第3話 『りん (3)』 改訂版
萱坂家のダイニングルームは、居間とひとつながりの一体型。
そのダイニングルームで、毎朝、りんとことみは朝食を摂っている。
今日もまた、普段と変わらぬ朝食が食卓に並べられていた。
ただ一つ、普段と違うのは、“りんの中身”が“瀬乃江和宏”に変わっていることだけだった。
つかつかと和宏に歩み寄ることみ。
逃げることも出来ず、蛇に睨まれた蛙のように固まっている和宏。
その真正面で立ち止まったことみは、おもむろに右手を上げた。
引っ叩かれるっ……!
そう思って、ピクリと身をすくめた和宏を、ことみの右手は何事もなかったかのようにスルーしていく。
りんの髪の毛に、ことみの右手が優しく触れた。
「だめじゃな~い。ブラシもかけずに……。髪留めもつけたまんまでぇ」
(……へっ!?)
それだけ言うと、ことみは思い出したようにパタパタと奥の洗面所に引っ込んでいった。
一人取り残された和宏は、何が何だかわからぬまま、呆然と立ち尽くすしかなった。
程なく、ことみが洗面所からパタパタと戻ってきた。
その右手には、ヘアブラシと櫛が握られていた。
「さっ、後ろ向いてぇ。ササッとしてあげるからぁ」
戸惑う和宏の両肩を掴み、素早く背後に回ったことみは、手馴れた手つきで髪留めを外すと、流れるようにブラシをかけ始めた。
腰までかかるほどのロングヘアを、ことみはブラシと櫛で丹念にとかしていく。
「相変わらずキレイな髪の毛ねぇ、りん。お母さんの若い頃そっくりぃ」
ことみは、手を休めることなく、懐かしそうな口調でそう言った。
“りんの記憶”から、ことみの記憶を手繰ると、小さい子どもだった時のりんの髪の毛を、嬉しそうにとかすことみの姿を見つけ出すことが出来た。
おそらく、小さい頃はずっと、このようにりんの髪の毛を手入れをしてあげていたのだろう。
そして、それは和宏にとっても懐かしい感触だった。
心地良さにほだされて、和宏は瞳を閉じた。
まぶたの裏に浮かんできたのは、“瀬乃江和宏”の母親の姿。
(母さん……)
小さい頃、“お坊ちゃんカット”だった和宏の髪の毛を、いつも櫛でとかしてくれていた母さん。
ひょいと振り向くと、いつだって母さんが優しい笑顔でそこにいた。
ワンパクだった小学校の時も。ちょっと反抗期だった中学校の時も。そして高校生になってからも。
“あの日”までは。確かにそこに。
和宏は、今の状況すら忘れて、しばし思い出に浸った。
「……ぃん? りんってば! り・ん・!?」
ことみの声が、居間に大きく響いた。
我に返った和宏の目の前に、我が娘を心配げに見つめることみの顔。
「ちょっと……大丈夫? そんなにボ~っとして。風邪でもひいたの?」
「え……う、ううん。だ、大丈夫。ちょっと考え事しただけ……」
「そぉ? ならいいけど。ブラシかけ忘れるなんて珍しかったからぁ」
そう言って、ことみは、和宏の両肩を優しくポンと叩いた。
どうやら、寝起きのまま、髪もとかさずに居間に下りて来たことが、普段と違う奇異な行動だったようだが、たまたま忘れたということで誤魔化すことが出来たのは幸いだった。
「さ、早く食べましょ。本当に時間ないわよぉ」
二人分の朝食が並べられたダイニングルームの食卓。
その食卓テーブルと、カウンターを挟みこんで設置されている対面式のキッチン。
母娘二人だけのダイニングキッチンとしては、かなり大きい部類に入るが、その作り自体は非常にアットホームである。
先に座ったことみの向かいがりんの席だ。
早速、その席に着いた和宏だったが、並べられたメニューを見て目を丸くした。
ご飯、味噌汁、目玉焼き、生野菜サラダ。
品目数はともかく、その分量がやたら少なく感じられたからだ。
ご飯は可愛らしい小さな茶碗に控えめ盛り。
目玉焼きは、卵を二個使ったポピュラーなものではなく一個だけのもの。
味噌汁や生野菜サラダの分量も然りだ。
いつも“瀬乃江和宏”が食べている量からすれば、あまりにも少なすぎる印象だった。
「どうかしたぁ?」
席についてから動きの止まってしまった和宏を、ことみは訝しげに見ている。
和宏は、動揺しながらも懸命に取り繕った。
「……う、ううん。な、なんでもない。わたしもいただきま~す」
わざと可愛らしく言い放った和宏は、慌ててご飯を口に運んでいく。
ことみもまた、出勤時間が迫っているせいか、ちょっと首を傾げただけで自分の食事に戻っていった。
和宏が食べ始めてから約五分。
先に食べ終わったことみは、手早く食器を片付けてから、いそいそと出勤の支度を始めていた。
だが、和宏はというと、少ないと思ったはずの朝食に悪戦苦闘の連続だった。
一見、少なすぎると思ったご飯は、小さい“りんの口”ではなかなか減らず、逆に「量が多い」と感じるようになるまで、さして時間はかからなかった。
それも当然。“男”の“瀬乃江和宏”にとっては少ないと思う分量でも、“女”の“りん”にとっては、決して少なくはないのだから。
ようやく朝食を全て平らげた頃、お仕事用にメイクアップしたことみが、和宏のそばに近づいてきた。
すでにハンドバッグまで装着した彼女の準備は万端だった。
「それじゃお母さん、先に仕事に行くわねぇ。りんも早く学校に行くのよぉ」
「は~い」
「サボらずにちゃんと行くのよぉ」
「……は~い」
和宏の返事を聞き届けると、ことみは「遅刻しちゃうぅ~」と喚きながら、パタパタと玄関を出て行った。
程なく車のエンジン音が聞こえ、すぐにその音が遠ざかっていく。
騒がしかったことみがいなくなると、急に家の中が広く感じらるほど静かになった。
「はわぁ、疲れた~……精神的に……」
居間一杯に響くような大きい声の独り言。
もう家の中には誰もいないのだから、言葉遣いに気をつける必要もない。
そう思いながら、和宏は、椅子の背もたれに力一杯もたれかかって、大きなタメ息をついた。
(しかし……まいったな)
“りんの記憶”を手繰ってわかったのは、普段のりんは、いかにも女の子といった可愛らしいしゃべり方をする娘……ということ。
つまり、和宏が“りん”として他人と会話する時には、そういうしゃべり方をする必要があるということだ。
せめて、もう少しボーイッシュな口調なら抵抗感も和らぐのだが、残念ながら、りんはそういう女の子ではない。
一生懸命“女の子”を演じる自分。
もはや、罰ゲームの域だ。
仮に、その場面を知り合いに見られようものなら……本気で死ねる自信がある。
そんなことを考えながら、和宏は何気なしに時計を見た。
「ぅわっ! もうこんな時間かっ?」
一際大きな“りん”の透き通るような声が、誰もいない家の中に響き渡った。
和宏にとっては“こんな時”である。
学校など行っている場合ではない……という思いもあったが、ことみに『サボらずにちゃんと行くのよぉ』と釘を刺された今となっては、簡単にサボるわけにもいかなくなってしまった。
学校には、りんの友人たちが待ち構えているだろう。
ひょんなことから正体がバレるとも限らない。
尽きることのない心配のタネ。
だが、和宏は、超の付く楽観論者だ。
その直感が言っている……“りんの記憶”があれば何とかなるさ、と。
(仕方ない……行くかっ!)
もう歩いて行っては間に合わない時間である。
鞄を片手に、和宏は元気良く駆けていく。
漆黒の、艶やかなロングヘアをなびかせながら。
心許ないスカートを、風にはためかせながら。
よく晴れた青空。
申し訳程度に浮かぶ白い雲。
今日はきっといい天気になるだろう。
こうして、和宏の“長い一日”が始まった。