最終話 『そして……』
「そういえばりんさん。入部届書いてくれましたか?」
栞が、生徒用玄関で外靴に履き替えながら、ニコニコ顔で“りん”に尋ねた。
これから靴を履き替えようとしていた“りん”は、抜かりはないとばかりに鞄から二つに折った紙切れを差し出した。
「うん。これでいいのかな?」
“りん”が差し出したのは、いうまでもなく“野球部への入部届”である。
それを受け取った栞は、中身を見て一言呟いた。
「りんさんって……」
「ん?」
「意外と字が汚いんですね」
(ほっとけっ!)
滝南との激闘から約一ヶ月。
額の傷も、跡が残ることなく癒えたことで、ようやく念願の野球部入部となった。
二人が玄関を出ると、まるで“りん”を祝福するかのような晴れ渡った青空だった。
形を変えながら流れていく白い雲との鮮やかなコントラストは、澄んだ空気の中で一際美しく映えている。
家路に着く生徒たちと部活に打ち込む生徒たちが忙しなく行き交う校庭。
気まぐれに吹きつける強い風が雑踏さながらの校庭を包み、少しばかり急ぎ足の“りん”のポニーテールと栞の三つ編みを跳ねるように踊らせる。
十二月。肌を突き刺すような寒風は、セーラー服の上から学校指定の紺色のコートを一枚羽織っただけの二人に冬の訪れを告げていた。
「もう……冬ですね」
「……そうだな」
“りん”たちは、校庭を歩きながらグラウンドを見渡した。
奥の方に陣取るサッカー部は、すでにランニングを始めていたが、グラウンドの最も広い面積を占有する野球部は、まだ全員が集合し終えていなかった。
ホームベース上で何やら話し合う監督の山本とキャプテンの山崎が“りん”たちに気付き声を掛けた。
「おう、来たか。もうすぐ始めるから早くユニフォームに着替えてこいや!」
いつものように爽やかな白い歯を見せながら、山崎が右手を上げた。
「ユ、ユニフォームって……、今日は初日だし、俺まだ貰ってないけどな……?」
先の試合で使用したユニフォームは借り物である。
当然のことながら、もう返却してしまっているので“りん”の手元には残っていない。
だが、栞は、心得た……とばかりに、ニンマリと笑っていた。
「大丈夫ですよ、りんさん! さぁ、早く部室に行きましょう!」
栞が“りん”の手を取って走り出す。
「お、おい……」
戸惑う“りん”を引く栞の手は、思いのほか柔らかく、お楽しみを待ちきれない子どものように温かかった。
グラウンドの奥……ライトのファールグラウンドの一番端っこに、簡素な作りのプレハブながら各部の部室が立ち並んでいる。
その一番手前に当たる野球部の部室から、偶然飛び出してきた人影に“りん”たちは驚きの声を上げた。
「か、萱坂さん……と、園田さん……」
「大村クン!?」
ユニフォームを身に纏った大村に“りん”と栞は目を丸くした。
大村は、ここしばらく怪我の治療のため部活を休んでいたからだ。
結局のところ、大村の怪我は骨折ではなくツキ指であった。
それは不幸中の幸いといえたが、左人差し指の爪が完全に剥がれてしまっているため、医師からは感染症防止を理由に部活禁止を命じられていたのである。
ただし、真面目な大村のこと……大人しく部活を休むはずもなく、治療に専念と見せかけて家で自主トレに励んでいたことは誰も知らない。
「も、もうほとんど治ったんで、医者から部活参加の許可が出たんだ。患部の消毒だけはこまめにするように……っていう条件付きだけど」
そう言って、大村は左手を見やすいように挙げた。
ちんまりと包帯が巻かれた人差し指。
大した怪我のように見えないのは、もう完治が近いことの証しでもあった。
「心配しましたよ。もう……ムチャはしないでくださいね、大村さん」
「うん、わかってるよ。園田さん」
どこか咎めるような言い方の栞に、大村はバツが悪そうに右手で頭をかいた。
「と、とりあえず、先に行って待ってるから」
「うん、わかった」
大村は、緊張する空間から逃げ出すような勢いで一目散に走っていった。
試合中はドッシリと落ち着いているのに、こうして女の子と何気ない会話をする時はフワフワと挙動が怪しくなる。
そんな変わらぬ大村の後姿を見ながら、“りん”はクスクスと笑った。
「じゃあ、りんさん。ユニフォームは部室の中のりんさんのロッカーに入れてありますので……」
「も、もうロッカーまであるの!? なんか至れり尽くせりだなぁ……」
「それはそうですよ。りんさんは野球部の救世主なんですから」
「それ、言いすぎだろ……」
栞と“りん”は、声を出して可笑しそうに笑った。
「さぁ、今なら誰も入っていませんから、今のうちに着替えてください」
栞に促され、“りん”が部室のドアを開けようとした時、ドアの真ん中に妙な形の立て札が掛けられていることに気付いた。
白地にえんじ色のワンポイントを使った鳳鳴のユニフォームを着た、長いポニーテールの少女を象った木製の立て札。
胴体部分には、可愛らしい書体で『着替中』と……裏面には『今はいません』と記され、何故かポニーテール部分の色だけは銀色。
描かれた顔は“りん”に似ているとも似ていないとも言い難かったが、その表情にはどことなく愛嬌があり、いかにも時間をかけて手作りしました……という感じの温かさに溢れていた。
「こ、これ……?」
「すごいでしょう? これ、大村さんが言い出したんですよ」
「大村クンが……?」
「はい。少し前に部内で、りんさんが野球部に入ってきたら着替えをどこでしてもらおうか……って話になりまして、そしたら大村さんが『部室に立て札を掛けて、萱坂さんが着替中ってわかるようにしたらどうかな?』って発案したんですよ」
「へぇ……」
「それで、沙紀さんと東子さんがデザインして、山崎さんと私がそのデザインどおりに作って、のんちゃんが色付けして……」
「え……、の、のどかの色付け……!?」
そう言いながら、ポニーテールの部分に釘付けになる“りん”の視線。
黒髪であるはずの“りん”のポニーテールが、なぜ銀色に塗られているか……わかるような気がした。
「ええ、のんちゃんにこのことお話したら、ぜひやりたいって張り切っちゃって。ただ、この銀色だけは私もちょっと……って思ったんですけど『この方が目立つから』ってそのまま……」
栞が、盛んに銀縁の眼鏡を触りながら、恐縮そうにドギマギする。
“りん”は、苦笑するほかなかった。
確かにのどかならそう言ってもおかしくない……と思ったからだ。
「ま、まぁいいや。これはこれで味があるし」
「ほ、本当ですか?」
「うん。ありがたく使わせてもらうよ」
良かった……そう聞いた栞の顔は、心の底から嬉しそうな笑顔になっていた。
“りん”も、噛みしめるように笑みをこぼした。
わざわざこういう物を作ろうと言ってくれた大村に。
おそらく楽しみながらデザインしてくれたであろう沙紀と東子に。
手間暇をかけて丁寧に作ってくれた山崎と栞に。
そして、一生懸命色塗りを仕上げてくれたのであろうのどかに。
嬉しいサプライズに心からの感謝の気持ちを込めて、“りん”は立て札を『着替中』にひっくり返した。
◇
グラウンドと校庭の間には、安全確保のために高さニメートルほどのフェンスが設けられている。
校庭から体育館へと向かう共用路とグラウンドとを仕切る、何の変哲もないフェンスであるが、今日に限っては少々様相が違った。
“りん”の野球部入部初日。
鳳鳴高校野球部初の女性部員となる“りん”の晴れ姿を一目見ようと、すでに野次馬根性旺盛な生徒たちがフェンスに群がり始めていた。
そうでなくとも“りん”は、球技大会の活躍により校内では名の知れた存在である。
不特定多数の興味をそそるのも不思議ない話であった。
「なんか、スゴイことになってきたよ……?」
「そ、そうね……。ホントにりんってば、毎回毎回よくやるわよねぇ……」
別に“りん”がどうしたわけではないのだが、沙紀はなんとも理不尽な愚痴をこぼしながら辺りを見渡した。
所属する女子バスケ部の練習が始まる前に、ちょっとグラウンドまで“りん”を見に立ち寄った二人だったが、次第に増え続ける人手に辟易としつつあった。
すでに二十人以上が集まっている上、その人だかりに訝しみながら近づいてくる者もおり、人が人を呼ぶ状況に拍車がかかろうとしている。
そんな中、沙紀が、ゾロゾロと近づいてくる生徒たちの一人にのどかの姿を見つけた。
「あら、のどかじゃない!」
「ホントだ~♪ お~い、こっちこっち♪」
東子たちに気付いたのどかが、人と人の間をひょいひょいと縫って小走りで近づいていく。
極めて背の低いのどかだから出来る芸当である。
「やぁ。どうだい、りんは?」
そう言いながら、のどかはフェンス越しにグラウンドを見た。
野球部員全員が輪になって、二人一組の柔軟体操をしている最中だった。
ちなみに“りん”とコンビを組んでいるのは、言わずと知れた大村である。
「あのとおり、この観衆にも気付かず、楽しそうなもんよ」
「あはは。それは、りんらしいねぇ」
楽しいことに没頭している時の“りん”は、周りになかなか気付かない。
それを知る三人は、のどかの台詞に声を出して笑った。
念願かなっての野球部入部である。
嬉々として練習に取り組んでいる“りん”の様子は、手に取るようにわかった。
しばしフェンスに寄りかかりながら“りん”に見入る三人。
おもむろに東子が口を開いた。
「りんってさぁ……な~んであんなに野球が好きなんだろーね?」
「さて……ね。私にはわからない世界だわ」
東子も沙紀も、至って普通の女の子の感覚しか持ち合わせていない。
野球の面白さに魅せられた和宏の気持ちなど、二人には理解できないであろう。
「でも、そこまで打ち込めるものがあるって……ちょっと羨ましいなぁ」
のどかは、グラウンドで柔軟体操を続ける“りん”から視線を外さずに、目を細めながらそう言った。
東子と沙紀は、お互いに顔を見合わせつつ、同感だと言わんばかりに頷いた。
「ホントに甲子園に行けちゃうのかなぁ?」
イタズラめかした口調で、東子が問いかける。
予選敗退が常である鳳鳴にとっては、甲子園など夢物語そのもの。
鳳鳴の生徒は、誰一人として鳳鳴が甲子園にいけるなどとは思っていないだろう。もちろん沙紀も東子も、だ。
「それはわからないけど。ただ……」
「ただ?」
「りんなら本当にやっちゃいそうな気がする」
普通に考えればありえないことなのに、そんな気がすること自体がのどかにとっても不思議であった。
だが、一見不可能そうに思えることを“りん”はやり遂げてきた。
球技大会しかり、滝南戦しかり。
そう考えると、決して絵空事とは言い切れない……とのどかは思った。
一瞬きょとんとした東子と沙紀だったが、二人は次第に込み上げる笑いを押し殺しきれずに声を出して笑い始めた。
「確かに。根性で何とかしちゃいそうだわ! 熱血バカだから」
「そうそう! なんだかんだ言って……ね♪ 野球バカだから♪」
そう言って、二人はなおも笑い続ける。
のどかの言わんとすることは、沙紀にも東子にもよくわかった。
この二人も、そんな“りん”の姿を見続けてきたからだ。
ひとしきり笑い終えた沙紀は、足元に置いてあった鞄とスポーツバッグを手に取った。
「さて、私たちも行きましょうか。“りん”が甲子園なら、私たちは高校総体くらい目指さないとね」
「え~!? ムリムリムリ! アタシなんかいくら頑張ったって……っ」
「誰も超絶運動神経ゼロ娘には期待してないって。さぁ! 行くわよ!」
髪が必要以上に乱れぬように部活の時にだけ付ける赤いヘアバンドをバッグから取り出し、慣れた手つきでショートカットをまとめ上げた沙紀は、妙に張り切った表情で東子を引きずっていく。
もちろん、行き先は体育館である。
「じゃあ、のどか。私たち部活《バスケ部》に行くから!」
「ふみゅー! ふみゅーぅ!」
沙紀は手を大きく振りながら駆け出し、東子も不満の奇声を上げながら沙紀を追いかけていった。
その遠ざかっていく二人の後姿は、まるで“りん”にあてられたかのようなやる気に満ちていた。
「みんな前に進んでいるんだね」
そう呟きながら、のどかはグラウンドに視線を移した。
すでに練習はシートノックに移っていた。
小気味良いノックバットの打撃音とハツラツとした掛け声がさかんに辺りに響き渡る。
そして、その練習風景を楽しそうに眺めるギャラリーたち。
全てが、色鮮やかな活気に満ちている。
のどかは、自嘲したように笑いながら羨望の眼差しを向けた。
まるで別世界の光景を見るように。
「わたしだけか。立ち止まったままなのは……」
ポツリと寂しそうに呟いたのどかを、一際冷たく乾いた風が吹き抜けた。
身震いをしながら、赤と黒のツートンで編み込まれたマフラーを鞄から取り出して首に巻く。
のどかの顔が下半分ほど隠れ、肌を突き刺すような寒さは一旦和らいだ。
今日は、普段よりだいぶ冷え込んでいる。
おそらく、夕方から夜半にかけてさらに寒さを増すだろう。
そんなことを考えながら、のどかはかじかんだ手をこすり合わせた。
グラウンドでは、ユニフォーム姿の“りん”が白球を追っていた。
瞳を輝かせ、長いポニーテールを揺らしながら披露する華麗なフィールディング。
それはさながら、野球ができる喜びを全身で表現しているようにも見えた。
「頑張れ……和宏」
そう呟いたのどかの白い吐息は、冬の空に溶けるように儚く消えていった。
ここまで読んでくださった皆様、お疲れ様でした。
作者の頭の中にある物語はまだ中途ではありますが、今話で第三部が終わり、大きな一区切りがついたため、完結という形を取らせていただくこととしました。
しばしの充電期間の後、また戻ってきたいと思います。
次の第四部は、『俺、りん 完結編』として新規に投稿するつもりです。ただ、ひょっとすると先に全く別の作品を公開するかもしれません。その辺の順番の前後は大目に見ていただけると助かります。
それではまた、次回作でお会いしましょう。
BY じぇにゅいん




