5時間目 算数・課外授業 後①
ホリックの町では、そこかしこに倒木のごとく虚ろな人々は倒れていて、あちこちから届くイサミたちへの罵声に刺激されたその人々は、次々と立ち上がってくる。更には慣れない土地を逃げ回る地の利のなさも重なり、イサミたちは気づけば袋小路に追いやられてしまった。
――できる限り、無関係な民を傷つけたくはない――
そう言っていたルミナーラを隣に置きながら、抜きたくはなかった刀を抜かざるを得ない状況だった。
「ルミナーラ、悪いけど向こうは待ってくれそうにないぜ」
「…………」
ルミナーラは返事をしなかった。
できないのだろうとイサミは感じた。彼女が悔し気に口の端を噛みしめていたから。
イサミは左手首の数珠を外し、その輪の中に右手を突っ込み、刀を取り出す。
町の連中はそれを見て怯むことはない。それが何かもわかっていないのかもしれないが、虚ろな目には、鋼色の刃が映るだけだった。
ルミナーラを守るためだ。――イサミは自分にそう言い聞かせ、柄を強く握った。
「――こっちだ!」
その時、背後の壁――高い塀の上に見えたアパートのような建物の窓から、一人の青年が手を伸ばしてくる。
咄嗟の出来事だった。
その人物が自分たちにとって味方なのか敵なのか、判断をする暇もなかった。
イサミはルミナーラを抱え、塀を登らせる。
「わっ!? イサミ何を――」
問答無用。
イサミの慎重より頭一つ分高い塀を、頭三つ分かそれ以上背が低い彼女が一人で登れるわけがない。
ルミナーラの尻や足を押して登らせる。
「きゃっ!」
元来の声質もあるが、ルミナーラはいつも大人しい声で話すので、甲高い女の子らしい悲鳴を聞くのは初めてだった。
「い、イサミ! どこを触ってるのだ!」
と顔を真っ赤にするルミナーラ。たまらずイサミも写ったように顔を赤くしながらも、
「後でいくらでも謝るから今は我慢しろ!」
どうにか塀の上によじ登ったルミナーラは、息つく間もなく青年に腕を引かれて窓の中に引きずり込まれていく。
そしてそれを追いかけるようにイサミもまた塀をよじ登る。
縁に足をかけた時振り返ると、町の人々の群れの向こう側にも、先程の青年と同じような雰囲気の男たちが現れ、虚ろな人々を威嚇するように何かを叫び、剥すようになぎ倒していた。
味方か?――おっと。
壁を登ろうとはしてこない群れだったが、イサミの足首に手を伸ばしてくる。
イサミは急いで自分も窓の中に飛び込んだ。
「ぐっ!」
体の側面から落下し、鈍い声を漏らした。
「いてて……ふぅ、でも助かっ――」
イサミの周りを、多くの青年たちが半円状に囲んでいた。皆一様に口元をバンダナのような布で覆い隠している。目は見える。虚ろだったり汚れていたりなどはいない。
手には剣やナイフが握られていた。いずれの先端も自分へと向けられていて、ある種の壮観ささえイサミは覚えた。
自分を囲う青年たちの中心、イサミの目の前には、その首元にナイフを突きつけられたルミナーラがいたのだった。
「……ってはない感じ?」
「一緒に来てもらおうか、町長がお呼びだ」
逃げ込んだ建物の中は比較的新しい雰囲気を放っていた。
そもそもこの町は、これまで訪れた村などと違って、木造の建築物はほとんどなく、煉瓦や石膏などで作られていることも目を引いた。ただ荒んでいたため、新しさというものは感じなかったが、ここは壁の色褪せや窓の日焼け具合を見てもそれほど年月が経っていないように感じた。
横長の三階建て。前後を覆面の青年たちに挟まれながら進んでいく。廊下の片側は窓、もう片側には扉が等間隔に並んでいて、ホテルのようだった。
やがて青年たちが足を止め、目的地にたどり着いたのがわかる。
それまでの一枚扉とは違い、左右二枚の扉があった。
部屋の中は殺風景で、特に何もない。空間だけがそこにある。扉から見て正面の壁上部には見たことのある紋章が掲げられていた。
「あれは……」
イサミは、ルミナーラに貰った腕輪の紋章と見比べる。
「王家の紋章だ……」
イサミたちの前にいた青年たちがさっと左右に離れていく。
露になった正面、そこに一人の影があった。
「マニティ町長だ」
青年のうち誰かが言った。
立ち止まっていたイサミとルミナーラだったが、後ろにいた青年たちに背中を小突かれ、恐る恐る近づいていく。
マニティ町長は憮然としたような、疲れたような表情だった。少なくとも楽しくも嬉しくもないのだろうことはイサミたちにも分かった。
「手荒な真似をしたことは詫びよう。余計な手間を取りたくなかったからな」
マニティ町長は目鼻立ちがはっきりしていて、鼻は大きく眉も太い。しかし、体は細かった。
そこでふと、イサミは横に並ぶ青年たちに目を向ける。
彼らも明らかに細い。栄養が足りていないことは火を見るよりも明らかだった。
老齢による痩身ではないことはその真っすぐな背筋が証明している。
イサミはほっと息を吐いた。
町長がまともそうな人だったことも一つの理由だが、それ以外にも彼が安堵した理由がある。
「この世界にも、若い男の人がいたんだな」
ほっと息を吐くように呟いた言葉にマニティ町長はまぶたをぴくりと動かした。
「徴兵のことか? この町にそんなものが求められるわけないだろ」
町長の苛立ちにも似た嫌悪感が言葉に込められている。
「徴兵?」
今度はイサミが訊き返す。マニティの二・三会話を飛ばした回答は理解できなかった。
怪訝そうな顔を浮かべるイサミにマニティは厭味ったらしくため息を吐くと、イサミとセイマを改めてじろじろと確認するように眺めた。太い眉の片方を持ち上げて、
「時折、お前たちのような世間知らずの都会者が道に迷ってか紛れ込んでくる。そのおかげで連中が興奮しちまって……。こりゃ、明日は怪我人の看病に追われるだろうな」
両手のひらを天井に見せつつ、舌打ちで言葉を締めくくる。
イサミはその態度に恐怖よりも苛立ちが募り始めた。
――確かに何も知らねぇし、いきなり来て騒ぎを起こした結果になったのは悪いけどよ、全部俺たちのせいにされるのもおかしくね?
「……あの人たちって、なんなんすか?」
それでも一応窮地を救ってくれた恩人であることは変わりない。怒りを飲み込み、感情が表に出ないよう慎重に訊ねた。
「はぁ……。そんなことも知らないのか?」
イサミの目の下がぴくりと震えた。
「し、知ってますよ。魔素が体に蓄積した、中毒者なんでしょ」
知ってるっての。まぁさっき聞いたばっかりだけど。でも一応会話として訊ねただけだろ……!
「知ったようなことを」
「はぁ!? あんたが訊いてきたん――っ!」
結局我慢ができずに声を荒げてしまう。
が、すぐに周りの覆面青年たちがナイフを突きつけてきたので、青い顔で声を飲む結末となった。
「――……そ、そっちが訊いてきたんでしょ……」
マニティ町長は口元を真一文字に結び、言う。
「……今のは、周りの若い衆の心境だ」
周りの?――イサミは改めて周囲を窺う。
青年たちがイサミを殺さんばかりに睨んでいた。
その視線に、単なる怒りだけが込められているなら、イサミもにらみ返していたかもしれないが、彼は目を見張った。それは青年たちの表情にどこか哀愁を感じてしまったからだった。
「……っ、な、なんだよ……」
「こいつらは、ある意味で先の争乱の被害者だ」
イサミが怒りをしぼませたのを察してか、町長は続けた。
「ある意味で被害者……?」
聞き返したのはこれまで沈黙を貫いていたルミナーラだった。
「あぁ。魔素の中毒者と一言で言うのは簡単だ。じゃあその魔素はどこから発生している?」
ルミナーラは口元に手を当て、考え込むようにして何も言わない。
代わりにイサミがつい口を開く。
「そ、それは……だってこの辺りは、先の争乱の時には邪神官たちの支配下にあったから、魔素が充満していたとか……だろ?」
同意を求めるように、イサミはルミナーラを伺う。
しかし、彼女のつぶらな瞳は彼に視線を返すこともせず、ただ小さく震えていた。
「ふざけるな!」
声を荒げたのは周囲の青年たちだった。
「なにてめぇたちは無関係みたいな顔してんだよ!」
「おめえら王国軍の連中も暴れたんじゃねえか!」
そのうちの一人が詰め寄り、イサミの襟を掴む。
「ぐっ……! は、離せよ!」
「やめろカイン」
マニティにカインと呼ばれた青年は今にも殴ろうと振りかぶっていた拳を降ろし、もう片方の手でつかんでいたイサミの襟を投げ捨てる。
イサミがよろめいている間に後ろに戻り、近くの壁を殴っていた。
「気持ちは分かるが、こいつらは何も知らないんだ」
マニティの声もまた、優しくも哀しげなものだった。垂れ下がった太い眉毛は彼の感情を分かりやすくしていた。
「……魔術を操り、戦ったのは王国軍も同じ。その影響も少なからずあるということか」
ルミナーラが訊ねた。
「……そうだ」
町長は重く肯く。「その腕輪の紋章、お前たち王族の関係者だろう」
イサミはつい咄嗟に右腕の腕輪を左手で包むように隠したが、マニティは鼻で笑った。
「争乱は納まったが、町に充満した魔素は一向に減らない。それらは時に雨を染めて降り注ぎ、大地に染み、川に流れつき……知らず知らずのうちに我々の体をむしばんでいく。みんな明日は我が身と思いながら、日々を生きている。町の治安維持と農作業や漁、まだ動けるやつらが交代しながらどうにか食いつないでるんだ」
「王国軍は何もしなかったのかよ」
「……浄化のための魔術師を派遣したとは連絡があった。しかし、ルインズの村でその魔術師が事故に遭ったらしい。浄化の力は誰もが持ち得るものではないからな。でもそれ以来、何の音沙汰もない。それ以来、毎日こんな日々だ」
窓の向こうは夕焼けも深まっていて、血のように紅い空になっていた。
静寂が部屋にゆっくりと降りる。
殺気を漲らせていた青年たちも、気づけば萎れたように佇むだけとなっていた。
「……すんませんでした」
イサミは頭を下げた。
マニティたちはそんな彼のいきなりの行動に身構えた。青年の一人が「何をする気だ?」と呟いた。頭を下げるという文化がないのかもしれない。
隣のルミナーラもやたらに驚き目を丸くしていた。
しかしイサミは構わず続ける。
「わかったような気になって、知ったようなこと言ってました」
マニティは緊張した体を解し、顎に手を当てた。丸く太い指の先は黒ずんでいた。
「……いや、お前は異国のものだろう。知らなくて当然だ。どういう理由でその腕輪を持っているのか気にはなるが……」
日焼けした肌の中では、白い眼球の動きはよく目立った。ルミナーラを一瞬見たが、すぐにイサミに目を戻す。「ま、俺たちには関係のないことだ」
マニティは青年たちに目を向けて、それぞれと目を合わせていた。
その頃にはイサミも頭を上げる。
「……でもどうして、そのことを俺たちに話してくれたんすか?」
そしてふと感じた疑問を口にした。
マニティは頭をかきながら、初めて微笑を浮かべた。
「お前たちが知らなかったことに腹も立ったし、絶望もした。だが、だからこそ、知ってもらいたかったし、お前たちから多くの人に伝えてもらいたいと思ったんだ」
言葉の終わりに、マニティはもう一度ルミナーラを見た。
マニティは町長である以上、イサミの手配書、いやそれ以前のルミナーラの手配書を見たことがあるのかもしれない。
だが、特に捕まえようとはしない。
むしろ助け、そして今の言葉の意味は、先の様子もふまえると、ルミナーラの正体が何かを知ったうえでの言葉だったのかもしれない。彼女はくっと手を握る力を込める。
「どうして皆ここを離れないのだ?」
ルミナーラは掠れた声で言った。
マニティはゆっくりと窓辺に向かう。窓の下ではまだイサミたちを探すようにうろつき周る町の人と、それを倒す――のではなく、可能な限りなだめつつ座らせている青年たちの姿があった。
「襲ってきた連中の中に、額に傷を負っていた奴がいたか?」
「額の傷?」
割と誰も彼もが怪我だったり、服装がみずぼらしかったりしていたし、何分必死に逃げていたのでイサミは思い出せないでいた。
「あっ」
と先に思い出したのはルミナーラだった。いまだに唸っているイサミのYシャツの脇腹を掴みつつ、「ほら、初めの頃に追いかけてきたやつだ」
そこでイサミの頭の中にも微かに思い出されてきた。細かい服装などまでは思い出せないが、傷のある男はなんとなく浮かんだ。
「あぁ、確かにいたかも。で、その人がどうしたんすか?」
「あれは俺の親友だ」
世界の音が死ぬ。
イサミの視界から音が消えたようだった。
その場にいた全ての者が呼吸を止めたようだった。
マニティは自嘲的な笑みを浮かべつつ続けた。
「今ではもう、俺のことなんか顔を見ても思い出しもしないがな」
青年の誰かが鼻を啜る音がする。
「この町の被害者たちはみんな、この町で共に泣いたり笑ったりしてきた仲間、それに親や兄妹なんかの家族だ。見捨てられるわけねえだろ」
誰かの嗚咽が吹きだした。
「……今日はここに泊まっていけ。夜はもっと危険だ。まぁ大したもてなしはできないがな」
そこでもう一度、マニティは鼻で笑ったのだった。
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