6時間目 道徳 ⑦
どさりと引っ張り出されたのは、虫の息のタウカン少尉だった。
「ひゃっ!」
セイマが短い悲鳴を漏らした。
赤い血、青い痣、紫の腫れ……おおよそ顔に生じる色の変化が網羅されているタウカンを見て、つい反応してしまったのだろう。
一方で、隣のアイサは黙って見つめていた。
その視線に気づいたのか、タウカンは小さく口を開いた。
「ぐっ……あ、アイサ……」
もしかしたら名前を呼ばれなければ誰だかわからなかっただろう。
「少し合わないうちに随分男前になったわね、タウカン少尉」
アイサは静かに見降ろした。
セイマががくりと肩を落とし、
「そ、そんなこと言ってる場合ですか!? タウカンさんが……」
「あとで治療してあげるから問題ないわ」
「そりゃどうも……お妃様は――」
うつ伏せに倒れているタウカンは、腕を上げたかったのだろうがままならず、右手の手首を軽く曲げるだけにとどまった。
「うぐっ!」
その手をイノスが踏みつける。体の自由が効かないこともあって、躊躇うこともなくかなり乱暴に、虫でも潰すように。
腫れあがった顔は満足に歪むことさえできなかった。
「勝手なおひゃべりは慎んでもらおうきゃ」
イノスは少し痺れに慣れてきたようだった。
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「教えてもらおうか、君の――いや、貴様たちの狙いを」
王妃の部屋の中、イノスは静かに言った。
月明かりに反射する凸面に、タウカンの緊張した面持ちが映る。
タウカンの足の裏は床から浮いていた。
「ね、狙い? そりゃ一体何の話で?」
息苦しさはないようで、地に足をつけていた時と同じように喋っている。重力を操られ、体が浮かんでしまっているようだ。
引きつった笑みのそばを、一筋の脂汗が流れた。
イノスは彼を操る手とは反対の、遊ばせていた手を使って眼鏡を持ち上げた。
「王妃様の私室に忍び込むことが、重罪であることは承知の上だな?」
「え、えぇ!? そ、そうでしたっけ? いやぁ、戦野を駆け回ってる身としてはどうにも王城の礼節に疎くなっちまって」
ナハハ……。誤魔化すことだけを目的にした誘い笑いを付け足した。
当然ながらイノスがつられることはない。
「確たる証拠はないが、」
イノスは腕を伸ばしたまま、一歩前に進む。
「うおっ!」
宙に浮いたタウカン少尉の体は、そのまま、彼が侵入してきた窓の向こうに運ばれてしまう。
少しでもイノスの手元が狂えば、地上へと真っ逆さまだろう。
「わわわわ……!」
必死に両手足をばたばたとさせてもがく様は残念ながらイノスには滑稽にしか映らない。もちろんイノスはくすりともしないが。
「君がこの城の騒動の主犯、もしくはそれと繋がっていることは十分推察できる。それだけでも君を拷問にかける理由に不足はないが、生憎今は議会に諮る時間がない。今すぐ吐いてもらおうか」
「だ、だから何をです?」
「君たちの狙いはなんだ?」
「狙いって。俺ぁただお妃様のことが心配だっただけさぁ。それに、た、たちってなんです? 俺ぁ一人でいましたけど」
「ほう、そういうことか。それならば君がこの惨状の責任を一人で被るということだな?」
「い、一体何のことです? そ、そんなことより大変ですぜイノス宰相! ここは狙われてるんです!」
タウカンの顔色が変わる。先程の下手な芝居と比べても、誤魔化そうとしているわけではない必死さが垣間見えたのか、イノスは少し逡巡の間を置いた。
再びゆっくりと眼鏡を持ち上げる。
「……わかっている。今日が約束の十の夜だ。その為に君から情報を得なくてはな」
「……あんたに話さなくちゃ、俺ぁ殺されるってことですかい?」
胆が座ったように、タウカンは声音を重くした。
「さすがに王都の軍学校を優秀な成績で卒業しただけのことはあるな」
「それなら話しましょう」
「……妙に物分かりが良いな」
「ええ。ここで粘ったとしても、このままじゃどのみち俺まで殺されるんでね」
「何?」
タウカンはイノスから視線を外し、後ろを――王都の上空を振り返った。
「ちぃっ! もう間に合わねえ!」
タウカンはマントの下に隠し持っていた鉤縄を取り出し、屋根へと投げつけた。
「何――」
と、イノスが目を見開いた時には二つの事象が起きた。
一つは、重力を操つられていたタウカン少尉は、無重力に近い状態で浮かび上がり、その自由はイノスが握っていた。
しかし、体の自由まで奪えていたわけではない。タウカンが忍ばせていた鉤とロープをみすみす好きに使わせてしまった。
無重力ということは、弾みさえつけば簡単に動くことができる。
果たして彼の体は颯爽と、窓枠の上に消えてゆく。
そして二つ目。
タウカン少尉がいなくなった夜空の向こうに、突如巨大な隕石が現れ、窓に切り取られた上空を覆いつくしていたことだった。
「ぐっ!」
咄嗟の判断で、イノスはタウカンを操ることを諦め、自身の周囲を囲う力場を発生させた。
直撃したのは主塔。エスポフィリア城のシンボルでもある。それがいとも簡単に壊されてしまった。
イノスが今いる場所は城を正面に観た時左手に位置する塔であり、エスポフィリア城ではその王族たちが居住する空間でもある。右手側は兵士や使用人の控室が配置されていた。
そこと主塔があっさりと崩されるが、左手の塔は直撃を免れる。
しかしその衝撃による地震にも似た揺れは体の自由を奪う。立っているだけでもイノスが戦士としても十分な素養を身に着けていることがわかる。飛散した瓦礫及び衝撃波が急襲してくる。イノスはそれに備えた。
しかし単純な重力操作ではその全ての事象を操ることはできない。
彼の持つもう一つの力である光を操る力により、光の盾を生み出す。
光の重力を操りまるで粘土や布の様に自在に形を造る。
急ごしらえに生まれた光の半球は、岩壁の欠片や硝子片を弾き防いだ。
「こ、これは……!」
が、それまでだった。イノスは明らかにこらえるのに必死だ。
止まぬ激しい地鳴りと崩落音の中、光の盾を展開することしかできなかった。
「予想以上か……!」
現在城の中にはほとんど誰もいない状態だ。アイサからの手紙を警戒して、兵士や使用人たちは全員避難させていた。
もっとも、苦渋の決断だった。敵に背を向けて逃げることになるのだから。
しかしながら、今朝の段階で、兵士及び使用人の健常者の数は病み上がりの者も含めて二十人程度だ。
イノスは、いっそ城を空にするという大胆な手口に出た。そのことは人的被害を最小限に抑えることには成功したと言える。カージョン王も聖域にいる為、この襲撃に対しては無傷でやりすごすこともできた。
ただ、物的被害は計り知れない。城の再建には、多くの年数を要するだろう。
とはいえ、王都に残るわずかながらの兵士や、各地に出向いている師団をかき集めていたとしても、この隕石の吸収を防ぐ手立てはなかったかもしれない。
「――きゃあああああああああ!」
崩壊した音に、妃であるプレア王妃が目を覚まし、悲鳴を上げた。
「なっ、プレア王妃様……っ!」
イノスは瞳孔を開いた。
今のこの状況は、結果として、妃のことも守る形になってしまった。
どこまでが自分の決断通りで、どこまでが相手の描いた筋書き通りなのか……。
鳴りやまぬ喧騒の中、言い知れぬ不安がイノスの足元に影となって浮かび始めていた。
「――ぐああああああああ…………ぉぉぉぉぉおおおおおおおおお!?」
イノスから解放されたタウカン少尉は、鍵縄を使って一度離れようと考えたが、結果として間に合わなかった。
あと数センチのところで、屋根には手が届かなかった。
むしろ城の方がその形状を維持できなかったようだ。主塔が崩れるその衝撃が伝わってきて、揺れによりかぎ爪がころりと外れてしまった。
滑落状態のタウカンの体は、不幸中の幸いか、衝撃波で吹き飛んでしまう。
結果、城の中へと再び放り込まれた。
窓硝子を背中で破り、飛び込んだのは妃の部屋とは別の部屋だった。
「ぐはっ――……っつぁ……!」
声にならない悶絶を唸る。
壁に激突した衝撃、そして鎧の隙間を縫うように硝子片がいくつか刺さったのだ。
悶えている間に、衝撃や地響きが落ち着いていく。
堪えられないほどではない。いつまでも倒れているわけにはいかないとタウカンは小刻みに震えながらも立ち上がる。
「はぁはぁっ……! こ、ここは……?」
部屋の中を観察する。
「お妃様の部屋ではない、か……」
安堵に肩を落とす。妃の部屋ということはイノスがいるということだからだろう。
部屋の中は埃っぽく、古ぼけていた。調度品のデザインが今王都で流行しているものより一世代前の意匠だ。
王都で流行する物は、基本的には王族を真似た上級貴族、そしてさらにそれを真似た下級貴族および町の有力者、そして庶民という流れだ。
ともすればこの空間のセンスが一世代前、つまりは前王の時代で止まっていることがタウカンには分かり、眉間に皺寄せる。
そして机や寝具の寸法が、子ども用であることも彼を怪訝にさせた。
「こんな部屋があったのか……。まぁお妃様の部屋に通うのに必死で他の部屋のことなんか気にもしてなかったからなぁ。……んあ!?」
寝台の上に布団がかぶせられているのだが、明らかに中に人がいる様子だ。
もぞもぞと小動物のように動いていた。
「だ、誰だ!?」
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