第170話 『タッくんとサッちん (2)』
景気の悪い金属音とともに、山崎の打ち上げた小フライが三塁側の観客席に飛び込んだ。
沙紀たちの席から十メートルと離れていない無人のシートを直撃したそれは、辺りに響き渡るほどの音を立てて大きく跳ね返り、予想以上の音に驚いた沙紀たちからは三者三様の小さな悲鳴がもれた。
「ぅわぁ……ビックリしたぁ~!」
東子が、緊迫したスタジアムの雰囲気などお構いなしに素っ頓狂な声を上げた。
呑気な声に、のどかがクスリと笑う。
しかし沙紀は、その切れ長の瞳でグラウンドを凝視したまま、東子にものどかにも相槌すら打たなかった。
「……?」
その、ただでさえ鋭い沙紀の目つきが、話しかけるのも躊躇してしまうほどの不機嫌さを漂わせている。
のどかと東子が、ゆっくりと顔を見合わせながら、改めて沙紀の視線を辿ると、行き着いたのはバッターボックスに立つ山崎の背中……背番号“5”であった。
「さ……沙紀?」
東子が、おそるおそる沙紀に問いかける。
付き合いの長い親友の東子ですら、さすがに腫れ物に触るような言い方しかできなかった。
「山崎、何やってんのよ……」
「……え?」
「妙にビビッてるし、妙に迷ってる……って言ってるの!」
独り言のように呟きながら、沙紀の傘を持つ手に力が篭る。
「昔はあんな感じじゃなかったでしょ?」
「な、何が……?」
「あぁんもう! 歯がゆいったらありゃしないわよ……全く!」
東子の要領を得ない返事が、さらにもどかしさを募らせる。
傘の柄が曲がってしまうのではないか……というくらい、沙紀は苛立ち任せに力を込め直した。
のどかと東子は、不思議なものでも見たかのように、もう一度顔を見合わせていた。
◇
ここを最後の勝負場所と決め込んだかのような遠藤のピッチングの前に、山崎はファールに逃げるのが精一杯だった。
「チキチョー……」
山崎は、吐き捨てるように呟いた。
カウントはツーストライクツーボールと変わらず。
せっかく盛り上がった士気を萎えさせないためにも、簡単に打ち取られるわけにはいかなかった。
チャンスを迎えたとはいえ、九回表ワンアウトの時点でまだ二点差で負けているのだ。
二塁ランナーの広瀬と一塁ランナーの倉木が、ジリジリとリードを広げていく。
だが、そのリードは比較的控えめでセーフティなもの。
ウロチョロして、山崎の集中力を削がないためである。
二年生から堂々とレギュラーを張っている山崎に対する信頼は、それほど絶対的だった。
ランナーなど気にしていないかのように、遠藤が大きなバックスイングからストレートを放つ。
下半身の踏ん張りが利かなくなっているフォームは若干手投げ気味になっていたが、鍛えられた上半身によって球の威力自体は全く衰えてはいない。
内角低めという苦手コースを突いてきたストレートを、山崎は窮屈そうなスイングで打ち返した……が、ジャストミートしなかった打球は三塁線へのボテボテのゴロになった。
(ヤベェ!)
山崎は、慌てて一塁に走った。
二人のランナーも、泡を食ったような表情で次塁を目指す。
三塁手がダッシュ良く打球を掴み、ダブルプレーを狙ってセカンドベースに向き直ったところ、主審が大きく両手を広げてファールのコールをした。
ギリギリであったが、捕球の寸前にボールは三塁線を切れていたのだ。
ファールになっていなかったら、間違いなくダブルプレーで試合終了だっただろう。
九死に一生を得たようなホッとしたタメ息が三塁側ベンチからこぼれた。
だが、山崎自身は、さらに重いプレッシャーに苛まれることになった。
もう一度与えられたチャンス。にもかかわらず打てる気がしない。
山崎とて修羅場を抜けてきた経験は人一倍ある。
そんな時は、常に打てるという確信を持って挑んできた。
しかし、こんなにも打てる気がしない打席は、初めての経験だった。
最終回まできても未だパワフルな遠藤のピッチングと、たとえ制球力はなくとも松岡による巧みな配球の前に的を絞ることすら容易ではない。
それでも、山崎には四番としての無言の期待がかかっている。
山崎は、逃げ出したくなるようなプレッシャーに背中を押されながら、どこかトボトボとした足運びで再びバッターボックスに入ろうとした。
その時だった。
「こらーっ!」
三塁側の観客席から、聞き覚えのある女の声。
山崎は、足をピタリと止めつつ、声のした方を振り返った。
(さ、沙紀……!?)
つい先ほどまで傘を差しながら大人しくシートに座っていたはずの沙紀が、傘を放っていつの間にかフェンスに張り付いていた。
「アンタ何やってんのよ! そんなオドオドしてたら打てるものも打てないでしょうが!」
苛立ちが頂点に達した沙紀の怒声は、グラウンド中に響き渡るような大きな声だった。
山崎はもちろんのこと、反対側の一塁側ベンチや外野まで聞こえるほどの大声に全員の目が点になっていた。
だが、沙紀は気にすることなく、フェンスにへばりつく指に力をさらに込めながら続けた。
「りんがあれだけ頑張ってるのよ! このまま見殺しにしたら承知しないんだからっ!」
ベンチに腰掛けている“りん”の表情がピクリと動いた。
気遣いの言葉を嬉しく思う気持ちと、このグラウンド中に聞こえるような大声で名前を出された恥ずかしさとがせめぎ合う。
「だから……もっとしっかりして!」
打ちたいという気持ちは十分すぎるほどあるし、言われずともプレッシャーは押しつぶされそうなほど感じている。
山崎は、しっかりしてと言われても……と思いながら、“りん”と同様に戸惑いの表情を浮かべた。
そんな煮え切らない山崎の反応に業を煮やした沙紀は最後、とびっきりの大声で叫んだ。
昔みたいに打ちなさいって言ってるのよ! タッくん――っ!
静まり返る場内。
一瞬だけだが、雨の降る音が聞こえるほどの静寂だった。
その静寂を破るように、あちらこちらから忍ぶような笑い声がこぼれてきた。
「なんつーでっけぇ声……」
「おっかねぇ……」
「なんなんだ、あの女……?」
それらは、ほぼ失笑に近いものだった。
期せずして張り詰めていたスタジアムの空気が緩んだ。
たった二人……山崎と遠藤を除いては――。
山崎が、グリップエンド一杯に持った金属バットを立て続けに三度振った。
力強く風を切る音が、そのスイングの鋭さを示す。
山崎の表情は、明らかにうって変わっていた。
キャッチャーマスク越しにそれを感じ取った松岡は、一寸考え込まざるを得なかった。
ここまでの三打席は、迷いに乗じていとも簡単に配球で翻弄することが出来たが、今の山崎からは組し易い雰囲気は感じられない。
迂闊な攻めは危険だと、松岡のカンが告げている。
コントロールに不安のある遠藤ゆえに、フルカウントにはしたくない。
決めるとすれば、次の球だ。
そう考えた松岡は、ミットを外角低め一杯に構えた。
だが、遠藤は首を横に振った。
その仕草は自信に溢れていた。
(アイツのことはよく知っている。クセも……弱点も)
まるで、そう言っているように。
マスクを被った松岡の顔に、控えめな雨粒が時折当たる。
鬱陶しさを感じながらも、松岡はさらに頭を回転させ……そして遠藤に要求した。
内角低めへ。今投げられる最高の球を。
松岡の出したサインに遠藤は、我が意を得たと言わんばかりに頷いた。
“内角低め”は、小学四年生の時から明らかだったはずの、未だに克服されていない山崎の苦手コースであり、このコースに決めれば、山崎のバットは沈黙するしかない。
遠藤は、いつものように背筋をピンと伸ばしてセットポジションに入った。
(お前は、俺にないものを全て持っていた)
ブツブツと独りごちながら、セットの動きを一旦止めた遠藤の視線が、微動だにしない構えの山崎の視線とぶつかり合う。
まるで、先に視線を逸らした方が負けだと思っているかのように両者は睨みあった。
(それを俺がどれだけ羨ましく思っていたか……お前にわかるか?)
理由もなく、遠藤は背中に沙紀の視線を感じたような気がした。
思わずセットポジションを解き、振り向こうとして思いとどまった。
気のせいだ……と必死で頭の中で否定しながら、再び滑稽だと自嘲する。
(せっかく名門高校にスカウトされたのに、沙紀と同じ高校《鳳鳴》に進学するために断ったお前……)
告白するわけでもなく、付き合うわけではなく……ただ幼馴染としてたまにじゃれ合う関係を続けるための山崎の選択。
中学校時代、たまたま再会した東子からその事実を聞いた時、遠藤の“羨望”は“敵意”に変わった。
(俺なんかよりずっと野球の才能があったくせに……)
長くなったセットポジションから、ゆっくりと右足を上げてバックスイングに入る。
固唾を呑んだ場内からは、すでに雑音は消えていた。
(沙紀が昔からどれだけお前のことを見続けてきたかもわかってないくせに……)
振り上げられた左腕が唸りを上げ、食いしばった歯が軋む。
(だから負けたくないんだよ)
お前にだけは――っ。
大きな迫力あるモーションから放られたストレートが、山崎の弱点である内角低めへ。
会心の一投だった。
このコースならば、山崎は普段の豪快なスイングが嘘のように縮こまるはず……無様に空振りを喫する山崎の姿をイメージしながら、遠藤はニヤリと口角を上げようとした。
だが、次の瞬間、その口元の動きが凍りついた。
山崎は、躊躇なく左足を大きくレフト方向に開いた。
そのまま強烈なバットスピードで、内角低めではなくなった遠藤のストレートを真っ芯で捉える。
切り裂くような金属音。
センター方向に飛んだ打球は、ライナー性の勢いのままバックスクリーンを直撃した。
一瞬の出来事に、誰もが唖然とした。
遠藤も、松岡も、滝南の守備陣も。
三塁側のベンチの“りん”たちも、観客席の沙紀たちも。
「っしゃあっ!」
山崎が、静寂を破るように雄叫びとともに金属バットを放り投げ、一塁に向かってゆっくりと歩き出した。
ようやくそれが“ホームラン”であることに気付いた三塁側の観客席から耳をつんざくほどの歓声が上がり、ベンチの中は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
六対五……鳳鳴は、この土壇場で逆転に成功した。
◇
山崎が、喜びを噛みしめるように、ゆっくりとダイヤモンドを回っていく。
その様をチラリと横目で見ながら、松岡はマウンド上で呆然と佇む遠藤に話しかけた。
「ドンマイ」
松岡は、あえて笑顔を交えて話しかけた。
だが、遠藤は沈痛な表情を崩さなかった。
「すまん……」
そう言って、力なく頭を垂れる。
松岡の指示した外角低目に首を振り、内角低目を攻めたのは紛れもなく遠藤だったからだ。
「いや、いい球だったよ。多分、今日一番の……ね。ただ、運が悪かっただけさ」
「……運?」
「彼は内角低めに一か八かのヤマを張ったんだ。それ以外のコースなら絶対に三振だった。こんなことは言いたくはないけどね……完全なマグレだよ、あれは」
遠藤は、口惜しそうに唇を噛み締めた。
山崎の性質は、全て頭の中に入っているはずだった。
ギリギリの局面でのるかそるかの博打に手を染めることが出来る……その昔と変わらぬ思い切りの良さも。
今日の山崎からは、それがずっと影を潜めていた。
沙紀があの激を飛ばすまでは。
松岡の慰めが、より一層無念さに拍車を掛ける。
打たれてしまった事実は、もう覆ることはない。
力なくうなだれた遠藤の背中を、松岡はミットでドスンと叩いた。
「滝南のエースが下を向くな」
「あ、ああ……」
「笑われるよ……鳳鳴《向こう》のエースに」
松岡は、ベンチ前でお祭り騒ぎを繰り広げる鳳鳴ナインたちの輪の中にあって人一倍嬉しそうな笑顔を振りまく“りん”に視線を向けた。
すでに、松岡のみならず、滝南の誰もが認めざるを得なくなっていた。
女性の身でありながら、堂々と滝南と渡り合う“りん”のことを。
遠藤は、言われるがまま顔を上げ胸を張った。
それでいい……と松岡は思った。
まだ、九回裏の攻撃が残っているのだから。
◇
ゆっくりと二塁を回った山崎が、ふと顔を上げた。
飛び上がって喜ぶ三塁側観客席の応援団の面々。
無邪気にピョンピョン飛び跳ねている東子と、クールに手を叩くのどか。
そして、フェンスにしがみついたまま、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている沙紀。
その全てを視界に入れた山崎は、込み上げる笑いを堪えながら自らの足元を見た。
(タッくん……か)
思い出しただけで、沸々と笑いが込み上げてくる。
幼少の頃の山崎の呼び名。
それも、幼馴染の沙紀と東子だけが使う間違った呼び名(第78話参照)である。
(一体いつからだろうな。お前が俺のことをそう呼ばなくなったのは……)
“タッくん”から“山崎”へ。
だが、いくら記憶を辿っても、それは“いつの間にか”としか言いようがなかった。
(まぁいいか。お互い様ってヤツだ)
山崎は、三塁ベースを踏むと同時に右手を高々と掲げた。
まるで祭りのフィナーレのように、ますます大きい歓声と拍手が辺りを包む。
なぁ、サッちん――?
◇
「ねぇねぇ♪ 今、タッくんが右手挙げたよ! 沙紀のこと見ながらっ♪」
「そ……そう?」
「そうだよっ! もう! 気付かなかったっ!?」
「別に……」
沙紀の気のない返事に、東子はプクッと頬を膨らませ、それを見た隣ののどかが可笑しそうにクスクスと笑っていた。
「でも、すごい打球だったね」
「そうね……」
沙紀がそう答えるのと、山崎がホームを踏んだのはほぼ同じタイミングだった。
白い歯を見せて嬉しそうに笑いながらベンチに戻ってくる山崎を、沙紀はその目で追っていく。
ベンチ前に出迎えたチームメイトたちが、帰ってきた山崎をもみくちゃにし始めた。
頭や背中をバンバン叩かれながらも、それすら楽しむように笑う山崎。
その姿にはもう、自信なさげに背中を丸めていた面影は微塵も感じられなくなっていた。
(なによ……)
沙紀は、そんな様子をボーッと眺めながら、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
(やればできるんじゃない……)
その口元は、無意識のうちに嬉しそうに綻んでいた。