第73話 『First Love (11)』
(……はぁ……)
これで何度目のため息だろう?
そんなことを思いながら、彩は頬杖をついて窓の外を眺めていた。
伏せ気味の長いまつ毛は、不安に押しつぶされそうな憂いの表情をより一層引き立てる。
15時まであとわずかだ。
その時間になれば新幹線が動き出し、彩は否応なく見知らぬ地へ運ばれていくことになる。
二人掛けの指定席の窓側に彩、通路側に彩の母親が座り、その一つ前の座席に彩の父親……という座席配置。
ただし、時折、彩の耳に入ってくるかすかなイビキが示すとおり、父は早くも熟睡しており、母は母で真剣な表情で文庫本を読みふけっていた。
(……はぁ……)
何度でも出てくるため息は、その都度憂鬱な気持ちを増幅させていく。
しかし、ホームを忙しげに動き回る人々は、そんな彩の気持ちなどお構いなしだ。
まるで自分だけが別世界にいるような……そんな錯覚すら呼び起こさせる光景。
だが、突如視界に飛び込んできた、見慣れたえんじ色のセーラー服を着た女の子の姿が、彩を現実に引き戻した。
ホームを必死に駆けていくその姿に、ハッと息を呑む。
(えっ!)
彩は、反射的に立ち上がった。
となりで本を読んでいた母親が、ビックリした顔で彩を見ている。
「どうしたの? 彩?」
「……今、お友だちを見かけたから……ちょっと会って来る!」
「ちょっと彩! もうすぐ発車するわよ!」
彩は、返事をせずに、車内通路を駆け出していた。
えんじ色のセーラー服と、もう一つの特徴。
風にたなびく長いポニーテール。
きっとりんちゃんに違いない……そう思いながら、彩はホームに降り立ち“りん”を探す。
走って遠ざかっていく“りん”の後姿を見つけ、思わず大声を上げた。
「りんちゃん!」
(……っ! 彩ちゃん!)
声に気付き、振り返ると、彩が大きく手を振っている。
“りん”は、いつの間にか彩の乗っていた車両を通り過ぎていたのだ。
(もう乗ってたのかっ!)
これから新幹線に乗ろうとしている人ばかりを見て、彩を探していた“りん”は意表を突かれた。
とはいえ、すでに発車を目前に控えて停車中なのだから、もう乗り込んでいたとしてもなんら不思議はない。
大慌てで引き返し、彩の目の前まで戻った“りん”の額には、ここまで走ってきた証の汗が滲んでいた。
「はぁ……はぁ。あ、彩ちゃん……」
言葉を紡ぐことすらままならない。
車を降りてからここまで、ずっと全力疾走だったのだから、むしろ当然であろう。
「ど、どうしたの? りんちゃん。こんなところまで……」
“りん”は、すでにA組のみんなと一緒に見送りを済ませている。
それなのに、再びここに現れたのだから、彩が疑問がるのは当たり前だった。
「……どうしても……渡したいものがあってさ……」
「……渡したいもの?」
“りん”は、スカートのポケットから、ごそごそとソレを取り出し、手の平に乗せて彩の前に差し出す。
「野球の……ボール?」
彩は、そのボールを手に取ってマジマジと眺めた。
だが、何の変哲もない、薄汚れた軟式のA球にしか見えない。
「この間の球技大会の時のウィニングボールだよ」
あの球技大会で、E組との試合の最後のバッターを三振に打ち取った時のボールである。
ウィニングボールとは、その試合の最後を飾ったボールのこと。
球技大会終了後に、大村が「記念に」と“りん”にプレゼントしてくれたのだ。
以来、和宏は、楽しかった球技大会の思い出として、部屋に飾っていたが、今回はそれを持ち出してきた……というわけだ。
「でも……そんな大切なもの……」
「はは……。確かにあの試合はすごく楽しくて印象深かったし、そのウィニングボールだから記念は記念なんだけど……」
「……けど?」
「大切なものだからこそ……彩ちゃんに持っててほしいとも思うんだ」
「……っ」
“大切なものだからこそ”。
それは、“りん”の彩に対する気持ちの現れと言っても良い。
遊園地で遊んだあの日、彩は“りん”に迷惑がられたと誤解したままだったはずだ。
その誤解を解くために……それは違うんだという気持ちを伝えるために……和宏は、大切な何かを贈りたかった。
それが、世界で“りん”しか持っていないモノ……このウィニングボールだったのだ。
だが、彩の表情は驚いたまま……固まってしまったかのように動かない。
やはり、こんなボールなんかじゃダメだったか……という不安が湧き上がると同時に、心臓がドキドキと鼓動を激しくする。
「気に……入らないかな?」
不安げな表情を浮かべた“りん”に、彩は大げさなほどのかぶりを振った。
「……ううん。そんなことないの。ただ……本当に私なんかもらっちゃっていいのかなって……」
「も、もちろん!」
“りん”は、安堵の表情とともに、グーにした右手の親指を立ててみせた。
そんな“りん”を見て、ようやく彩は嬉しそうな表情を浮かべた。
「……ありがとう。りんちゃん……」
このボールを、彩が受け取ってくれるかどうか。
そして、このボールを貰って、喜んでくれるかどうかは、和宏にとってもちょっとした賭けだった。
だが、少なくとも困った様子は感じられない。
家までボールを取りに戻った甲斐があった……と、“りん”は胸を撫で下ろした。
気まずい雰囲気で遊園地を後にしたあの日から、お互い残ったままだったわだかまり。
しかし、今ではもうスッキリと消えてなくなったかのように……空気が軽い。
間もなく発車時刻である15時。
発車を知らせる電子ベルがけたたましく鳴り、彩は慌てて乗車口に乗り込んだ。
電子ベルが鳴り止むと、後はドアが閉まるのを待つだけ。
わずかな時間ではあるが……奇妙な静けさが二人を包む。
「本当に……本当にこのボール、りんちゃんだと思って大切にするから」
彩は、“りん”に貰ったボールを、大事そうに両手で包み込んだ。
きっと一生大切にしてくれるだろう……そう確信させるほど大事そうにボールを胸元で抱え込みながら、だ。
そんないじらしい彩の姿に、“りん”は優しく笑いかけた。
「はは……。じゃあ……向こうに行っても、もう一人なんかじゃないね」
「……?」
一瞬……キョトンとする彩。
しかし、“りん”は彩の手に握られたボールを指差しながら……イタズラっぽく笑った。
―――“俺”がついてるから
異国の地で一人きりになるのが心細いと言った彩。
しかし、“りん”の台詞が雄弁に語る。
このボールを持っている限り……いつも“りん”がそばにいる。
どこに行ったとしても、決して一人なんかじゃないんだ……と。
その想いは確かに彩の心まで届き……彩の顔を満面の笑みに染めていく。
キラキラと輝くようなその笑顔は、今まで彩が見せたどんな笑顔よりも眩しかった。
「……やっぱりりんちゃんが“俺”って言うと……カッコいいよ」
面と向かって「カッコいい」と言われた“りん”の顔が、ボッと燃えたように真っ赤になった。
よく考えたら、調子に乗って恥ずかしい台詞を吐いてしまったぞ……そう思うと、ただでさえ真っ赤な顔がますます赤く染まっていく。
湯気を立てそうなほど真っ赤になった“りん”の顔を見て、また笑う彩の瞳に……不意に涙が溢れる。
「……本当にカッコいいよ……りんちゃんは……」
そして……二人を遮るようにドアが閉まった。
ドアのガラスの向こう側に行ってしまった彩の瞳は、まだ濡れたまま。
しかし、静かに、ゆっくりと動き始めた新幹線は、警笛とともに彩を連れ去っていく。
それを追いかけるように“りん”は走る。
彩の視界に入り続けるために。
彩に最後の声援を贈るために。
「彩ちゃんっ! 頑張れっ!」
“りん”は、走りながら、何度も何度も彩に手を振った。
彩もまた、ドアの向こうで“りん”に手を振るが、加速し続ける新幹線は、あっという間に“りん”を置いてきぼりにして、轟音とともに遠ざかっていく。
遠ざかる一方の新幹線を追いかけ、ホームの端まで辿り着いた“りん”は、ついに立ち止まり、天を仰いだ。
肩で息を弾ませながら感じる全身の疲労感が、今は何故か心地良い。
おそらく、全てをやり尽くした充実感があるからだろう。
火照った頬とまだ汗の滲む額を、夏風が優しく撫でては通り過ぎていく。
彩を乗せた新幹線の赤いテールランプは、もう遥かかなただ。
だが、“りん”は、いつまでもそれを見つめ続けた。
―――TO BE CONTINUED