように倒れていた。四肢の関節は逆さに折れ、頭部からは血を流し、服はほとんどが破れている。
アイサが鼻血や鼻水を噴き出しながら泣きじゃくり出した。
ひゃっはぁ! 今更泣こうが額をこすり付けようが貴様だけは許さん。その服を破り捨て裸にして曝し、嬲り者にしてから目玉をくりぬいてやる!――
「……私が毒を扱えるなんて、皮肉な物ね」
アイサが再び笑った。
セイマは、今度ははっきりとその横顔をとらえる。
しかし、まるで零した涙を追うように俯きながら浮かべた嘲笑はセイマに何かを訴えたのか、彼女は胸のあたりをぎゅっと握った。
「――あひゃひゃれひゃひ……!」
イノスの瞳孔が大きく開く。開きすぎで沢山の光を集めているからか、今目の前の現実ではない別の物を見ているように焦点が合わない。
もはや現れた時の気品の良さなど微塵も残っておらず、醜く歪んでいくイノスだった。
「……一体、どうなったんだ?」
顔を覗き込んでいたタウカン少尉が眉間に皺を作った。
痺れた体で倒れたままのイノスの目の前に立っているが、足首を掴もうとさえしてこない。
「楽しい夢でも見てるんじゃない?……命が尽きるまで」
アイサがゆっくりとその場に座り、そして寝転がりながら言った。タウカンの体を回復したこと、そして、イノスの体を回復したことで、貧血気味になったようだ。
「い、命がってお前……。相変わらず無茶苦茶だぜ」
タウカンが苦々しく吐き捨てながらイノスから離れる。
「効果に自信がないから沢山血をかけちゃったのよ。過剰摂取させた状態だから。どんな幻覚を見るのかはわからないわ。個人差があるもの。それこそ神ならぬ、彼のみぞ知るってところかしらね」
「げ、幻覚を見る効果だったんですね!?」
セイマが顔を引きつらせていた。
「ええ。幻覚剤だもの」
「てっきり麻痺の毒かと思ってました。そっか……なんか途中から明らかに興奮してたし、自分もヨレヨレなのにタウカンさん道連れにするとか無茶苦茶なこと言ってたと思ったら……」
「私の口からは一度も麻痺が主たる効果とは言ってないわ。痺れは副作用ね。幻覚を見ながら暴れられたら困るでしょ?」
「ホント、アイサが味方で良かったぜ」
タウカンが苦々しくも、どうにか笑顔を作っているようで、頬を引くつかせながら言う。
「この城の井戸にも毒を盛らせやがって」
「えええ!? あ、アイサさん! やりすぎですよ!」
「私じゃないわ。盛ったのはタウカン少尉様だもの」
「急に持ち上げたって誤魔化されねえぞ。俺だって脅されてたようなもんだからな」
「冗談よ」
相変わらず顔に感情が現れないままいうものだから、冗談とは思えないセイマとタウカンだった。
「でも失礼ね。毒じゃないわ。ただの下剤よ。ちょっと強力なやつだけど」
「げ、下剤、ですか?」
「ええ。だから王都の町の人たちにはほとんど感染は広がらなかったはずだわ。まぁこういう時って自分もそうなんじゃないかって思い込みで病気になっちゃう人がいるけど」
マッサージでも受けてるかのようにうつ伏せになりながら説明するので、今一つ緊張感や説得力に欠けていた。
「そこだけじゃねえ。それで集まってきた兵士の体を利用して色んな実験してただろ?」
「さぁ、なんのことかしら?」
アイサは仰向けになり、王都の町を燃やす炎が半分程茜色に染めた夜空を見上げた。
「この世界の人と呼ばれる人たちの体の構成、情報を調べていただけよ。運ばれてきた人々は分け隔てなくきちんとみんな介抱してあげたし。明日にはみんな元気になるわよ。今も逃げられる程度には元気でしょ? ほとんど兵士なんだし」
「そりゃあ自分で作った薬ですもんね、原因は分かってますもんね……」
「ところでタウカンさん、おんぶしてくださるかしら?」
「そりゃいいけど……」
その了解の速さに、セイマは、タウカンのここまでの約十日間の苦労を感じてしまった。
「どっかに行くのか?」
「イサミくんがまだ戻ってきてないのよ。もしかして――」
その時、大地が揺れた。地面を地底から殴られたように激しく縦に揺れる。
「――な、なんだ!?」
バランスを崩したタウカンが四つん這いになりながら言った。
「あ、あれ見てください!」
尻餅をついたセイマが、そのまま斜め上を指さした。
王城の向こう側――聖域の方面に、天を穿つ光の柱が突如顕現した。
三人が一斉にそちらへと顔を向ける。すると――。
「え!?」
その光の柱――今は瓦礫の山となり果てた王城の影から驚く声が聞こえる。
「み、見つかっちゃいました!?」
「ちょっと! なんで出て行くのよ!」
騒々しい二人のうら若い女の声に、アイサとセイマは眉間を皺寄せ、タウカンは瞼を大きく開かせたのだった。
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申し訳ございません、次回は日曜日になりそうです。それより早く投稿できたらします!
いつも不定期ですみません。




