第43話 『余波 (3)』
その日の放課後。
球技大会の全日程が終了し、グラウンドにはなんとなく“強者どもが夢の跡”的な雰囲気が残っている。
そのグラウンドを横目に、校門に向かって歩く“りん”。
朝のひどい筋肉痛は、ようやく収まりをみせていたので、幸いにも、その歩き方はもうガニ股ではない。
「お帰りですか?」
校門を出た瞬間、凛とした女の子の呼びかけを、“りん”は聞いた。
(……?)
“りん”が、声の主を探してキョロキョロすると、校門の門柱のそばに立っていた女子生徒が、嬉しそうな表情で駆け寄ってきた。
セーラー服のスカーフの色が“緑”……ということは、この子は1年生だ。
ちなみに、“黄”のスカーフが2年生、“青”のスカーフが3年生である。
目の前で立ち止まった、その少女の身長は、“りん”より、5~6センチ程度は低かった。
髪型は、いわゆる“ツインテール”。
少しばかりつり目で、猫っぽい瞳が印象的であった。
「もう、お帰りですか?」
再び、同じ台詞を繰り返す少女。
和宏は、必死で“りんの記憶”を手繰ったものの、目の前の少女の記憶は見当たらない。
だが、改めて少女の顔を見返すと……意外と可愛いことに気付いた。
(待て待て。そんなこと考えてる場合じゃないだろ)
和宏のセルフボケ突っ込みが冴え渡るが、この状況には何の影響も及ぼさない。
「あの……人違いじゃない?」
“りん”は、恐る恐る聞き返した。
どう考えても、この少女の顔に見覚えはない。
しかし、少女の返事は、和宏の予想を遥かに凌駕していた。
「いえっ! 人違いだなんてとんでもない! ……私、“りんお姉さま”を待っていたんです」
(……おっ、おねえさまぁっ???)
大地が砕け散ったような衝撃。
聞いてはいけないことを聞いてしまったような感覚。
茫然自失とした表情の“りん”に、少女は当たり前のように自己紹介をした。
「申し遅れました……私、1年B組の“村野紗耶香”と申します」
(おねえさま……。オネエサマ……)
和宏には、紗耶香の自己紹介など耳に入る余地もないほど“お姉さま”の衝撃が強かったらしい。
その衝撃が、和宏をトンチンカンな結論に至らせていた。
「ひょっとして……腹違いの妹とか? 生まれた直後に生き別れになったとか?」
それが事実なら、衝撃の新事実である。
まさか、“りん”に妹がいたとは。
だが、紗耶香は、おしとやかに笑い始めた。
「うふふふ。りんお姉さまったら……面白いです。……意外と天然系なんですね」
笑われてしまったばかりか、天然系というカテゴリに分類されてしまった“りん”。
全く持って納得がいかないのだが、紗耶香はまだ笑っている。
「ち、違うの?」
「違いますよ。そんなはずないじゃないですか」
紗耶香の笑いは、まだ止まらない。
どうやら、相当ウケたようだ。
「お手紙をお出ししたんですが……実際にお目にかかりたくて、ここでりんお姉さまが出てくるのを待っていたんです」
(……手紙?)
真っ先に、あの6通の手紙のコトが“りん”の頭に浮かび、その中に、差出人が“さやか”だった手紙があったことを思い出した。
「あ~、確かガッツポーズがどうこう……って書いてあった……!?」
「そうです! 読んでいただけたんですね、りんお姉さま!」
紗耶香は、両手を頬に添え、嬉しそうな表情を浮かべた。
「あのステキなガッツポーズを見て、私もう一目で……」
そう言うと、紗耶香の頬が赤く染まり、恥ずかしそうに下を向いてしまった。
ずいぶんと“清楚なお嬢様”といった雰囲気だ。
「あの……帰り道、ご一緒してもいいですか?」
顔を赤らめたままの紗耶香が、恥ずかしそうに聞いてくるのを見ると、とてもムゲに断ることなんて出来そうにない。
「……ま、まぁ……いいけど」
「本当ですか!」
紗耶香が、目をパァッと輝かせて、最大限の喜びを表現する。
その微笑ましい様子に、“りん”は苦笑いを浮かべながら、紗耶香と並んで歩き始めた。
憧れのりんお姉さまと一緒に下校。
念願が叶った……とも言える紗耶香は、妙に饒舌だった。
「りんお姉さまは、血液型は何型なんですか?」
「え~っとね……O型」
和宏は、“りんの記憶”を手繰りながら答える。
偶然にも、和宏と“りん”は、同じ血液型であった。
「まぁ! 私A型なんです。相性ばっちりですね」
「そ、そうなんだ」
“O型とA型が相性がいい”なんてことは、和宏にとっては初耳である。
そもそも、和宏は占いなんぞに興味がないのだから、それも仕方のない話だ。
「りんお姉さまは、何月のお生まれですか?」
「え~っとね……」
「……りんお姉さま?」
「な、何?」
「なんだか、考えながら答えていませんか?」
首を傾げる紗耶香に、グゥの音も出ない。
相変わらず、“りんの記憶”を手繰りながらだと、即答できないのだ。
和宏は、とりあえず話題を逸らして、誤魔化すことにした。
「と、ところでさ……その『りんお姉さま』っていうのは……やめない?」
「あら、どうしてですか?」
「いや、ホラ。なんかくすぐったいっていうか……ね?」
「まあ、意外と奥ゆかしいんですね」
紗耶香は、微笑ましいものを見させていただきました……ってな感じで上品に笑う。
“奥ゆかしい”とは、違うような気もするが、なんにせよ“りんお姉さま”はちょっとな……と和宏は思った。
「では、少し馴れ馴れしいかもしれませんが……今度からは、“りん姉さま”とお呼びしますね」
(同じジャンっ! 『お』が抜けただけジャンっ!)
心の中で、どんなに力強く突っ込もうと、目の前の紗耶香には伝わらない。
そのせいか、紗耶香は「また一つ、お近づきになれて光栄です」的なオーラを漂わせながら、嬉しそうに笑っていた。
さらに、矢継ぎ早に飛んでくる紗耶香の質問。
好きな動物は?
好きな食べ物は?
好きな芸能人は?
などなど。
和宏は、“りんの記憶”を手繰りながら、なんとか質問に答えていったものの、終いには、例の“脳のオーバーヒート”による目まいを感じるほどだった。
ただ、その受け答えの間、一つだけ……和宏は気付いた。
いつの間にか密着している、紗耶香の左腕と“りん”の右腕。
まるで、紗耶香が、猫のように“りん”に擦り寄っているかのようだ。
女友だち同士は、男友だち同士よりもスキンシップを好む傾向があるというが、これは少々度を過ぎている。
傍から見ると、もはや“友だち”の枠をはみ出してるとしか思えない。
(あわわ……嬉しいような……ヤバイような)
紗耶香の、やわらかい腕の感触が心地良い。
もう少し頑張れば(←?)胸の感触まで味わえそうだ。
(ってイカン! これは孔明の罠だっ!)
危うく引き込まれそうになる倒錯の世界。
この状況を抜け出すために、和宏は、道と平行しているドブ川を指差しながら、声を上げた。
「あーっ! コイが泳いでるよ、ホラ!」
ドブ川に大きめのコイが1匹、ゆうゆうと泳いでいた。
さりげなく紗耶香から離れた“りん”は、ガードレールに手をつきながら、ドブ川を覗き込んだ。
「……りん姉さまは、お魚が好きなのですか?」
紗耶香は、不思議なものを見るような目つきで“りん”を見ている。
さすがに興味がないのか、一緒にドブ川を覗き込むこともしなかった。
「そ、そういうワケじゃないけど……アレはフナじゃなくてコイだな……なんて……あ、はは……」
「うふふ。りん姉さまって、ちょっと男の子っぽいところもあるんですね……意外です」
そもそも、“りん”の中身は“和宏”なのだから、男の子っぽくて当たり前だ。
ただ、そんな事情を知らない紗耶香からすれば、“意外”と思うのはムリのないことだろう。
コイは、和宏たちの歩くスピードと、同じスピードでついてきた。
そして、橋のたもとまで来たところで、ちゃぷんと水面下に潜って見えなくなってしまった。
「あの……りん姉さま。私の家はこちらなんです」
紗耶香は、橋の向こうを指差した。
どうやら、紗耶香の家は、この川向こうになるらしい。
「それでは、この辺で失礼します」
深々と礼をする紗耶香。
「うん。じゃあ……気を付けてね」
そう言って“りん”が手を振ると、紗耶香の顔が、またもや「ぱ~っ」と明るくなる。
「ありがとうございます。優しいんですね……りん姉さま」
心なしか、紗耶香は、顔を赤らめて、モジモジしているような仕草を見せた。
そして、はにかんだ笑顔で、「では、また明日」と言って、橋を渡っていく。
(顔はかわいいし、おしとやかだし、礼儀正しいんだけどなぁ。……ちょっと精神的に疲れるなぁ。……いろんなイミで)
橋を渡りきった紗耶香が、もう一度手を振っていたので、“りん”も手を振り返した。
紗耶香が見えなくなると、“りん”はため息を一つ。
久しぶりに感じる目まいが、疲労感を倍増させているかのように感じられた。
(ま、たまにはこんなことがあってもいいか……。早く帰って寝よう……)
だが、家路を急ぐ“りん”は、うっかり聞き流してしまっていた。
紗耶香が、最後に「また明日」と言い残したことを。