6時間目 道徳 ③
「ここか……」
城壁を挟んで外側に出たイサミは、そのまま真っすぐに聖域へと向かう。
不気味なほど静かなその道に、人の灯りは無かった。
一歩進むたびに、周囲の草木や土に音を吸い込まれていくよう。
振り返れば、喧騒が聞こえてきそうな城塞都市の壁と、仄かに紅い光が見えているが、正面は、月の光を染み込ませた青い世界が広がっていた。
聖域と呼ばれていた建物は、先程山の中腹から眺めていた時には気付けなかったが、間に徐かな林が潜む程の距離があった。
林の中に、何かが潜んでいるかもしれないと身を低く構えていたが、林を抜ける頃には背筋は戻していた。何かが飛び出してくることもなく、罠があるわけでもない。
やがて飾り気のない小川にぶつかる。
石橋は綺麗に磨かれており、雨風に晒されていた名残もなく、苔さえなかった。
「死後の世界って言うのかな。冥界へと続く道って案外こんなもんかも……まぁ俺一回死んでるけど」
独り言をいう余裕もできた頃、眼前に聖域と呼ばれし建築物が現れた。
実に簡素なものだった。
壁や硝子などはなく、等間隔に並んだ石柱に支えられた石の屋根。
「これ……」
イサミは既視感を覚えた。「なんか、見たことあるなぁ……教科書? こっちの世界の文化? そんなのも似たりするんだな」
聖域の敷地を二周りほど大きく敷かれた石の床。二重に敷かれていて階段があった。
奥へと誘う石段を一歩登った瞬間、空気が変わる。
濡れた布に触れたかのように肌に怜悧な空気が張り付いてきた。
震えるような寒さではない。
しかし生命の活動を感じない空気だった。
「ん?――」
登り終えたところで、柱の背後から何かが転がり出ているのが見える。
太めの木の枝だろうか――イサミが興味深げに目を細めた。
「……うわっ!?」
人の腕だった。軽く握られた指先が逆に不気味だった。
恐怖心から慎重に近づく。
少しずつ露になる、腕の先。いや、元である体。
ほっと一息ついてしまったが、イサミは自分に喝を入れ、駆け寄る。
「おい、大丈夫か!?」
胸板が上下している様子から息は確認できたが、意識ははっきりしない。呼吸も頼りなく、か細い。
鎧を着ているが、特に目立った外傷はない。鎧自体も綺麗なままだった。
顔つきは若い男だ。しかし、月明りのせいと決めつけるには酷く青白く、目の下はくまのようなものができており、痩せこけていて、精気が奪われているようだ。
「おい! くそっ、どうしたら……――ん?」
倒れていたのは一人だけではない。
「うそだろ……!」
一つの部隊が、突如襲われて壊滅したかのように、多くの人が倒れていた。
「ど、どうすりゃいいんだよ……。あ、アイサ……は、今は無理だろうし、ルミナーラも……くそっ。俺には治癒する力なんてねえのに……」
若い男たちのうめき声が導くのは聖域の奥だった。
暗い視界の先に、小さな光の点が見える。
それを光芒とし、イサミは拳を握った。
「ごめん、後で必ずどうにかすっから!」
誰からも返事は期待していないが、イサミはそう言い残し、奥へと駆け出したのだった。
外界の光が遠のいていく。
現実と虚構の狭間を走っているかのようだった。
近づいているのか、それとも遠ざかっているのか――そんな不安を少しでも感じると、不安は恐怖に姿を変え、胸の裏側を覆いそうになる。
足を止めると、周囲の闇が自分を包んで押しつぶしてしまいそうだ。
点が円となり、そして球となる――そう信じて走り続けた。
そして、その願いは通じた。
光の点は次第に大きくなり、光の色がはっきりし始めた。
七つの色が流動的に変化している。しかし、闇を照らし返すほどの強さはないようだ。
輪郭がはっきりしてきたころには、イサミも息を切らせてしまい、走るのを止めた。
「こ……これ……なんだ?」
目に痛いほどの輝きを放って宙に浮く。
それだけが暗い空間に存在していた。
「いやー! よく来たねえ!」
拍手を添えながらのその一言に、イサミは鋭く息を飲み、左右に顔を動かす。
聞き覚えのある声だった。
「遅かったねぇ、待ってたんだよ?」
光の球体の下から、一人の人物が姿を見せた。
七色に照らされているはずなのに、灰色の瞳は何一つ染まらない。
「その声……やっぱりあんただったんだな……カージョン王……」
イサミはそう言いながら、頭の中では違和感が溢れていた。
「よくわかったねえ?」
王の頬には十字の傷があった。勲章のように堂々としていて、汚点のように憚られるものだった。
目元や声音、肌の印象から推察する年齢よりも老獪に感じてしまう、落ち着いた足取り。
頭髪は血のように赤黒く、何かで固めているのかやたらにぴっちりと整っていた。
ただ、王たるゆえの冠の類は見当たらない。
「何やってたの? 観光かい? つまんない国だろう?」
カージョン王の軽薄な言葉に、イサミは徐々に苛立っていた。
「んなわけねえだろ。あんたが理事長から奪った力、返してもらうぞ」
「理事長?……あぁ、はいはい。あの人ね。へぇ~、理事長なんて呼ばせてるのか君たちには。ハハハ、こりゃ傑作だ!」
怪訝な顔をしたり、閃いて興奮したり、ばか笑いしたり……。
どこまで真剣なのかもわからず、イサミは混乱するばかりだった。
腕に嵌めた籠手が存在感を訴えるように締め付けてくる気がして、イサミは反対の手でつかんだ。
「いやぁ、申し訳ないけどねえ、もう返せないんだよ」
暗い部屋の中、光の球体が姿を変える。皆既日食のような光の環となった。七色の輝きは消え失せ、ブラックホールのよう。
「力はこの中にあるんだけどねぇ、やつの力だけでは足りなかったからねぇ、今別の力を加えているところさ」
カージョン王は口の端を歪ませる。
「別の…………まさ、か。そこで倒れてた人たちって……!」
イサミの瞳孔が開いた。
「そう! よくわかったねぇイサミクン!」
パンパンと手を叩く。革の手袋をはめた手ではあまり音は響かない。
「てめぇ! 一体何やったんだ、みんな死にかけてたじゃねえか!」
「だから魔力……いや、生命力とでもいえばわかりやすいか? それを頂いただけだってぇ。そう怖い顔しないでくれるかなぁ」
両手を振ったり、身を仰け反らせてみたり、芝居がかった仕草がイサミに苛立ちを募らせた。
「人を物みたいに扱う、それがアンタの考えか!」
「なぁに、彼らは皆、王国軍の兵士だ。師団の兵士に、徴兵した者……それも皆、王であるこの私の兵。どうしようと…………私の勝手だ」
王が凄む。
声音が代わり、笑みはそのままだが、妙な圧を放っていた。
だが、今更イサミが怯むこともなかった。
「もう一度言う。今すぐ理事長の力を返せ。あんたの命には興味はない」
「あはっ! はっはっは!」
一方でカージョン王が怯むこともまたなかった。再び他人をバカにしたように笑いだす。
「いいねえ、随分な言い方じゃないか。それって僕の命くらい、自由にできるってことでしょ? 怒りが溢れてるね。君の生命力もいただきたいくらいだ。そうすれば完璧になる!」
「……それが答えだな」
イサミは数珠を外し、仕舞っていた刀をその輪の中から再び取り出して、構えた。
「いいぞ。そうだ。僕を止めたければ殺すしかない!」
紅いマントを翻した王は、鎧を纏っていた。
王国軍のものとも、トリヒスたちが着けていた旧王家の物とも違う。
そもそも、紋章は無かった。
深い海のように青い色をした鎧だった。
そして、王もまた、剣を構える。
諸刃の剣。
その出で立ちはまさしく――勇者のようだった。
「こんな形で……出会いたくなかったぜ」
イサミが柄を握る手に一層の力を込める。
鍔に埋め込まれた緑色の宝石は、光を灯っていなかった。
「世界を救った勇者によぉおおおおおおおおお!!」
「連れないこと言うなよイサミくん。僕は君と会えるのを楽しみにしてたんだからさあああああああ!」
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