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俺、りん  作者: じぇにゅいん
第三部
172/177

第169話 『タッくんとサッちん (1)』

厚かった雨雲が薄くなりつつあった。

雲の切れ間から差す秋の弱い陽光が辺りを照らしながらも、未だ降り止まない小粒の雨。

それも時間の経過に従って、次第に弱々しくなってきている。


試合は、九回表の大詰めを迎えた。

結局、試合の間中ずっと雨が降り続いていたことになる。

プレイする選手たちはともかく、観客席で観戦している沙紀たち鳳鳴の応援団からすれば、あいにくの鬱陶しい雨だったといえるかもしれない。

だが、そんな雨など吹き飛ばすかのように、ここにきてスタジアムの熱狂は最高潮に達しようとしていた。


この回の先頭バッターである一番の広瀬は四球を選んだ。

終盤に差し掛かってコントロールの乱れが目立ってきた遠藤を、ホームベースに覆い被さるような構えで上手くかく乱したのである。

続く二番の矢野はあえなく三振に倒れたが、三番の倉木は執念で粘りに粘り、ついには太ももにデッドボールを受けるに至った。

死球を受けた直後、痛みを堪えながら見せた倉木のガッツポーズは印象的であった。


九回表、ワンアウト二塁一塁。

二点差を追う鳳鳴の次打者は、四番・山崎。


まさに全員が一丸となって作り出した千載一遇のチャンスである。

観客席が、この日一番の盛り上がりを見せたのもムリはなかった。


ここで、マウンド上の遠藤とキャッチャーの松岡の両名がベンチに呼び戻された。

常にベンチの奥で戦況を見守っていた監督の秋山が、いつの間にか忌々しげな顔つきで腕組みをしながら最前列に出ていた。

そのサングラスの奥にある瞳は見えない……が、怒りを溜め込んでいる様子は明らかだった。

遠藤も松岡も、緊張の面持ちで秋山の目の前に立った。


「貴様……何だ、この無様なピッチングは?」


秋山の視線が、心持ち表情の固い遠藤の顔を刺す。

相手は、ここまで全く問題にしていなかった格下の打者たちである。

にもかかわらず、二つの死四球を与えてしまったことは、相当に秋山の不興を買っていた。

睨みつけられた形の遠藤も、目を伏せたまま返す言葉がなかった。


「とりあえず今日はもう上がれ。明日からまた鍛え直してやる」


秋山はニコリともせず、『鍛え直してやる』の部分に特に力を込めた。

いわゆる降板命令である。

ブルペンで投球練習を続ける控えピッチャーの準備が整ったということだろう。


遠藤の顔色がサッと紅潮した。


主将としては、監督の指示に従うのが当然かもしれない。

しかし、今回ばかりは事情が違った。


「嫌です」


声は震えていた。それでもハッキリと言い切った。

瞬時に周りの空気がピリピリと引き締まり、向かい合う者を縮み上がらせるような威圧感が辺りを支配する。

部員の誰もが恐れる、秋山のカミナリが落ちる前兆だった。


「もう一度言ってみろ」


「最後まで……投げさせてください」


遠藤は、瞳に精一杯の意志の強さを宿らせて、臆することなく秋山のサングラスの奥を見つめた。


「……造反か?」


秋山が、一際ドスの利いた声で凄んだ。

ワンマンでなるこの男は、反対意見を好まない。

ここまで唯々諾々と自らに従っていた模範的主将の遠藤の反抗に、内心では戸惑いを感じながら、秋山はさらに問い詰めた。

だが、秋山の凄みを利かせた台詞にも、遠藤は怯まなかった。


「負けたくないんです」


「なんだと?」


負けたくない相手とは、もちろん因縁の幼馴染・山崎のことである。

その山崎との対決を目前にしてマウンドを降りるなど、遠藤にとっては敵前逃亡の“敗北”であり、はいわかりました……と簡単に頷くわけにはいかなかった。


「逃げたくないんです」


もう一度、遠藤は歯を食いしばるように言葉を重ねた。

その目には、これ以上ないほどの真剣さが混じっている。

さすがの秋山も、二の句を足すことができずに、遠藤の気迫に押された。

そこへ沈黙を守っていた松岡が口を挟んだ。


「鳳鳴《向こう》のあの女性ピッチャーは、まだマウンドを降りていません」


「何が言いたい?」


秋山の声には苛立ちが混じっていた。

いつもならば、すでに怒りを爆発させていて当然の場面だった。

だが、主将と副主将を相手にして、それができないでいる。


遠藤も松岡も、普段と違う秋山の対応をなんとなく感じ取っていた。

無論、秋山を説得する唯一無二のチャンスとして、だ。


「遠藤は僕たち滝南のエースです。格下の鳳鳴の……それも女性があれだけ苦しみながら続投しているのに、滝南のエースが先にマウンドを降りるなんて恥ずべきことでしょう」


秋山は何かを言いたげな素振りを見せたが、結局黙ったまま何も言わなかった。

松岡は、ここぞとばかりにさらに畳み掛けた。


「これから遠藤が滝南のエースとして君臨するためには“誇り(プライド)”が必要です。ここで退いては……それが失われます」


一旦言葉を切った松岡が、改めて秋山の反応を見た。

視線を一点に留め、眉間には深いシワが寄っている。

少なくとも、無碍な反応でないことだけは間違いなかった。


「この練習試合の勝敗を気にするだけならそれでいいかもしれません。しかし、それよりも滝南が来年に向けて本当の“エース”を得ることの方が重要だと……僕は思います」


松岡の説得の言葉は以上だった。

あとは秋山がどういう判断を下すか……である。


「お願いします、監督」


そう言いながら、遠藤は深々と頭を下げた。

松岡も同様に頭を下げる。


二人に頭を下げられた格好の秋山は、腕組みをしたまま苦々しそうに口元を歪めた。

ベンチに座る控え選手たちが、ハラハラした表情で三人のやり取りを見守っている。

口答えを許さないワンマン監督に主将と副主将が同時に意見具申をしたのだ……気になって当然だろう。


決して短くはない沈黙が滝南のベンチ全体を包む。

やがて、秋山は根負けしたように口を開いた。


「好きにしろ」


ありがとうございます! ……と目を輝かせ、遠藤は小走りでマウンドに戻っていく。

松岡もまた、静かに一礼してから、遠藤を追いかけていった。


秋山の完敗だった。


遠藤の赤心溢れる思い。

理路整然とした松岡の説得力。


そのいずれもが秋山に反論を許さなかった。

いや、秋山にすれば反論する必要すらなく、ただ単にバッサリと切り捨てても構わなかった。

人材豊富な滝南ならば、投手にしろ捕手にしろ代わりがいくらでもいるのだから。

だが、監督判断を真っ向から覆され、激昂したくなる感情を抱えながらも、秋山にはそれができなかった。

ある部分で、二人に敬服してしまっていたからだ。


時として、監督は選手から教えを得ることがある。

秋山は、マウンドに戻っていく遠藤と松岡を見やりながらボソリと呟いていた。


大したヤツらだ――と。




マウンドに戻った遠藤は、緊張を解きほぐすように大きく息を吐いた。

あの、逆らう部員には容赦しない秋山に前言を翻させたのが未だに信じられなかった。

だが、こうしてまたマウンドに清々しい気持ちで立つことができたのが何よりの証だった。


「さぁ、責任重大になったね」


そう言って、松岡はクスリと笑った。

秋山の前で大見得を切った手前、これ以上無様な姿を見せるわけにはいかない。

遠藤は、苦笑しながら頭を掻いた。


「わかっているさ」


その視線の先には、バッターボックスの手前で落ち着きなく素振りを繰り返している山崎がいた。


「今日の山崎アイツ安全牌アンパイだ。何も問題はない」


三打数ノーヒット。三振が三つ。

そのいずれもが遠藤の完勝である。

遠藤も松岡も、打たれる気は全くしなかった。


「そうだね。ただ油断だけはしないでいこう」


最後にニヤリと笑みを浮かべて、松岡は戻っていった。


遠藤は、マウンドを入念に慣らしていく。

すっぽ抜けもコントロールミスももうゴメンだ……と思いながら。

そして、慣らし終わったマウンドを二度三度をスパイクで踏みしめながら、三塁側の観客席をチラリと見た。


小柄な東子とのどかに挟まれて、背の高い沙紀はイヤでも目立つ。

昔から背が高かったな……と思いながら、遠藤は東子やのどかと何やら話している沙紀の横顔をボンヤリと見つめた。

そうしていたのは、ほんのわずかな時間。しかし、不意に沙紀の花柄の傘が大きく動き、目が合いそうになった瞬間、遠藤は慌てて視線を逸らした。


目が合ったところで、何が始まるわけでも何が終わるわけでもない……それは遠藤にもよくわかっている。

それだけに、今の自分がいかに“滑稽”かを痛感するしかなかった。


(バカバカしい。昔好き()()()女の子……それだけだ」


込み上げてくるのは、いつまでも女々しい気持ちを引きずる自分に対する嘲笑だけ。

そんな面白くない気持ちを断ち切るように、遠藤はゆっくりとセットポジションに入った。


バッターボックスには、今日四度目の対決となる山崎がいる。

山崎なりに期するところがあるのだろう。

その構えには前三打席よりも気合が込められているようにも感じられた。


(だけど……お前にだけは負けたくないんだよ)


遠藤の目つきが、冷たく厳しいものに変わっていく。

その刺すような視線を山崎に浴びせかけながら、遠藤は低く小さな声で無意識に呟いていた。


絶対にな――。



――TO BE CONTINUED

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