第37話 『Baseball Queen (8)』
2回裏のE組の攻撃をなんとか抑えた“りん”。
E組の上位打線……野球部員たちを相手にして、わずか1安打に抑えることができたのは上出来だろう。
低目を丁寧に突くピッチングで、内野ゴロを打たせる大村のリードが功を奏している。
もちろん、それも“りん”のコントロールの良さがあってのことだ。
そして、内野陣がエラーなくゴロを捌いてくれているのが、“りん”には何よりもありがたい。
ただ、A組の攻撃は、完全に御厨の前に沈黙していた。
“1番バッターりん”という奇策も、相手が前進守備をしてくれなくては奇策にならない。
もともと普通守備の頭を越せるほどのパワーは持っていないし、そもそも目一杯バットを短く持たざるを得ないので、外角球には手が出ないのだ。
大村も、チームメイトである御厨に苦手コースを攻められて打ち切れないし、他のメンバーでは、御厨には手も足も出なかった。
ちなみに、女子は次のバレーの試合のため、応援席にはもういなくなっている。
そして、3回裏のE組の攻撃は、9番バッターから。
と思ったら、ここで代打……のどか。
(……忘れてた。女子を必ず試合に出場させなくちゃいけないんだっけ)
A組は、女子である“りん”が、最初から出場している。
予想外の苦戦を強いられているE組としては、上位打線に入る前にのどかを出しておこう……ということだろう。
右バッターボックスに入ったのどか。
その145センチの小柄な身体に、通常の金属バットは、妙に不釣合いだ。
(……アレでバットを振れるのか? ……ぜってームリじゃね?)
むしろ、バットに振り回されそうだ。
絶対に外野に飛ぶはずはない……と思うのだが、つい先ほど、その気持ちを逆手に取った作戦を成功させている手前、決め付けるのも怖かった。
少し迷った素振りを見せた“りん”に対し、タイムをかけた大村がマウンド上に駆け寄る。
「……前進守備にしようか?」
大村も、“りん”と同じように、外野に飛ぶことはないと考えていたらしい。
しかし、和宏は知っている……のどかの中身が“男”だということを。
おそらく、(どの程度かはわからないが)野球の経験はあるはずである。
「いや……やめておこう。万が一ってコトもあるし」
「そうだね。じゃあそうしよう」
大村は、“りん”の意見をそのまま受け入れ、キャッチャーの位置に戻った。
タイムが解かれ、審判役の袴田の「プレイ!」という号令により試合が再開する。
和宏は、タイムの間、バッターボックスに入ったままだったのどかを見て、「やっぱり前進守備にすべきかな」とも思う。
(……まぁいいや。わかんねぇから迷うだけムダだ)
なんでも『まぁいいや』で済ませることができる、和宏の特殊スキル。
このスキルは、野球の時は本当に有用だ。
迷いすぎるとロクなことがない……和宏は、経験上それを知っていた。
迷うのをやめた“りん”は、改めて大村のサインを覗き込んだ。
外角低め一杯……相手が素人であれば、大体このコースで抑えることができる。
ワインドアップモーションの“りん”の右腕から放たれた、サイン通り外角低めにコントロールされたボール。
のどかは、そのボールを“バント”した。
(……っ!?)
一塁手と“りん”の間に転がったボールに、虚を突かれた“りん”の反応が一瞬遅れる。
だが、そんなことは関係ないとばかりに、のどかは、あっという間に一塁ベースを駆け抜けていた。
それを見た、E組の三塁側ベンチや応援席から、一際大きな歓声と笑い声が上がった。
「いいぞっ! 久保ー!」
「その走り方サイコー!」
「のんちゃんカワイー♪」
などなど。
意外にも、のどかは俊足だった。
しかも、その特徴的な走り方が、みんなの笑いを誘う。
腕を伸ばしたまま、「テケテケテケ…………」という感じのピッチ走法……まるでマンガだ。
みょうちくりんでユーモラスかつ可愛い走り方に、和宏も苦笑しか出てこない。
しかし、いくらのどかの走りが笑いを取ろうと、ノーアウトランナー1塁で、野球部員の並ぶ上位打線に繋がってしまったことに変わりなかった。
“りん”が、1塁上ののどかをチラリと見やると、のどかが笑顔でVサインを出す。
(……チェッ。やってくれたなぁ……)
苦笑しながら、さりげなく右手をグーパーすると、大分握力が入りづらくなっていることに気付いた。
“りん”の身体は、別に鍛えられているわけじゃないので、ちょっと酷使するとすぐにガタが来るのだ。
握力がなくなっては、生命線であるコントロールもつけられなくなってしまう。
だが、まだいける……“りん”は、そう思いながら、ジャージの袖で額の汗を拭いとった。
打順が1番に戻って、本日2回目の打席になる広瀬。
今度こそは打ってやる……バッターボックスに入った広瀬からは、そんな気負いが明らかに感じられた。
こういう打ち気にはやった相手には、ストライクからボールになる球が効果的……大村から、そんなセオリー通りのサインが出る。
“りん”が、サイン通りに、外角低目から外に逃げるカーブを放ると、広瀬が絵に描いたように引っ掛けて、セカンドへのゴロになった。
しかし、セカンドの新谷は、ゲッツーを焦ってしまったのか、ファンブルした上に、ファーストに投げた球を、ファーストの工藤がはじいてしまう。
その間に、のどかは、例の俊足を飛ばしてサードを陥れた。
大事な場面で出てしまったエラー。
ノーアウト一塁三塁。
この試合最大のピンチだ。
静かになってしまった一塁側のA組応援席の代わりに、三塁側のE組応援席が騒がしくなった。
ここまで、あまりいいところのなかったE組に、ようやく訪れたチャンス。
鬱憤を晴らすかのような大盛り上がりだ。
打ち取ったと思った直後のエラーは、ピッチャーにとって疲労感を倍増させる。
もちろん、それは和宏とて例外ではないものの、気落ちした表情を表に出さないようにするのも、良いピッチャーの条件である。
それを心得ている“りん”は、平常心を装いながら、マウンド上のロージンに触れた。
かがんだ拍子に、額から滴り落ちた一滴の汗が、マウンドの土に染み込んでいく。
明らかに、“りん”の疲労の色が濃くなってきていた。