第90話 『Season in the Sea (12)』
前方の信号が“青”に変わると同時に、再び動き出した“のんちゃん号”。
みるみるうちに、法定速度ピッタリまでスピードアップした“のんちゃん号”は、真っ直ぐに伸びる国道を突き進んでいく。
国道沿いの民家からもれる明かり。
夜間稼働中の工場からもれる明かり。
そして、コンビニエンスストアからは24時間消えることのない明かり。
それらの明かりが、窓の外を次々に通り過ぎていく様は、なんとなく気持ちを感傷的にさせる。
だが、“りん”は、そんな幻想的な明かりを気に留めることなく、大吾の横顔を見つめていた。
『その子はね……小さい頃から、いろいろと辛い思いをしている子だから……』
再び和宏の頭の中にリフレインする、先ほどの大吾の台詞。
しかし、いつも見るのどかの笑顔と、大吾の言う“辛い思い”とやらが、和宏の中ではうまくつながらない。
“りん”の膝枕で、スヤスヤと眠るのどかの寝顔を見ても……やはり想像すらつかない。
“りん”は、のどかの髪を撫ぜ続けながら、大吾の言葉を待った。
「のどかが2歳の頃だったかな。のどかの物心がつく前……母親が死んだんだ」
「……」
「で……、それからは、ずっと家族三人でやってきたんだけどね……」
「三人!?」
“りん”は、思わず声を上げた。
のどかとの会話の中で、のどかの家族の話をしたことがあるにはあったが、それは、現在父親の大吾と二人で暮らしているという話を聞いたくらいのものだった。
“母親の死”のことも、“もう一人の家族”のことも、和宏にとっては……初耳だ。
「オレとのどかと……のどかの兄貴と」
「兄!?」
そう聞き返す“りん”の声は、完全に裏返っていた。
自分で出した大きな声に、自分でビックリしながら、慌てて右手で口を押さえつける。
のどかが起きてしまったのではないか……念のため、様子を窺ったが、幸い目を覚ましてはいなかった。
大吾が言うには、のどかは一度寝たらなかなか目を覚まさないという。
となると、逆に、起こす方が大変なのかもしれない。
「仲のいい兄妹だったよ。見てて微笑ましくなるくらい……ね」
「……だっ……た?」
大吾の言い回しに、違和感を持った和宏は、首を傾げながら聞き返した。
そんな“りん”の疑問の声に対し、大吾の目つきが、少しばかり悲しみを帯びた……遠くを見るものに変わった。
「……死んだよ。……もう4年くらい前になるかな……」
「……っ!」
和宏にとって、今日一番の衝撃だった。
兄がいたこともさることながら、その兄がもう死んでいたということに。
「……“その”直後は……痛々しくて見ていられなかったよ……」
心の拠り所だった兄の死。
早くに母を亡くし、仲の良かった兄をも亡くした……遺されたのどかにとって、それはどれほど辛く悲しいことであったろう。
「ただでさえ片親で寂しかっただろうに……。大好きだった兄までが死んでしまうなんて……ね。きっと相当なショックだったと思うんだ」
一人っ子の和宏には、兄弟を亡くした辛さはわからない。
しかし、和宏もまた、“りん”になる前……“和宏”の母親を病気で亡くしている。
その直後は、ひどく落ち込んだだけことだけは、よく覚えていた。
「……それに……」
(……?)
大吾が不意に漏らした一言によって、“りん”の瞳の中にほのかな疑問の色が混じる。
それに気付いてか気付かずか……だが、大吾の表情にはわずかな狼狽が浮かんだ。
余計なことを口走ってしまった……まるで、そう言わんばかりに。
慌てて大吾は口調と話題を変えた。
「イヤ……ま、まぁ……その……“いろいろ”あってね。……それでコッチに引っ越してきたんだよ」
「……引越し……ですか?」
「そうなんだ。今あるのんちゃん堂は、引っ越してきた時に新築した建物なのさ」
和宏は、のんちゃん堂の店構えを思い出した。
確かに、店の建物自体は、比較的新しい感じ(第54話参照)だったし、その建物と比較すると、暖簾の年季の入り方が異常だった。
だが、のんちゃん堂が、もっと昔からある店で、引越ししてきた際に、暖簾を持ってきたのだとすると……つじつまが合う。
「ただ……コッチに引っ越してきて、なかなか学校で友だちと打ち解けなくてね。高校に進学してからも、人に対して壁を作ってるというか……ね」
(……?)
和宏にとっては、のどかに対して、そういうイメージはない。
しかし、以前沙紀と東子が言っていた(第50話参照)ように、“のどかはあまり笑わない”というイメージを持っている生徒も多いようだ。
だとすると、“人に対して壁を作っている”というのも、案外本当のことかもしれない……と和宏は思った。
「……そんな時にりんちゃんたちが来てくれたってわけだ」
ずっと真面目だった大吾の顔つきが、ようやく緩んだ。
作り物の笑顔ではなく、心の底からの笑顔で笑いあえる友だち。
きっと大吾は、のどかにとって“りん”、沙紀、東子は、そういう存在だと感じ取ったのだろう。
「正直、親としてめちゃくちゃ嬉しかったよ。ようやくショックから立ち直ってくれたのか……ってね」
相変らず前方を見ている大吾の目が、嬉しげに細くなる。
その表情は、明らかに親の顔だ。
(……良い親父さんだな……本当に)
のどかと大吾の仲の良さは、以前から感じていた。
大吾の懐の深さが、のどかを包み込んでいる……今日、この話を聞いてみて、そんな印象さえ受ける。
いつの間にか、窓の外を流れる景色は、見覚えのある風景に変わっていた。
間もなく、“りん”の家に到着しそうである。
「う……んん……」
突然、“りん”の太ももを枕にして寝入っているのどかが、モゾリと動いた。
もちろん“起きた”……というわけではなく、寝言ともに、ちょっと体勢を変えただけのようだ。
以前、のどかが寝相が悪い……と言っていたことを、ふと思い出した和宏は、「確かにそうかもしれない」と、クスクス笑いが込み上げてくるのを感じた。
『わたしもそうだから』
“りん”とのどかが初めて出会い、“りん”の中身が、実は“男”だと知られた時、のどかはそう言った。
そうだ……のどかの中身もまた“男”のはずなのだ。
それなのに、和宏の心は、時としてのどかにかき乱される……今日のように。
(……一体、お前は何者なんだよ……?)
和宏は、のどかの寝顔を見ながら思った。
どこから来たんだ?
お前の名前は?
今まで、どんな思いで過ごしてきた?
そして……これからどこへいく?
次から次に和宏の頭を駆け巡る疑問。
だが、和宏が辿り着いたのは、救いようのない……ため息の出るような結論だった。
―――俺は、のどかのことをまだ何も知らない……。
かすかに聞こえるのどかの寝息を聞きながら、“りん”は窓越しに夜空を見上げた。
瞬く星たちと、半円に近い下弦の月。
その月明かりは、のどかの寝顔を青白く照らしていた。