第65話 『First Love (3)』
“りん”が駆け出すとともに発生した予想以上の振動。
振り落とされないように、夢中で“りん”にしがみつく高木さんだったが、50メートルを過ぎたあたりから、その振動にも慣れ、周りの景色も見えてきた。
ドンドン後ろに流れていく景色。
聞こえるのは、風切り音と自分の呼吸音だけ。
そして……風を切る爽快感。
少しずつ、高木さんの中で、あの頃の感覚が呼び起こされていく。
“走るのがスキ”という確かな気持ちとともに。
100メートルのゴールは、もう目の前に迫ってきた。
だが、“りん”の身体は、「もう限界だ」と悲鳴を上げる。
高木さんを抱える腕が鉛のように重く、二人分の体重を支える膝がガクガクと……今にも折れそうだ。
それでも……最後の力を振り絞って走る“りん”のポニーテールが、高木さんの目の前で激しく揺れる。
ようやく100メートルのゴールの白線を越えた“りん”は、ゆっくりと止まって、崩れ落ちるように高木さんを下ろした。
そのまましりもちをついた“りん”は、まさに息も絶え絶えの瀕死状態である。
「ちょっと……大丈夫? 萱坂さん?」
「だ、だいじょう……ぶ。それより……どうだった?」
ゼーゼーと息を切らしながらしゃべる“りん”を見て、高木さんの中に込み上げた笑いはもう止まらなかった。
「うふふ……あははは……。もう……最高っ! 面白かったよ!」
そう言って、お腹を抱えながら、なおも笑い続ける高木さん。
その笑いは、昨日のあの乾いた笑いとは、明らかに別の種類のものだった。
“りん”の息は、まだ整っていない。
しかし、無邪気に笑う高木さんを見て、“りん”は目を細めた。
「なるほどねぇ~。そういうコトだったワケね……りん?」
不意の声に、高木さんの笑い声がピタリと止まる。
高木さんが声をした方を振り向くと、そこには、えんじ色のジャージに身を包んで腕組みをする沙紀と、制服姿のままの付き添い役の東子がいた。
(……?)
突如現れた二人に、高木さんは怪訝な顔だったが、“りん”は待ちわびたように沙紀と東子を見上げていた。
「……悪いね。昼休みに」
「それは別にいいけど。それにしても、なんでわざわざジャージに着替えてこいなんて言うのかと思ったら……」
「タハハ……。ま、いいじゃん。感謝してるよ」
「“りん”のコトだから、何か意味があって言ってるんだろうとは思ったけどね」
そう言ってニヤリとする沙紀。
思わぬ台詞に、こそばゆい気持ちを隠すように“りん”が笑うと、沙紀もまた笑った。
そんな二人をニコニコしながら見ていた東子が、さりげなく話を本筋に戻す。
「ホラホラ。モタモタしてると昼休み時間が終わっちゃうよっ?」
「ハイハイ♪」
両腕をグルグル回しながら、沙紀は高木さんの目の前に背中を見せてしゃがみこんだ。
それを見た高木さんが、沙紀と“りん”を交互に見ながら、答えのわかっている疑問を口にする。
「……もしかして……ひょっとして?」
「そうよ。次は私の番。言っておくけど、私は“りん”みたいに遅くないからね」
沙紀は、高木さんの方を振り返りながらニヤリと笑った。
クラス内女子ナンバーワンの俊足を誇る沙紀のプライドをかけた発言である。
高木さんは、さっきと同じように、恐る恐る沙紀の背中に覆いかぶさった。
「いくわよっ!」
沙紀は、まるで誰も背負っていないかのごとく、脱兎のように駆け出した。
“りん”とは比較にならないスピードに、高木さんが「きゃあっ!」という悲鳴を上げたが、沙紀は気にも留めない。
グラウンドを周回するトラックをひた走る沙紀。
そのスピードとパワーに、和宏は今さらながら舌を巻いた。
東子が、沙紀に声援を贈るためにグラウンドの真ん中まで出張って、ピョンピョン跳ねる。
「頑張れ~っ! 沙紀~っ!」
最初こそ、キャーキャー言っていた高木さんだったが、一周して戻って来る頃には大声で笑っていた。
その楽しそうな笑い声に気を良くしたのか、沙紀はサービスとばかりに二周目に突入する。
「……あんな弾けるような舞の笑顔なんて……久しぶりに見たわ……」
「……俺は……初めて見たな」
「……“おれ”!?」
(……?)
高木さんと沙紀は、今トラックを周回しているし、東子はグラウンドの真ん中にいる。
今、“りん”の周囲には人はいないはずだった。
(誰だっ!?)
“りん”は、慌てて振り向くと……そこにいたのは、黒縁の眼鏡の奥の瞳をパチクリさせた北村さんだった。
「き、北村さんっ! いつの間にっ!」
「ご、ごめんね……沙紀ちゃんと東子ちゃんと一緒に来てたんだけど……」
北村さんが、両手を口に当てて、申し訳なさそうに答える。
もはや苦笑するしかなかった。
言葉遣いについては、もうさほど気にしないようにしているとはいえ、“りん”の一人称が“俺”ではさすがに違和感がありすぎるだろう。
“りん”は、恐る恐る北村さんの様子をうかがった。
「……でも、りんちゃんが“俺”って言うと……なんかカッコいいね」
「……え?」
真っ青な青空の下。
高木さんの大きな笑い声が響く、昼下がりのグラウンド。
そして……北村さんの予想外の発言に、びっくり顔の“りん”。
そんな“りん”の顔を見つめながら、北村さんはニコニコと……そよ風のような微笑を浮かべていた。
―――TO BE CONTINUED