第171話 『野球の神様 (1)』
ついに試合をひっくり返した鳳鳴と逆転を許してしまった滝南。
九回裏……最終回。ここまでくれば、もはや弱小も名門も関係ない局面だといえるだろう。
球場の最も高いところに位置する特別観覧室からは、元気よく守備に散っていく鳳鳴ナインがよく見えた。
堂丸は、リラックスしてくつろぐには最適な革張りの高級ソファに身を沈めながら目を細めた。
その視線は、ぱらつく小雨の向こう側にあるバックスクリーンのスコアボードに向いている。
燦然と輝く九回表の“3”という数字。
堂丸には、その数字が心なしか誇らしげな光を放っているようにも感じられた。
「直子さん……」
堂丸のしゃがれた声が直子を呼ぶ。
土壇場で飛び出したスリーランホームランというまさかの光景。
それでも、グラウンドを見つめる堂丸の顔つきは威厳を保ち、戸惑いはしっかりと隠されていた。
だが、堂丸の後ろに座っている息子の重彦の方は、力なくソファに身を横たえつつ、威厳などまるで無縁の呆けた表情のまま。
直子は、その姿に内心で失笑を禁じえないほどの情けなさを感じながら、呼ばれるがままに堂丸の横に立った。
「アンタ……まさか、こうなることがわかっていたんじゃあるまいな?」
予想だにしない、突拍子もない質問に直子は目を丸くした。
しかし、堂丸にとって至って自然に発生した疑問であった。
鳳鳴高校という無名の弱小校が名門・滝南に勝てたら、萱坂りんという娘に甲子園への道を与えてほしい――。
夏美の親権をエサに、そんな話を直子から持ちかけられた時は、一瞬『正気か?』と耳を疑った。
堂丸にとって、あまりにも有利な条件に感じられたからだ。
だが、フタを開けてみれば、最終回まで試合が進んだにもかかわらず六対五という僅差。
しかも、わずか一点ながらリードしているのは弱小・鳳鳴の方である。
何より、“りん”の力投を始め、攻守の要・大村とムラがありながらも天才肌の主軸打者・山崎がそれぞれに高い存在感を示す今の鳳鳴は、とても弱小とは思えなかった。
一杯喰わされたのではないか……という思いが堂丸の頭をよぎるのも無理からぬことであったが、直子は優雅な笑みを浮かべながらあっさりと否定した。
「まさか。そんなはずありませんわ」
「だが、そうでなければ“あんな話”を持ちかけてくるはずが……」
「いいえ、確信なんてあるわけがありません。滝南の確かな強さは副監督を勤めている私がよく知っていますから。ただ……」
「ただ……?」
堂丸の目の奥が鋭く光る。
だが、その厳しい目つきにも直子は視線を逸らさなかった。
「彼女なら、やってくれそうな気がしただけです」
そう言って、直子はもう一度微笑んだ。
いつもより濃い目に、しかし上品にルージュをひかれた唇が艶やかな桜色を放っていた。
審判の手が挙がり、九回裏が始まった。
“りん”は、一球一球を丁寧に……渾身の力で投げ込み、その度“りん”の身体が雨中のマウンドで蝶のように軽やかに舞う。
無言のまま、しばらくその姿を見つめていた堂丸が、おもむろに口を開いた。
「アンタは、あの娘のどこを気に入った?」
「どういうこと……でしょう?」
「あの娘をアンタがかっているのはわかっておる。彼女のどこに惹かれたのだ?」
直子に鋭い質問を投げかけながらも、堂丸の視線はマウンド上の“りん”を捉えていた。
雨に濡れながらも、一投ごとに風になびく長い黒髪。
それはさながら、妖精のしっぽのように儚く揺れ、流れるように踊る。
直子は、そんな“りん”の姿を視界の真ん中に収めながら、堂丸の質問に答えた。
「理由は……三つあります」
「一つ目は?」
「はい、一つは……あのピッチングフォームです」
堂丸の、年季の入った白い眉毛がピクリと動いた。
マウンド上……身体の柔らかさを最大限活かした、雅びやかなピッチングフォームが、初回と変わらぬままそこにある。
「確かに、な」
堂丸は、小さく何度も頷いた。
その優美さには、堂丸も最初は目を奪われたからだ。
「まるで、あの頃のアンタを思わせる……」
昔の懐かしい記憶を辿るように、堂丸はニヤリと笑った。
からかわれた……と感じた直子は
「戯れはお止めください」
と、苦笑いしながら返しつつ、さらに続けた。
「ただし、これだけは言えます」
直子は、その瞳にかすかな羨望を込め、改めてマウンド上の“りん”を見た。
「あれこそ、私の思い描いていた理想のアンダースロー……そのものです」
かつて、“りん”と同じように投手として活躍した自身の高校時代を思い出す。
今日と同じ堂丸の御前にて、大差で敗れ去った苦い記憶。
“りん”を初めて見た時、その苦い記憶が蘇るとともに身震いを感じた。
そのピッチングフォームには、つま先から指の先まで溜め込んだ力を無駄なくボールに乗せることが出来る効率性が備わっていたからだ。
直子は、ふと大人用のソファに埋もれるように座っている夏美をチラリと見た。
ずっと母の話に聞き耳を立てていたのだろう。
直子と目が合った時の夏美は、“りん”からアンダースローを教わったことを自慢するかのように得意げな顔で笑っていた。
「二つ目の理由を聞こうか」
堂丸が話の先を促すと、直子はあらかじめ用意していた答えを持ち出した。
「勝利への意思です」
「意思?」
「そうです。彼女は諦めません。一つのことに最後まで突き進める強さがあります」
堂丸は、ふむ……と鼻を鳴らした。
「先の練習試合、彼女は松岡くんを含む滝南の九人の打者をパーフェクトに抑えるという快挙を成し遂げました」
その台詞に過敏に反応したのは、さっきまで無様に呆けていた重彦であった。
「くだらん! 何がパーフェクトだ。たった九人じゃないか! 二軍が相手じゃないか!」
その噛み付かんばかりの剣幕は、もはや小者の証でしかない。
直子は、憐れむような視線を向けながら、ハッキリと反論した。
「そうですね……確かにそうです。でも今……彼女はそれ以上の快挙を成し遂げようとしているんです」
そう言って、再び直子はスコアボードに視線を移した。
滝南を相手に勝利を目前にしているという事実は全てに勝る。
子どもに言い聞かせるような直子の口調であったが、重彦は反論の余地なく黙り込むしかなかった。
そんなやり取りを尻目に、堂丸が口を挟んだ。
「それはいわゆる“根性”というやつかな?」
「ええ。まさしくそうだと思います」
“根性娘”……といえば、確かにイメージどおりだと直子は思った。
ワンサイドと思われた試合を必死で耐え、ここまで持ちこたえたこと自体が根性の賜物といって差し支えないのだから。
直子は、言い得て妙……と、一人小さく笑った。
「最後の一つは?」
堂丸が聞くと同時に、グラウンドから大きな歓声が上がった。
この回の滝南の先頭バッターが、あえなくサードゴロに倒れていた。
「ワンアウトワンアウト!」
指を一本立てて白い歯を見せる“りん”の澄んだ声が、このガラスで外界から断絶された特別観覧室内にも微かに響く。
心弾む様がダイレクトに伝わってくる、聞いていて心地よくなる声だった。
「三つ目は……笑顔です」
「笑顔……?」
堂丸が、深いしわの刻まれた顔に怪訝な色を浮かべた。
直子は、そんな堂丸の表情を可笑しく思いながら頷いた。
「はい。見えますか? 彼女のあの笑顔が」
堂丸は、心持ち身を乗り出して目を細めてマウンド上を凝視した。
一人目のバッターを打ち取り、嬉しそうに笑う“りん”の顔が目に入った。
「いい笑顔だと思いませんか? バッターを打ち取った時、試合に勝った時……いつも彼女は本当に嬉しそうに笑うんです」
「……」
「反面、試合中に打者と対峙している時の彼女の眼差しは真剣そのものです」
堂丸は、再びソファに身を預け、思い返すように目を瞑った。
気後れすることなく滝南の打者たちに挑む“りん”の姿は、堂丸の脳裏にも深く焼きついている。
たとえ打たれても、諦めることなく立ち向かっていく姿とともに。
「つまり、彼女のあの笑顔こそ野球に対する真摯さの表れと言えるのではないでしょうか」
「それだけ野球に真剣に向き合っているからこその笑顔……ということか?」
「少なくとも……私はそう思います」
直子は、躊躇いなく言い切った。
あの“始まりの場所”で直子が感じた“りん”の思いは、この試合を通じて、もう確信に変わっていた。
“りん”の甲子園を目指す思いの強さは本物だということを。
「きっと、野球が大好きなんでしょうね。いえ……ひょっとしたら、そんな言葉では言い表せないほどかもしれません」
当時、誰にも負けていない自信があった“野球に賭ける思い”の強さ。
だが、今の“りん”を見ていると、時としてそれが揺らぐ。
きっと“りん”の思いの強さにはかなわないだろう……という気にすらさせられてしまう。
そして、それで納得してしまう自分がいる。
だからこそ、直子は実感を込めて、包み込むように優しく言い放った。
「もし、野球の神様が本当にいるのなら……」
彼女こそ愛される資格を持っているのかもしれませんね――。
堂丸は、厳めしい顔つきを解いて“りん”をもう一度見つめた。
すでに、滝南の九番バッターである遠藤と対峙し、“りん”が一球投げるたびに観客席から歓声が上がっている。
おそらく今は『甲子園への道』のことは頭から抜け落ちているだろう。
ただ、突き上げるような緊張感の中で野球をしている自分を心の底から楽しんでいるに違いない。
そう思いながら、堂丸は身体の力を抜いてソファに身を沈めた。
そして、目を瞑り、大きく息を吐き出した。
堂丸と直子の会話が途切れ、静けさを取り戻した室内。
厚手のガラス一枚隔てた向こう側では、音もなく試合は進み、時は少しずつ刻まれていく。
鳳鳴の勝利は目前だった。
今の勢いならば、滝南の九回裏の攻撃をゼロに抑えてしまうに違いない……と直子は思った。
だが、ジワリと込み上げてくる歓喜に浸りろうとする直子を、背後から聞こえる耳障りな声が邪魔をした。
「このまま終わるはずがない……」
響いたのは、焦燥感を丸出しにした重彦のうめくような声。
ソファに腰掛けながら、瞳を虚ろに染めた重彦は
「絶対に……絶対に……」
と、呪いの言葉のように何度も繰り返していた。
――TO BE CONTINUED




