第32話 『Baseball Queen (3)』
これで何球目だろう?
ふと、そんなことを考えながら、振りかぶった時、和宏はそれに気付いた。
校庭とグラウンドの境目のフェンスに、群がるように鈴なりになったギャラリー。
その人数は、驚いたことに、10人や20人ではきかない程だった。
「おわっ!!」
「なんだっ!!」
総勢50人を超えるかという見物人たちが、こちらを注視していることに気付き、和宏と大村は声を上げて驚く。
同時に、沙紀と東子たちも、その妙な熱気を帯びたギャラリーの存在に気付いて、目を丸くしていた。
「と、とりあえず教室に戻ろうか?」
ギャラリーの視線から逃げるかのように、“りん”に駆け寄った大村は、即時引き上げを主張した。
“りん”の実力を確かめる、という当初の目的は、もう充分に達成出来たのだから、これ以上続ける必要もない……ということだ。
大村の意見に全員賛成した一同は、その場を逃げるように退散する。
やがて、野球部員が集まりだし、さっきまでの刺激的なグラウンドの風景が、何もなかったかのように、いつもの風景に戻っていく。
それに伴って、集まったギャラリーは、あっという間に霧散していった。
こうして、教室に戻った一同だったが、すでに当番による清掃が始まっていたため、もうこれ以上の話し合いは出来そうにもない。
仕方がないので、今日のところは、これで解散ということにしよう、と大村が言った。
「とりあえず、ポジションはさっき決めたとおりでいこうと思うけど……ピッチャーは萱坂さんということでみんなもいいね?」
反対意見どころか、全員が「異論はない」とばかりに深く頷く。
「じゃあ、打順はこっちで決めておくから。あとは当日頑張ろう!」
それだけ言うと、大村は、鞄とスポーツバッグを持って、大慌てで走っていった。
どうやら、“りん”の投球練習に時間を取られたせいで、野球部の練習に遅刻しそうになってしまったらしい。
悪いコトしちゃったかな……と思いながら、大村の後姿を見送る和宏。
だが、そんな“りん”に、残った男子たちが、群がるように取り囲んできた。
「か、萱坂さんっ! スゴイねっ! どこで野球やってたの? リトルリーグとか?」
自分より背の高い男子たちに取り囲まれ、一瞬ビクッとした“りん”を気にすることもなく、男子たちは、無邪気に“りん”を質問責めにする。
“りん”のピッチングがよほど衝撃的だったのだろう。
この食いつきの良さに、和宏は完全にタジタジだ。
(……まさか、本当のコトも言えんしなぁ……)
「ま、まぁ……そんなトコ」
限りなく苦笑いに近い笑顔で答える“りん”。
困ったな……というオーラが全開になっているのだが、それは一向に通じることはなく、ただ質問の数だけが増えていく。
「いつからアンダースローにしたの?」
「今は野球やってないの?」
……などなど。
「高2の秋から」「現役バリバリです」……正直に答えることのできる質問が何一つないことに気付いた和宏は、心の中で苦笑いをする。
どうお茶を濁したものか……と考えていたところに、思わぬところから助け舟が出された。
「りん! そろそろ行くわよ!」
男子たちの作った輪の中に、閉じ込められているかのような“りん”を、輪のすぐ外から沙紀が呼んだのだ。
まさに、絶妙なタイミングである。
「じ、じゃあ、そういうことでっ♪」
“りん”は、妙に爽やかな笑顔を浮かべながら、輪を抜け出して、沙紀と東子の元に駆け寄る。
そして、振り返って、「バイバイ! 来週頑張ろうね!」と手を振ると、3人一緒に教室を後にした。
取り残された男子たち。
“りん”と、少しでも親密になろうとして、失敗した落胆感が辺りを包み込んだ。
「……かわいいよな……萱坂さん……」
誰かの呟きに、我も我もと反応する。
「今週からポニーテールにしてさ……あれスゲェいいよな」
「投げてる時、目輝かせてたよ」
「スタイルいいし」
「嫁にしてぇ!!」
誰かの不穏当な発言に、みんなが笑いこけた。
男子特有のバカ話の中身……所詮はこんな程度である。
「ヘックしゅんっ!」
廊下を、並んで歩いていた3人。
その真ん中にいた“りん”のくしゃみに、左隣の東子がアクションを開始する。
「まぁっ! 大丈夫っ! 風邪でもひいたんじゃないっ!?」
芝居がかった東子の言い方に、右隣の沙紀が連動したかのように続けた。
「大変っ! お熱を計るわよっ!」
沙紀の右の手の平が、唸りを上げて“りん”の額を直撃し、「パッチン!」という派手な音が鳴り響いた。
「ぁたっ」
音のワリに痛くない……これはもはや沙紀の突っ込み芸である。
「おぉ、その『ぁたっ』は、ちょっといいリアクションだね♪」
東子が、そんな最終的な評価を下した。
またも、二人のお笑い芸に巻き込まれる和宏。
「全く……あんなギャラリーを作るから、噂されてんのよ」
「みんな、勝手に集まっただけだよ」
沙紀の、理不尽な物言いに、和宏は、口を尖らせる。
ギャラリーを作った、などと言われるのは心外だ……と言わんばかりだ。
「それにしても、りんが野球できるなんてねぇ?」と、東子。
「得意技を隠し持っていたってワケね……恐ろしい子っ!」
沙紀が、元ネタがよくわからないことを言い始めた。
もちろん、隠していたワケではない……ただ、披露する機会がなかっただけだ。
「それは冗談として……一応応援してあげるから頑張りなさいよ」
「そうそう。妨害工作とかなら任せて」
「……すんな」
実際に妨害工作をすることはないと思うが、念のため、東子の過激発言に釘をさす。
そんな会話をしているうちに、生徒玄関に着いた3人。
沙紀と東子は、部活があるので、このまま真っ直ぐ体育館に向かうことになる。
「じゃあね、りん。また来週!」
“りん”に向かって手を振りながら、沙紀と東子は体育館に走っていく。
やがて、沙紀と東子の姿が見えなくなり、和宏は一人、生徒用玄関に取り残された格好になった。
(……また来週……か)
来週、野球ができる……。
和宏が野球を始めてから、野球をプレイすることも、観ることもしなかったことが、1週間以上続いたことはなかった。
ある日突然、“りん”になってしまってから、野球に触れることすらできなかった日々。
和宏は、下駄箱の前で、靴を履き替えながら思った。
(……来週は、目一杯野球を楽しんでやる!)