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俺、りん  作者: じぇにゅいん
第三部
175/177

第172話 『野球の神様 (2)』

体が軽い。まるで背中に羽が生えているかのように。


体力の限界は、とうに越えているはずだった。

だが、逆転に成功し、ハッキリと勝利が見えてきた途端に、疲れ切っていた身体にどこからか力が漲ってきた。


(現金だよな……全く)


和宏は、自らに苦笑いしながらも、一球一球を全力で投げ込んでいく。


全身から溜め込んだ力の全てを指先に込めたリリースの感触。

手を離れ、自分の思い描いた軌道をトレースしていくボール。

それが大村のミットに収まる瞬間、背筋を突き抜けるような快感が走る。


今はただ、投げることが楽しかった――。




九回裏、ワンアウト。

打席には、九番の遠藤。

投手であるが、標準以上の打力を持ち合わせた怖い打者でもある。


一点差というリードは、決して安全圏ではない。

一つ間違えば、あっけないサヨナラ負けもありうる危険なスコアだ。

何より相手は、甲子園常連の強豪・滝南である。

和宏も大村も、一瞬たりとも油断していないはずだった。

しかし、遠藤の執念がそれを上回った。


“りん”の投げた六球目を上手く捉えた遠藤の打球は、左中間を真っ二つに破った。

打った遠藤は難なく二塁まで進み、滝南はスコアリングポジションにランナーを置くことに成功した。


スコアリングポジション……ワンヒットで同点が狙える位置。

そして、同点になった時点で勝敗は決するだろう。

まだ体力を余す遠藤と、すでに体力の限界を超えている“りん”。

延長戦に入ればどちらが有利でどちらが不利か……答えは誰の目にも明らかだった。


“りん”は、再び息を荒くしながら、遠藤の立つ二塁を見やった。


「くっそ~、さすがに簡単には勝たせてくれないな……」


「仕方ないよ。ボクたちが相手にしているのは、あの“滝南”なんだから」


マウンドまで出張ってきた大村が、すかさずフォローを入れる。

大村の配球ミスでも“りん”の失投でもなかったことに疑問の余地はない。

二人は、滝南の……遠藤の執念に舌を巻くしかなかった。


「とにかく、最後までバックを信じていこう。今までそうしてきたように」


白を基調としているとは思えないほど、泥で真っ黒に汚れた“りん”と大村のユニフォーム。

だが、何度となく好守で“りん”を救ってきた守備陣のユニフォームは、それ以上に白い部分が残っていなかった。

そして、勝利を目前に控えた彼らは、打球が飛んでくるのを心待ちにするほど高いモチベーションを保っている。

頼もしい面構えをした味方を一瞥した“りん”は、大村の台詞に素直に頷いた。


「うん、了解」


和宏のいいところは、細かいことでグジグジと引きずらないことである。

その長所が、この大詰めの局面でも遺憾なく発揮されている。

軽く頷き返した大村は、そのままホームに戻ろうとした。

その時、“りん”は大村を呼び止めた。


「あ、大村クン……」


「……なに?」


「いや……、なんでもない」


大村は、小さく肩をすくめて、ドスドスと響く足音とともに戻っていった。


和宏は気付いていた。

決して汗っかきではない大村の額にうっすらと脂汗が浮かび、色黒な大村の顔が血の気が失せたように蒼白になっていることに。

どこか痛めているのではないか……と和宏は疑ったが、ハッキリと指摘することは出来なかった。

怪我を“りん”に気付かれないように振舞っていることが明白だったからだ。


ここで怪我のことを問い詰めたところで、大村は決して認めないだろう。

そして何より、大村自身は試合の続行を望んでいるはずなのだ。

だから、怪我を必死で隠している。

目前まで辿り着いた敵陣に、勝利の旗を掲げるために。


和宏には、大村の気持ちが痛いほどよくわかった。


ここまで来て勝負を投げることなど出来はしない。

ならば、今は一刻も早く試合を終わらせるべきなのだ。

もし大村がなんらかの怪我を負っているのが本当だとしたら、出来ることは……多分それしかない。


そういう結論に達した和宏は、大村が戻るのを待ってから、サインを覗き込むために身を屈めた。


 ◇


「まだわからん……まだ」


展望ガラスにべったりと両手を張りつけ、落ち着かぬ様子で外を注視しながら、重彦はうわ言のように呟いていた。


歴然としていたはずの両校の力の差。

それをあざ笑うかのような鮮やかな逆転劇は、滝南の勝利を確信していた重彦にとって信じ難い出来事であった。


最終回、滝南がワンアウトから掴んだチャンスを見て、重彦はすがらんばかりに飛びついた。

滝南が本来持つ実力を発揮すれば逆転は容易い。ワンアウト、ランナー二塁という局面は逆転サヨナラに向けた序章なのだ、と。


直子はソファに腰掛けながら、ガラスにまとわりつく重彦の後姿の浅ましさを憐れみを持って眺めた。

ただひたすら勝ち負けの結果にこだわり続ける軽薄な言動は、滑稽ですらあったからだ。


失笑を堪えつつ、何気なしに夏美を横目で見る。

この試合中、落ち着きのない夏美らしくなく静かにソファに座って観戦していた夏美が、両手で自分の身体を抱きかかえていた。

爪が腕の肉に食い込むほど強く、まるで寒さに震えているように。


「夏美? どうしたの? 寒いの?」


直子は、おかしい……と思いながら、夏美に話しかけた。

この特別観覧室は、展望ガラスによって外界と遮断され適度な空調が効いており、今も低い稼動音を唸らせているそれは、この室内を快適な温度に保っている。

むしろ、白熱する試合にあてられた熱気で蒸し暑く感じるほどだ。


「ううん、違う。なんだろう、このイヤな感じ……」


そう言いながら、夏美は眉をひそめながら首を横に振った。

自分の腕を掴む手に、さらにギュッと力が篭る。


「イヤな感じ?」


意味が分からず、聞き返す直子。

コクリと頷いた夏美から返ってきた言葉は、どこか不吉を孕んだ一言だった。


何か……良くないことが起こりそうな――。




 ◇


滝南の攻撃は、再び一番に戻った。

バッターボックスに入った上地は、平常心を保つために深呼吸を一つした。


ここで上地が凡退すれば、滝南は土俵際まで追い詰められることになる。

しかし、打てば同点……実質勝利。

上地のバットには、滝南の勝利とプライドがかかっていた。


(絶対に打つ……!)


そう呟きながら、バッターボックスに入った上地はバットを構えた。


上地から見たマウンド上の“りん”は、小憎らしいほど落ち着いている。

第一球は、内角に喰い込んでくるスライダーだった。

ボールと判断し腰を引いて見送った上地であったが、主審の判定はストライク。


上地は、相変らずの“りん”の制球力に思わず舌打ちをした。

最終回まできても乱れぬコントロールには賞賛するほかはない。

今さらながら


『彼女が手強くなるのは……多分二巡目からだよ』


と言い当てた松岡の慧眼には感嘆せざるを得なかった。(第157話参照)

実際、二巡目以降の上地は、たった一本のヒットしか打てていなかったからだ。


カウントが追い込まれてからでは不利になる。

そう考えた上地は、次のストライクに狙いを定めた。


“りん”の第二球は、第一球と同じように内角に喰い込んでくるスライダー。

二球同じ球が続いたことに虚を突かれながらも、上地は鋭くバットを振り抜いた。


力強い金属音とともに、マウンド上の“りん”を目掛けて、刺すような鋭いライナーが糸を引く。

だが、和宏は類稀な反射神経でもって瞬時に反応した。


(捕れる……っ!)


今までも“瀬乃江和宏”は、その反射神経を活かして“ピッチャー返し”を捕ってきた。

この“ピッチャー返し”も、十分に捕れる範疇だった。

少なくとも、和宏はそう思った。


自信を持ってグラブを差し出す。

だが、次の瞬間、視界が不意に真っ黒に染まった。


(――っ!)


悲鳴を上げる間もなく、脳天を揺さぶるような衝撃が“りん”を襲う。


力なく尻もちをついた“りん”の上半身が、そのままグラリと崩れ落ちた。

まるでスローモーションのコマ送りを見ているように、ゆっくりと。


ほんの一瞬の出来事に、三塁側も一塁側も特別観覧室も……球場内の全ての空気が凍りついた。


突然、目の前に現れた悪夢のようなワンシーン。

誰もがその一部始終を目撃したにもかかわらず、誰一人として“りん”の頭部に打球が直撃した事実を素直に飲み込むことができずにいる。


マウンド上に横たわったまま、ピクリとも動かない“りん”。

弱々しく転々とマウンドの傾斜を下っていくボール。

雲間から顔を覗かせる場違いな太陽。


降り続いていた雨は、いつの間にか上がっていた。



――TO BE CONTINUED

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