第86話 『Season in the Sea (8)』
寄せては返すさざ波の音が。
波間から漂う歓声が。
奇怪な色使いをした“のぼり”の、風にはためく音が。
どうしようもないほど高鳴った大村の心音を、辛うじて隠しているかのようだ。
思いがけず“りん”と二人きりになってしまった大村。
夏の海で……。しかも、お互い水着姿で……。
だが、何かしゃべらなきゃ……と思えば思うほど、緊張のあまり言葉を発することすらままならない。
例えるなら、九回裏二死満塁、一打サヨナラ。
そんな場面で入ったバッターボックス。
刺すようなプレッシャーは、容赦なく大村のハートを縛り付け、胸が押さえつけられたように、息苦しさだけが増していく。
途切れたままの会話が演出する、なんとも奇妙な間。
そんな間を、先に取り繕ったのは……“りん”の方だった。
「そういえばさ……。大村クンっていいガタイしてるよね」
「え……え? そ、そうかな……?」
“りん”は、先ほどのマヌケな男たちが恐れをなした肉体に視線を向けた。
女の子なら、こういう時は少しは照れても良さそうなものだが、“りん”に限っては(当たり前だが)そういう照れはない。
「……プロテインとか飲んでるからね」
「へぇっ!」
それで合点がいった……という顔の“りん”。
プロテインとは、タンパク質の含有率が高い粉ミルクのような粉末で、通常は牛乳等に溶かして飲むものである。
筋トレ後に、それを飲むことによって、より効率的に筋肉が増強される……という、いわば栄養補助食品の一種だ。
いきなり自分の肉体を褒められるとは思ってもいなかった大村は、まるで挙動不審者のように右腕をさすりながらドギマギしていた。
「ちょっと触らしてよ……」
「なっ……! う、うん……」
動揺しまくりの大村にはお構いなしに、“りん”は、大村の右腕を人差し指で触ってみた。
その感触は……予想どおり固く、そして分厚い。
(……負けた~……)
和宏は、密かに“りん”になる前……“男”である“和宏”の身体とを、頭の中で比較してみたのであるが……完敗。
“和宏”の身体もまた、それなりに鍛えられた身体ではあったが、この大村の筋肉隆々の身体には、どう考えてもかないそうにない。
妙な悔しさを感じながら……“りん”はため息をついた。
「……」
「……」
そして、またも途切れる会話。
冷や汗とも脂汗ともつかない、妙な汗が大村の額を伝う。
先ほどから明らかに様子のヘンな大村に、“りん”が心配そうに首を傾げた。
「……大村クン……?」
具合でも悪いのか……と、大村の顔を覗き込む“りん”。
そんな“りん”の顔が、大村の視界の中で突如アップになり、大村の心臓の鼓動は更に強く速くなっていく。
「笑顔もいいけど、心配そうに曇らせた瞳もまたイイ」……そんなことを思いながら、大村はついに意を決した。
「……あ、あのっ……」
「……?」
「ブラポのチケットが……取れたんだ」
“ブラポ”とは“ブラックポセイドン”の略で、男性ファンを多く抱える、人気絶頂の男性ロックバンドグループである。
何を隠そう、大村も和宏も、このブラックポセイドンの熱烈なファン(第61話参照)なのだ。
「へ~っ! すごいじゃん!」
なにせ、ブラックポセイドンのライブチケットは、なかなか取れないプラチナチケットと言われている。
“りん”は、目を丸くして驚いてみせた。
「ライブは9月27日の土曜日にあるんだけど……」
9月27日といえば、9月最後の土曜日であり、文化祭のある10月4日のちょうど一週間前に当たる。
もちろん、今はまだ8月……夏休みの真っ最中なので、当分先の話だ。
「……萱坂さん、予定あるかな?」
「……?」
とっさに質問の意味を把握しきれずに、目をパチクリさせる“りん”。
(9月27日……? 予定……? ……俺? 俺の予定?)
少しずつ頭の中でパズルが組み立てられ、正解らしきものがおぼろげに姿を現していく。
“りん”は、目の前の大村に確かめるように……自らを指差した。
それは、傍から見ると、いかにもマヌケとしか言いようがない仕草だった。
今は大村と二人きり……周りには誰もいないのだから。
「……ホラ。この間のカラオケの時に『行こう』って話をしたよね?」
そういえば……と、“りん”は思い当たった。
確かに、そんな話をしたことは覚えている。
だが、まさか本当にチケットまで取ってくれるとは思ってもみなかったのだ。
「……い、いいのかな? 行っちゃっても?」
「も、もちろん……萱坂さんさえ良ければ……だけど」
何しろ、一ヶ月以上先の話……まだ予定など何もありはしない。
“りん”の瞳が、急に爛々と輝き始めた。
「行きたいっ! 行きたいっ!」
一度はブラポのライブに行ってみたい……という思いのあった和宏にとっては、まさに願ってもない話である。
一気にボルテージの上がった“りん”を見て、緊張で死にそうだった大村の表情が、パ~ッと明るく一変した。
今までのどんな野球の試合よりも緊張した……そう思えるほどの汗を握っている大村の両手。
女の子をデートに誘うのは、生まれて初めての経験だったからだ。
大村は、心の中でガッツポーズをしながら、“りん”に見えないように……手の平の汗を拭った。
まだ目の前で、無邪気そうに喜んでいる“りん”。
その笑顔が、いつもより魅力的に映るのは……夏の砂浜の魔力だろうか。
学校のプールで見るスク水とはまた違う、白を基調にした洒落た水着が、ただひたすら眩しい。
油断をすると、キャミソールやパレオ、そして、そこから伸びる白い生足に、目が釘付けになりそうだ。
(……イ、イカン……)
一瞬、“りん”の身体に見とれてしまった大村が、慌てて“りん”から視線を外す。
そして、そのままチラリと“りん”の方を窺うが、幸いなことに大村が見とれてしまったことに気付いた様子はなかった。
(……っと。もう戻らないと……)
つい、“りん”と二人きりの時間に夢中になってしまっていたことに気付き、大村は苦笑した。
もともと、母親に頼まれて、妹の忍を連れ戻しに来ただけだったのだ。
それなのに、忍だけが先に帰ってしまったのだから、今度は大村が母親に心配をさせてしまう。
「それじゃ、萱坂さん。俺、戻らなくちゃいけないから……また、今度ね」
「ん。サンキュー……大村クン」
軽く手を上げて、砂浜を駆け出していく大村。
嬉しそうな笑顔で、応えるように手を上げる“りん”。
だが、そのまま走り去ろうとした大村が、何かを思い出したようにピタリと止まった。
(……?)
“りん”の方を振り返りながら……大村は、勇気を振り絞るかのように口を開く。
「萱坂さん……」
「……ん?」
「その水着……すごく似合うね」
それだけ言うと、すぐ踵を返して……大村はまた砂浜を駆け出していく。
まるで、赤くなってしまった顔を隠すように。
(……なんだ……? 今の……?}
“りん”は、ポカンとした顔で……その後姿を見送ることしか出来なかった。
―――TO BE CONTINUED