4時間目 休み時間
地面は常にぬかるんでいるようにねちゃねちゃと濃い茶色をしたルインズの村。しかしその上空ではすっかり陽も昇り、青さが広がっていた。
「難を逃れておるかもしれん。皆のもの、油断するな」
エッジの掛け声に、ルミナーラの側近たちはもちろんのこと、イサミとセイマも緊張感を高め、周囲に目を光らせる。
黙っていると、いまだに慣れない臭気に鼻が歪みそうになる。
「セイマ、大丈夫か?」
「イサミさんこそ……、私、目の前に来られたら戦えないんで守ってください」
セイマはローブの袖の端をきゅっと握ってイサミを上目遣いに捉えた。
「守られる側なのかよ!?」
「そ、そりゃあ私だって……」
セイマは首を少し捻ってちらりと視界の端にルミナーラ姫を捉える。
ルミナーラはその幼い顔立ちに、細めた双眸を乗せて周囲を伺っていた。右の目尻にある小さなほくろが他人に大人びた印象を与える。
「私だって、ルミナーラさんを放っておいてもいいとは思いませんけど……、カッコつけちゃって一緒になって王都に乗り込むなんて言い出したのはイサミさんなんですからねっ」
「バッ、別にカッコなんてつけてねーよ」
イサミの顔が瞬時に赤くなる。
「そーですか? お姫様が可愛くてついとか……」
セイマはルミナーラとは別の意図で目を細めてじとりとイサミを見つめた。「でもちょっとイサミさんとは年が離れてるとは思いますけど。多分十歳くらいですよ?」
「だからんな下心ないっての……。へっ。恋愛に年齢なんて関係ないぜ。まだまだセイマもガキだな」
「あー酷い! じゃあ今度会ったらあのレニさんに言ってもいいんですね? 絶対ナイフで背中を刺されますよ」
「絶対なのかよ。だったら言わないでくれ!――つーか、アイサも賛成してただろ」
話題から逃げるようにイサミはアイサの名を出す。
セイマは痛いところをつかれたとばかりに、うっと顎を引いた。
「正直に言ってまさかアイサさんが賛成されるとは思ってませんでした……」
「……まぁ俺も、皮肉の一つは言ってくるかと思ってたけど……」
イサミもまた、苦笑を浮かべるのだった。「『いいんじゃない?』の一言だったもんなぁ」
「――そういうことね」
トリヒスが読み上げた石碑の文章を聞き終え、アイサは静かに言った。
石碑は丁寧に磨かれた石の台座に置かれており、丸く磨かれた白い砂利が敷き詰められていた。
その周囲は綺麗な芝が生え、雑草の一つも見当たらない。
彫られている言語はフィラデルフィア王国の公用語で、アイサがどれほどイヤリングにした『ヘルメスの涙』を指でつつこうとも光ることはなかった。
「『王家のあやまち』……。二つの意味でってことかしら?」
アイサは読めぬ文字を眺めながら、石碑へと問いかけるように呟く。
「……」
翻訳を終えたトリヒスは、険しい顔を浮かべるだけで、何も答えなかった。
「ごめんなさいね。別に嫌な思いをさせたかったわけじゃないわ」
「あ、いえ……。正直に申しまして、我々にも不明な点もあるのです」
「……戻りましょうか。お姫様たちの方も気になるし」
「そうですね。シセリーをこちらによこしたのは恐らく昨日やってきた伝令の者たちでしょう。姫様のことも知っておりました。村の方も雲行きが怪しいかもしれません」
トリヒスは空の向こうを見上げたのだった。
緩やかな風が吹き、枯草をかさかさと運ぶ。
青い空の下にはいつの間にかどこからか白い雲がぷかぷかと流れ着いていた。
「…………」
「…………」
…………。
「……ぜ、全然来ないな……」
思わずイサミが苦々しくこぼす。
フーリィが苦笑を浮かべた。
「ま、まぁそれならそれでいいです。直撃したかもしれないですね。あの衝撃なら掠っただけでも吹き飛んでそうですし……」
村を囲う林の中から、小鳥が飛び立ち、歌うようにちちちと鳴いた。
「……うむ。まぁ……ごほん。とにかく、斥侯の二人が戻るまでは油断するな」
エッジが一応の威厳を保ちながらそう言ったのだった。
タウカン少尉たちは、すでにルインズ村の南手の山の中腹からは離れており、今は『王家のあやまち』のそばへとたどり着いていた。
アイサたちが通った道とは違い、南方の山道からぐるりと遠回りにやってきた。
今は、窪地の南側にタウカンたち四人はいて、東側に石碑が、西側にはルインズの村へと向かう道が存在している。
石碑の方へ迂闊に近づくと、指名手配の片割れにでも遭遇しかねない。
慎重に左手へと向かった。
「――せ、先生っ!」
やがて、村への道に出くわす頃、横たわるシセリーが見つかった。
仰向けになり、胸のあたりに両手を重ねるように置かれている姿勢に、一同は血相を変えて群がった。
シセリーの骨太い大きな手は、胸元の凹んだ紋章を隠すようだった。彼と並ぶように寝かされた自慢の槍は穂先をひん曲げられていた。
そばに膝をつき、口々にシセリーへ呼びかける。
しかし、すでに息は無かった。
「治癒術を――」
小太りの兵士が鎧の籠手を外そうとするが、タウカンが無言のまま手で制す。
シセリーの口元には幾分か拭われていたが筋状の乾いた血や唾液の汚れが残っていた。倒しておきながら、看取るような真似をしていることに、タウカンは戸惑うばかりだった。
部下三人は固唾を飲むことしかできなかった。
「タウカン少尉……これは……どういうことでしょうか?」
部下たちの視線がタウカンに集まる。
タウカンは黙ってゆっくりと立ちあがった。
「俺たちは、とんだ勘違いをしていた……」
「か、勘違いっすか?」
「ど、どういうことですかぬ?」
「やつらを相手にするのに、こんな少人数ではどうしもようねえ。師団の一つでもお出ましいただかねえと太刀打ちできねぇ……」
絞り出したタウカンの言葉に、部下たちは歯を食いしばることしかできなかった。
その時、ふと一人が気づく。
対岸とも言える窪地の向こう側に、人影が見えたことに。
「少尉! あちらがまさか……」
「ん?――あっ、あいつらか?」
まだ人の輪郭をしているだけしかわからない。どんな背格好をしているのかなどは判別はつかない。
「やっぱいやがったか……しかし、た、たったの二人で先生を倒したってのか!?」
――先生は昨年の闘技大会の覇者だぞ? てっきりもう二・三人はいるのかと思ったが……鎧は胸んとこ以外、ほとんど争った形跡はねえ。槍だけが歪に曲がってるが…………どうなってやがる……?
「ぷはははっ」
タウカンの思考を、部下の一人の笑い声がかき乱す。「のんきに歩いてるぬ。こっちに見られてるとも気付かずぬ」
「……ヴァカ! っつーことはこっちも見られてるってことだろ!」
タウカンは急いで林に身を隠す。部下たち三名も慌ててがさがさと飛び込んだ。
「ですが少尉、先のルインズの村にいた連中と同程度の力を持っているのであれば、魔術の類を操れるのでは? 隠れても無駄かもしれません」
「……な、なぜそれをもっと早く言わんのだ! 逃げるぞ」
「でもっすよ? まだあの人影がシセリー様をやっつけたやつらとは決まったわけではないっすからね、様子見ってことっすか?」
「…………そ、そのとおーり! そうじゃなかったら何か目撃してるかもしれん。こっちに近づいてから判断するが、もし無関係なやつなら話を聞きだすぞ。情報は武器だ。覚えとけ」
「だけども、こんな辺鄙なところに、無関係のやつがいますかぬ? この辺りは本来国王の許可なく立ち入ることは禁止されてますぬん」
「………………いいい、今更どうこうできぬわい! 大人しく隠れてろ!」
「――あれは?」
アイサがぽつりと訊ねた。帰り道の途上、自分たちが戦った場所に4人の人影が見えた。
「……あの鎧は」
トリヒスが目を凝らす。見慣れた色使いに記憶が刺激されたのだろう。
「恐らく、王国の兵士ですね。シセリーの仲間かもしれません。時間的には昨日村に来た伝令たちと考えられます。王都から新しい兵士が来るとなっても、馬でさえ五日は必要ですから」
トリヒスはそう語りながらふうと小さく息を吐く。ルミナーラのいる村にではなく、こちらに来ていたことに安堵したかのよう。
「近隣の村には常駐兵の可能性は?」
「いるにはいるのですが、ここには不必要に近づくことはできませんし、配置されている町村から不必要には出てきません」
「ふーん……」
淡々と4つの影を見据えて訪ねてくるアイサに、トリヒスは戸惑いを禁じ得なかった。
構えたり、興奮してみせる様子はなく、ただ確認してくるのが不気味だった。
何と答えるべきかと迷っている間に、4つの影が林の中に消えた。
「あら?……引き返したのかしら?」
「わかりません……。どうしますか? 少し遠回りして、危険を回避しますか?」
「時間が惜しいわ。イサミくんたち待たせてるし」
アイサは歩き出したので、トリヒスも追うしかなかった。
「エッジ様ぁ!」
斥侯に出していた側近の二人が無事に戻ってきたので、ルミナーラも含め、周囲を囲っていたイサミたちはほっと肩を落とした。
「――なに?」
エッジは渋面を浮かべた。「やはりすでにいなくなっておったか」
「遺体の類はありませんでした。木がなぎ倒されていたり、数体の獣の死骸があったくらいです」
「あわばばば……! ど、どうしましょうイサミさん」
セイマが涙目になってイサミの腕を掴む。
「無関係なクマさんや小鳥さんを私……!」
「そんな童話の世界みたいな獣なの? いや、ていうか……」
人は平気なのか……。
「フーリィさん、その魔力の気配で追えないんすか?」
イサミが尋ねるが、フーリィは首を左右に振る。
「さすがに動いていたらね。それほど魔力がある方でもなかったし……それに、」
フーリィは苦笑を浮かべつつ、イサミとセイマを見やる。
「あなたたち二人の気力の方が強すぎて追いきれないわ」
その一言にイサミとセイマは互いに顔を見合わせた。
他の側近たちの中にも同じような苦い表情を浮かべるものがいたので、何かの冗談ではないとイサミは確信した。
ぼんやり訪れた妙な空気を読んでか、崩れた囲いの中からルミナーラが一歩前に出た。
「ひとまず、準備を進めよう。王都までは長い道のりになる」
『はっ!』
側近たちが自分の腰の高さほどしかない背丈の少女に膝をつき、声を揃えた。
イサミはぐっと固い唾を飲む。何度も理解したつもりだが、不意に訪れる目の前の幼い少女の背負う血統の具現化に、怯んでしまうのだった。
それからしばらくは、イサミたちも雑用を手伝っていた。旅立ちに際して必要な荷物を件の洞窟から運び出している。
「――へー。王都にはそんな美味そうなもんがあるんすね」
イサミがだらしなく口を開く。
「そうじゃ。お主らの国にはなかろうて。エスポフィリア王国にしか生息せぬ鳥じゃからな」
エッジは得意げになって、鼻の下に伸びた髭をさする。
「なんだかお腹が減りましたね……」
セイマがお腹をさすった。昨日からろくに物を食べていない。しかし、この村の貧しさを踏まえれば、イサミたち三人はとても「食べ物が欲しい」とは言い出せなかった。
セイマのその一言に顔を曇らせたルミナーラは、それでも弱々しく微笑み、
「この先のシクーバの町に行けば食事を出す宿屋もいくらかあるだろう……。少しは金の貯えもある。せめてもの礼として、馳走させてもらおう」
「え? あ、い、いいえ。大丈夫ですよ姫様」
セイマは顔を赤くして慌てて断る。
あーあ……と口には出さないがイサミは苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべていた。後ろにいたセイマはそれには気付かず、
「あっ!」
と別の何かに気付き、前方を指さした。
村の先の道から姿を見せたのはアイサとトリヒスだった。
そして――。
「思わぬ収穫になったわ」
次第に道の脇から姿を見せたのは、縄で仲良く繋がれた四人の兵士の姿だった。




