第8話 『のどか (3)』 改訂版
「今日は早く寝るのよ」
和宏が、保健室を後にしようとした時、野口はニコヤカな顔でそう言った。
まるで母親のような台詞。
やはり、あの発作は寝不足が原因……ということになってしまっているようだ。
今はもうすでに、目まいもなく、頭痛のカケラもない。体調はすっかり回復している。
とはいえ、慣れない体験の連続に、精神的に疲れを感じてもいた。
和宏は、とりあえず家に帰ってゆっくりすることにしよう……と思った。
ちなみに、沙紀と東子は、部活をサボっていたところをセンパイに発見され、首根っこをつかまれて体育館に連行されていった。
かわいそうに……という気持ちが起きないでもなかったが、基本的には自業自得である。
和宏が二年A組の教室に戻ると、もう他の生徒の姿はなく、ガランとしていた。
縦列と横列がキレイに揃えられた机と、隅々まで雑巾掛けされた床。
もう清掃が終わっていることが一目瞭然だった。
自分の席に戻った和宏は、何気なしに鞄を抱えながら黒板を見た。
そこには、すでに明日の日直の名前が二名分書かれていた。
“萱坂”と“井上”。
萱坂という苗字の生徒は、この二年A組には“萱坂りん”一人しかいない。
和宏は、その黒板を見つめながら、しばし呆けた。
“今、俺が巻き込まれている、この現象は一体なんなのか?”
朝から息をつく間もなく、いろんなことが起きていたこともあり、この事態を深く考えることすら出来なかったが、改めて考えるととんでもなく突拍子のない話だった。
今、和宏の精神は“萱坂りん”の中にいる。
ならば“瀬乃江和宏”の中には、一体誰の精神が入っているのか。
いや、そもそも“瀬乃江和宏”の身体はどこにあるのか。
何もかもが――“わからない”。
込み上げてくる漠然とした不安。
頭に浮かんでくるのは、ぶっきらぼうで無口な父親の顔、気のいい友人たちの顔、一緒に甲子園を目指して戦うチームメイトたちの顔。
もし、このまま元に戻れなかったとしたら、その全てを失うことになる。
甲子園を目指す権利すらも――。
それは、和宏にとって「はい、そうですか」と簡単に割り切れることでは決してない。
(バカな。ずっとこのままなんて……。そんなことあるわけが……)
そう思いながら、和宏は強く頭を振った。
「まだ、頭が痛むのかい?」
唐突に和宏の耳に届いた、聞き覚えのある、冷静沈着な女性の声。
和宏は、その声のした方に視線を向けた。
教室の入口。そこには、一際背の低い女子生徒が立っていた。
(あ、確か……久保っていったっけ?)
和宏は、“りんの記憶”を手繰った。
一拍おいて、その情報が和宏の頭の中に展開されていく。
名は“久保のどか”。
二年E組、生徒会長。
この鳳鳴高校の生徒会役員選出は七月に行われる。
任期は十月から翌年の九月まで。
時の二年生が生徒会長になり、一年間の任期を勤め上げるのが毎年の通例だが、昨年は一年生の久保のどかが生徒会長に選出されていた。
冷静沈着のしっかり者ぶりが群を抜いていたためだ。
その久保のどかが、二年A組の教室の出入り口に佇んでいる。
「頭は……大丈夫かい?」
なかなか帰ってこない和宏の返事に、のどかは再度言葉を変えて聞き直した。
「だ、大丈夫……です」
和宏は、気後れしたような返事しか出来なかった。
りんよりも二十センチは低い身長で、しかも一見中学生のような童顔。
しかし、その宝石のような瞳には、人を射抜くような強さがあったからだ。
「それじゃあ、付き合ってもらえるかな?」
(付き合……っ!?)
まるで恋の告白のような台詞に、和宏は一瞬フリーズした。
そんな和宏を、不思議な目で一瞥したのどかは、事もなげに続けた。
「ちょっと裏山まで……さ」
そう言って、のどかはさっさと生徒用玄関に向かって歩いていった。
(な、なんだ……。ついて来いってことか……)
ホッと胸を撫で下ろしたのもつかの間……その時には、もうのどかの姿は見えなくなっていた。
断るタイミングを逃してしまった和宏は、慌ててのどかの後を追いかけた。
◇
生徒用玄関で外履きに履き替えた二人は、そのまま外に出た。
初夏の日差しが降り注ぐ校庭のど真ん中には、枝ぶりが極めて良好な松の木が一本……その存在感を十二分にアピールしている。
その松の木の向こう側、玄関から二十メートルほど離れたところに、石造りの門柱によって作られた校門があり、今も退校する生徒たちの校門を出て行く姿が多く見受けられていた。
目的地が裏山となるのどかと和宏は、その人の流れに逆行するように反対側へ歩き出した。
校庭から裏山や体育館に通じる道に設置されたフェンスに沿って、右手側に広がるグラウンド。
時折吹く風により砂煙が舞い、野球部やサッカー部といった学校の花形クラブの掛け声がハツラツと響く。
それは、和宏……“瀬乃江和宏”にとっては、あるべき日常の一部だった。少なくとも昨日までは。
(俺、何やってんだろうな……)
和宏は、野球部の練習の様子をフェンス越しに横目で見た。
シートノックを、慣れたグラブ捌きでこなしていく姿が、妙に懐かしく感じられた。
和宏とて、こんなことにさえなっていなければ、今頃はユニフォームに着替えて同じことをしていたはずなのだ。
しかし、現実は、こうしてユニフォームどころかセーラー服を着て、野球の練習風景を眺めることしかできないでいる。
そんな訳のわからない現実を、和宏はただ嘲笑うことしか出来なかった。
和宏の前を行くのどかは、振り返ることなく淡々と進んでいく。
体育館の裏の小道を通り抜けて、二人はようやく裏山に到着した。
春が終わったばかりの初夏ながら、日差しはそれなりに強く、歩いているだけで額に汗が滲み出そうな本日の気温である。
ようやく着いたか……と、和宏が一息つこうとすると、のどかは立ち止まることなく斜面を登り始めた。
(ま、まだ行くのか……?)
和宏は、慌ててのどかを追いかけた。
のどかの足取りは、まるでいつもここに来ているかのように軽快だった。
一歩登るたびにフワリと揺れるのどかの髪。
クリクリと外に向かってカールしている毛先は、ミディアムの長さに切り揃えられている。
ある程度の長さになるとくせっ毛が顔を出す髪質のようで、ロングにでもしようものなら収拾がつかない髪形になるだろう。
そんなのどかの後頭部が、和宏の視界のど真ん中に入ってくる。
身長差のせいで、斜面を先に登るのどかの頭の位置が和宏の目線と同じ高さになっていたからだ。
「着いたよ」
そう言いながら、のどかがクルリと振り向いた。
斜面の中腹辺りに位置する、緑色の茂みの影。
そこは、グラウンドからも、体育館や校舎からも死角になっている場所だった。
「すまないね、こんなところまで付き合わせてしまって。ただ、どうしても他人には聞かれたくない話なんだ」
のどかは、そのすました顔に、申し訳なそうな感情を込めて言った。
(なるほど。コソコソ話をするならもってこいだよな……ここは)
周りを茂みに囲まれ、人目につかないデッドスペース。
オマケに、わざわざ斜面を登らなくては行けないという不便さから、他の生徒がやってくることもない。
安全地帯と言っても過言ではなさそうだ。
「一つ、変な質問をするけどいいかい?」
「は、はぁ……」
それにしても“女”のクセに妙なしゃべり方をするヤツだ……と思いながら、和宏は頷いた。
「キミは……“男”だった時がある?」
質問は、和宏の予想以上に意味不明なものだった。
どう答えていいのかわからず押し黙った和宏を見て、のどかは困ったように天を仰いだ。
「いや、言い方を変えよう。キミは生まれた時から“女”?」
意味不明だった質問は、さらに意味不明の度を増した。
引き続き押し黙る和宏に対して、今度は肩を落としながら深いタメ息をつくのどか。
そして、意を決したように、もう一度和宏の顔を見上げた。
「それじゃあ……この際だから単刀直入に聞くけど」
そう言って、のどかの大きな瞳が真っ直ぐに和宏を見据えた。
クリクリとした漆黒の瞳の、遠慮のない直視。
少しばかりたじろいだ和宏は、無意識に一歩後ずさりしていた。
「キミの名前は“せのえかずひろ”って言うんだろう?」
その一瞬……和宏の中でだけ、時の流れが止まった。
(な、なんで知ってるんだ……っ!?)
自分以外、誰も知らないはずの事実。
息が止まるほどの衝撃が、和宏の脳天を突き抜けていく。
「今朝、起きたら“せのえかずひろ”が“萱坂りん”になっていた……。違うかい?」
さらなる追い討ちに、和宏の心臓が早鐘を打ち鳴らした。
(どうするっ?)
(どう答えりゃいい……っ?)
(この際『はい。左様でございます♪』って白状するか?)
(『な、何を冗談言ってるんデスカ? やだな〜も〜』って誤魔化すか?)
求められたのは究極の選択。
どう答えても、良い結果を生み出しそうにない……最悪の二択。
すでに、和宏の頭の中はパニックの一歩手前だった。
(落ちつけ……落ち着くんだ俺。よく考えるんだ。ヘタに答えたらとんでもない事態を引き起こしかねな……」
「やっぱりそうなんだね」
(バレてるーっ!)
のどかは、あっさりと看破していた。
もっとも、答えに窮して、冷や汗をダラダラ流している和宏の様子を見れば、誰でも一目瞭然であったかもしれない。
「保健室で、キミの名前を尋ねたら“せのえかずひろ”と答えたからね。ひょっとして……と思ったんだけど」
(な、なんてこった……)
朝、家ではことみにバレないように。
学校では、沙紀と東子にバレないように。
和宏なりに孤軍奮闘してきたにもかかわらず、ほぼ自爆のような結末。
和宏は、へたり込みたくなるような脱力感に襲われた。
「まぁまぁ。そんなに落ち込まなくても大丈夫だよ。わたしもそうだから」
(な〜んだ。それなら一安心って……)
「えええええええええええっ!!!」
辺り一面に響き渡るような“りんの声”。
だが、“りん”ってこんなでかい声も出せるんだな……などと思う余裕すら、今の和宏にはなかった。
「わたしも、キミ……和宏と同じように、ある日突然“久保のどか”になっていたんだよ」
――TO BE CONTINUED