第56話 『始まりの場所 (1)』
中間テストも無事終わり、“りん”の周辺には久しぶりの平穏が訪れた。
放課後、わき目もふらずに帰宅した“りん”。
帰ってくるなり“りん”の部屋に直行し、鞄を勢いよくベッドに放り投げる。
(……よし、やるぞ!)
薄いブルーのジャージに着替えた“りん”が、家の庭に出てきて、ストレッチを開始した。
体の各部位を、丹念に……丁寧にほぐしていく。
あの球技大会があったのは、ほんの2週間程前のこと。
和宏にとっては充実した一日だったが、同時に“りん”の体力不足を痛感した日でもあった。
というわけで、月並みながら、まずはジョギングから。
体力増強なら……まずはコレだ。
中間テストの終わった、このタイミングなら、ジョギングを始める良い機会……という思いもあった。
ストレッチをしていくうちに……和宏は改めて気付く。
(……りんの身体って……柔らかいな~)
“和宏”の身体は、固くもなく柔らかくもなく……だった。
立位体前屈をしてみると、“和宏”の身体と“りん”の身体の柔軟性の違いがはっきりとわかる。
“りん”の身体は、いとも簡単に手の平が地面にベタッと付くのだ。
ソコソコ体もほぐれたところで、“りん”は、誰もいない家から道路に飛び出した。
時間がまだ早いせいか、ことみ母さんはまだ帰ってきていない。
もしいたら、「まぁっ! カレシと運動でもするのねっ! なんて健康的~っ!」……とでも言うだろう。
目に見えるようだ……絶対に間違いない。
そんなことを考えながら、“りん”は意気揚々と走り始めた。
(……行くぞ……目標は3キロ!)
だが、1キロを過ぎる頃には……バテた。
決して目標が高すぎたとは思わない。
それ以上に“りん”の身体は、体力がないのだ。
和宏は、バテた身体を引きずりながら、小学校4年の頃に、初めて野球チームの練習に参加した時のことを思い出していた。
あの時も、途中でバテバテになったものだ。
それでも、練習を継続していくうちに、いつの間にか普通に走れるようになっていった。
どんな練習も、継続することに意味がある。
そのことを知っている和宏ならば、このジョギングも、決して三日坊主では終わらないだろう。
(……よし、あともう少し……いくぞっ!)
切れた息を整え、もう一度スピードアップをしようしたところ、住宅街のど真ん中に不似合いな空き地が目に付いた。
60坪くらいの広さだろうか。
売地の看板も見当たらないが、地面はきれいに整地されている。
その空き地の奥の方……妙なパネルのようなものが目に付いた。
あれはまさか……と目を凝らした瞬間だった。
ガツンッ!
目から飛び散る星。
頭に激痛を感じてうずくまる。
「~~~っ!!!」
思わず涙目になった“りん”の目の前に、野球用のボールが転々としていた。
しかも、このボールの与えてくれた強烈な痛みは、間違いなく軟球によるものではない。
(……硬球!?)
なぜこんなところに硬球が? ……と、まだ激痛の残る頭で考えをめぐらすと、子ども特有のカン高い声が聞こえた。
「お姉ちゃ~んっ! ボール取って~!」
声のした方に目を向けると、年の頃10歳くらいの子どもが一人、左手にグローブをはめたまま、手を振っていた。
黄色いTシャツに半ズボン、そしてかぶっているのはプロ野球チーム“ソルティードッグズ”の黒い帽子……いかにも活発そうな男の子だ。
「こら~、ごめんなさいが先だろっ!」
“りん”は、ボールを拾いながら、ちょっとムッとして答える。
子ども相手に大人気ないかもしれないが、これもシツケというヤツだ。
「女の子がそんな言葉遣いをしちゃダメなんだよ~っ!」
なぜか、逆に注意される“りん”。
なんて可愛くないガキだ……と思う。
ボールを右手に握ったまま、ツカツカと男の子に近寄り、顔をズイッと近づけた。
「女の子の言葉遣いなんか別に決まってないんだよ! これは個性!」
子どもには、少々難しい説明だったかもしれない。
男の子は、ポカンとした顔になった。
「……でも、あたしはいつもママに言われるよ?」
(……???)
“りん”は、男の子の顔をマジマジと見る。
確かに、男の子にしては睫が長いし、顔立ちも女の子っぽい。
「ひょっとして……女の子?」
指差した“りん”の人差し指を見ながら、コックリと頷く……女の子。
(女の子が野球? 硬球で?)
目の前の女の子が、スッと手を差し出す。
「ボール返してよ」
「あ、うん……」
気圧されたように、手に持っていたボールを、女の子の手に乗せる。
途端に、女の子は笑顔になった。
「ありがとう! お姉ちゃん!」
子どもらしい笑顔を見せた女の子は、またタタタッと空き地の真ん中に陣取り、空き地の奥に据えられたパネルを睨みつけた。
そのパネルは……テレビでもよく見かける、9分割されたパネル。
限られたタマ数で、9つのパネルを全て抜いたら勝ち……というゲームに使うものだ。
ゲームの通称名は“ストライク9”。
女の子が、何球か投げたが、なかなか当たらない。
投げるフォーム自体はなかなかいいのだが、硬球を扱うための筋力が不足しているのは明らかだった。
そんな分析をしながら、“りん”はウズウズし始める。
(……9つ抜いたら……気持ちいいだろうな……)
女の子の投げたボールが、奥のカベに当たって、“りん”の足元まで転がってきた。
“りん”は、そのボールをヒョイと拾い上げる。
「なぁ……ちょっとやらせてくれない?」
女の子は、意外そうな表情で“りん”を見た。
「別に……いいよ」
「サンキュー……」
女の子から硬球を手渡された“りん”は、パネルの前……目分量で、18.44メートル離れた位置に立つ。
ちょうど、ホームベースとピッチングプレートの間の距離だ。
さっき、女の子が投げていた位置とは、比較にならないほど遠い。
大丈夫なの? ……という顔で、女の子は“りん”を見つめている。
セットポジションから……例によってアンダースロー。
放たれたボールは、見事にど真ん中の5番を打ち抜いた。
「うわぁっ! スッゲェ!」
“りん”の投げたボールが5番を打ち抜く同時に、女の子が男の子っぽい歓声を上げた。
女の子の、大げさすぎるんじゃないかというほどのビックリ顔に“りん”が笑う。
そして、女の子は、パネルの近くに転々とするボールを拾い上げて、一目散に“りん”の元に持ってきてくれた。
「はいっ!」
「サンキュー!」
「すごいよ、お姉ちゃん! 本物のアンダースローって初めて見た!」
心なしか、女の子の“りん”を見る目に、尊敬の色が混じっている。
ムリもない……女の子にとっては考えられないほど遠くから、軽々と5番を打ち抜いたのだから。
「次は何番っ!?」
「次は、外角低め……7番行こうかな」
パネルを見据えたまま答える“りん”。
その瞳は、ほんのお遊びから、すでに真剣なものに変わっていた。