第52話 『のんちゃん堂 (1)』
「いくよっ!」
カキンッ!……という音とともに、野球用のボールとは比較にならないほど大きいボールが、ゴロとなって“美東恵子”に向かっていく。
えんじ色のジャージを着た彼女は、ちょっと強めの打球に腰を引きながら、何とか捕ってキャッチャーに送球したものの、“りん”の澄んだ美声が今のプレイにダメ出しした。
「ダメダメッ! へっぴり腰にならないで! 怖がらずに前に出よう!」
もう一本。
“りん”は、さっきと同じようなゴロを……しかし、心なしか弱めに打ち込む。
今度は、少し前に出た美東が、そのゴロをガッチリと掴み、“りん”のすぐ横でミットを構える“上野あかり”に送球した。
「オッケー!! 今の感じだよ。恵子!」
上野が、おばさんくさいと評判(?)のダミ声で、美東のプレーを褒め上げる。
おばさんくさい……と言われているのは、そのダミ声だけじゃなく、その小太りの体型から来るイメージも大きい。
しかも、笑い方までおばさんくさい……とあっては、もはや、おばさんが女子高生をやっているようなものと言って差し支えないだろう。
その上野が会長がを勤めるソフトボール同好会……会員は上野を入れて6名。
人数が足りなくて試合も出来ないし、野球部やサッカー部の邪魔にならないように、グラウンドの隅っこで練習するしかない……ちょっと可哀想な境遇の同好会だ。
上野は2年A組……“りん”のクラスメイトである。
たまたま帰宅しようとした“りん”と、ソフトボールの用具を運んでいた上野が、校門前でばったりと鉢合わせし、上野が「良かったら練習にちょっと付き合わない?」と、例のダミ声で“りん”を誘った……というワケだった。
「いやぁ……さすが“りん”だね。ノック上手いじゃない!」
上野が、「感心したっ!」という感じで、何度も頷く。
「じゃあ、最後はキャッチャー……いこうか?」
そう言って、“りん”は真上にフライを打ち上げると、上野が、「オーライ!」と言いながら、大きなボールをガッチリ掴んだ。
ノックというのは、意外と難しい。
思いどおりの位置に向かって、思いどおりの勢いのゴロやフライを打つというのは、実は誰にでも出来るわけではないのだ。
和宏は、“男”の時、野球部で監督の代わりにノックをする機会が結構あったので、ノックの腕にはソコソコ自信があった。
ノックの中でも、難しいとされるキャッチャーフライも、難なくこなせるのは、そういった経験が活きている。
「次はバッティング練習するんだけど……どうする? りん?」
う~ん……上野の問いかけに、“りん”は、腕組みをしながら考える。
その理由は、“今の服装”……セーラー服だ。
『和宏……野球をする時に、スカートはやめておきなよ……』
つい先日のこと、のどかにため息交じりでたしなめられたことが頭をかすめた。
ちょっとくらいいいじゃん……という思いもあったのだが、結局その時ののどかには逆らえなかったのだ。
しかし……和宏は閃いた。
(そうだ! ……これは野球じゃなくてソフトボールなんだから問題ないじゃんっ!)
今日は中間テスト。
その中間テストが終わった直後のよく晴れた放課後。
そのとびきりの開放感で、身体を動かしたくてウズウズしていた“りん”は、のどかの顔を頭の隅に追いやってしまった。
第一、もうノックをしてしまっているのだから、今さら打つくらいどうってことはない。
かくして、セーラー服のままで、本格的にソフトボール同好会の練習に参加してしまった“りん”。
そのバッティング姿は、まるでテストで溜まった鬱憤を晴らすかのようだった。
バッティング練習というよりは、打つのを楽しむ……といった感が強く、時間はあっという間に過ぎ去っていく。
いつの間にか日が傾きかけ、時間はもうすぐ5時になろうとしていた。
「悪いね。後片付けまで手伝ってもらっちゃって」
ソフトボールの詰まったボールバッグを持った上野が、金属バットを抱えている“りん”に、お礼の言葉を告げた。
いつも比較的早い時間に終わる、緩い雰囲気がウリの同好会である。
野球部やサッカー部は、まだ練習中だったが、ソフトボール同好会は、すでに練習を終了して後片付けモードだ。
「いや〜、コッチこそ……いい気分転換になったし」
「良かったら正式に入会しなよ。りんなら大歓迎だよ」
思わぬ上野の勧誘に、和宏は考え込んだ。
確かにソフトボールは野球に似ているし、やっていて楽しい。
だが、結局のところ、野球とは似て非なるスポーツでもある故に、のめりこむ気にもなれなかった。
「ま、まあ……考えておく」
「そう? じゃあまた練習においで。今度はジャージの方がいいと思うけど」
上野が、セーラー服姿の“りん”を見ながらニヤリと笑う。
“りん”は、タハハ……と苦笑いするしかなかった。
そして、野球部とサッカー部と共用の用具庫に、用具をしまい終えた二人。
上野は、用具庫の扉を閉めながら、「じゃあ、また明日ね。りん」と言って手を振る。
「じゃ、またね!」
気分爽快……そんな感じで、“りん”もまた手を振った。
今日の練習が、まさに良い気分転換だったことがはっきりと窺い知れる明るい笑顔だ。
そのまま、校門向かって小走りで駆けていく“りん”。
「……あんなにサバサバした子だったかな……?」
“りん”の後姿を見送りながら、上野は小さい声でひとりごちた。