第168話 『大村の意地 (2)』
「石にかじりついても塁出ろよ!」
鳳鳴のベンチからは、ヤジともエールともつかない声が飛んでいる。
最終回。打席に立った一番バッター・広瀬は、思い切りホームベースに被るように構えた。
コントロールに不安を抱える遠藤が、投げにくそうに舌打ちをする。
遠藤は、この終盤にきて不安定な制球力という弱点を露呈した。
その弱点を突くことこそ広瀬の狙いであったが、当然、唸りを上げるような遠藤の速球が身体を直撃する可能性も格段に高くなるだろう。
もちろん、覚悟の上の捨て身の作戦だった。
鳳鳴一の強打者・四番の山崎まで打順を回すための――。
三塁側……鳳鳴のベンチの中は、ことのほか熱気が充満していた。
誰もが広瀬の打席に釘付けになり、一球ごとに一喜一憂を繰り返す。
そんな興奮に包まれた中、ベンチから奥の通路に続くドアのすぐそばに設置されている水道と簡易のシンクで、マネージャーの栞は“りん”のためのお絞りを作っていた。
わずかでも“りん”の疲れを癒せるように……栞なりの、マネージャーとしての戦いだった。
「マネージャー……」
わずかに聞こえた声に、栞は辺りをぐるりと見渡したが、どこから聞こえてきた声なのかがわからない。
空耳を疑いつつ首を傾げていると、同じ声が再び栞の耳に届いた。
わずかに開いているドアの向こうから聞こえる、控えめでトーンの低い声だった。
少なくとも普通の声ではなく、事の重大さを含んだような抑えた声。
栞は
「誰……ですか?」
と呟きながら、ドアの隙間の向こうを覗き込んだ。
そこには、あの大村が申し訳なそうに佇んでいた。
「ど、どうしたんですか? 大村さん……」
大村の声に合わせて、栞も同様にひそめた声で尋ねた。
試合は大詰めを迎えており、他の選手たちはベンチの前面に出て試合を注視している。
中心選手の一人である大村が、ベンチ裏で人目を忍んでいる理由が栞にはわからなかった。
「ゴ、ゴメン……こんな時に。でも、ちょっとマネージャーにお願いしたいことがあるんだ」
「お願い……?」
その時、グラウンドから歓声が上がった。
一体何が起きたのかが気になり、注意が一瞬グラウンドの方を向きかけた栞であったが、ムリヤリ視線を大村に戻した。
普段から真面目な大村である。
クラスメートでもある栞は、それをよく知っていた。
それだけに、いつも以上の真剣さを帯びた大村の“お願い”の中身を尋ねるのが先だと思ったからだ。
「あの……なんでしょう? 『お願い』って……」
「……うん。その前に……ちょっとコッチに来てくれるかな」
そう言って、大村はスゥっと通路の奥に消えていった。
ますます不思議に思った栞は、大村を追ってベンチ裏の通路に出た。
トイレとは反対方向に十メートルほど行ったところに壁の窪んだ部分があり、人が二、三人身を隠すにはちょうど良いスペースになっている。
そのスペースにスッポリと身を埋めた大村が、人目を避けるように栞を手招きした。
栞としては、特に人目をはばかる必要はなかったが、つい釣られたようにコソコソと腰を屈めつつ大村の元へ駆け寄り、同じように壁の窪みに身を隠した。
「ありがとう、マネージャー」
「いえ、それは構いませんけど……一体どうしたんですか?」
真剣な表情を崩さない大村に、栞はなんとなくただ事ではない雰囲気を感じ取った。
言い出しにくそうに、視線をキョロキョロと動かす大村だったが、意を決すると栞の目の前に左手を差し出した。
「――っ」
栞の上げた声は、驚きの悲鳴に近かった。
大村の左手、人差し指の爪が完全にはがれ、普段は爪に守られている肉が剥きだしになり、真っ赤な血液が少しずつ滲み出している。
見ているだけで鳥肌が立ちそうな光景だった。
「こ……これ、どうしたんですか……?」
「ちょっと……さっきね」
「もしかしてさっき、滝南のベンチに突っ込んだ時……!?」
大村は、返事をせずに頷いた。
その時の大きな衝撃音は、反対側の三塁側ベンチにいた栞にもハッキリと聞こえていた。
実際、それほど派手に激突したのだから、何らかの怪我を負っていたとしても全く不思議ではない。
栞は、凄惨なことになっている大村の左手を、もう一度シゲシゲと見た。
出血もさることながら、人差し指の付け根部分が痛々しいほど青紫色に変色している。
いずれにせよ、応急処置で済ましてよい負傷ではなかった。
このまますぐに医務室に連れて行くべきではないのか。
回転の速い栞の頭脳が答えをはじき出そうとした時、大村は全てを覆すようなことを口走った。
「とりあえずプレーできるようにしてほしいんだ」
「……はぃ!?」
栞は、大村の言う意味が理解できずに素で聞き返した。
爪が剥げているだけでも、相当な激痛があるのは間違いない。
しかも、爪が剥げ落ちるほどの衝撃を受けたのだから、骨折をしている可能性もある。
だましだましプレーできるほどの生易しい痛みでないことだけは確かだった。
「ちょっと待ってください。簡単に言わないでくださいよ。こんなケガでプレーを続けられるはずがないじゃないですか!」
栞の声が、思わず大きくなった。
大村が、慌てて右の人差し指を口元に当てる。
栞は今、ようやく理解した。
何故、大村がこんなところまで自分を呼び出したのか……を。
負傷のことをチームの誰にも知られたくなかったからだ。
だが、栞にとっては、それはあまりにも無謀としか思えなかった。
「それはわかってる。でも、たった一回なんだよ。それだけ我慢できればいいから」
「ほ、本気……ですか?」
「うん。せめて爪の部分だけでも何とかしたいんだ。剥がれてしまったせいで、ちょっと触れただけでも痛むんだ。この痛みをなんとかしてくれれば何とかなる」
栞は、大村の真剣な顔と左手とを交互に見た。
確かに、爪が完全にはがれてしまっている以上、剥きだしになった患部に何かが触れれば、それは絶句するような痛みであろうことは想像がついた。
「でも、やっぱりムチャですよ。大人しく医務室に行きましょう。私が付き添いますから……」
「ダメだ!」
「……!」
いつも温和な大村にしては珍しい強い口調に、栞は一瞬身を強張らせた。
「ごめん。でも、今はダメなんだ。絶対にこのムードを壊すわけにはいかないから」
栞は、返す言葉を失った。
チームは今、最高潮に盛り上がったムードで最終回を戦っている。
大村の、プレー続行不可能なほどの負傷が皆に知れたら、せっかくのムードに水を差すことになるのは間違いないだろう。
だが、それでも生半可な負傷ではない。
耐え難い痛みが、絶え間なく襲っているはずなのだ。
それにもかかわらずチームのムードの維持を優先する……栞にとって信じがたい結論だった。
「でも、左手なんですよ? ミットを持つ方の手……ですよ?」
栞は、まだ躊躇していた。
仮に何らかの応急処置をしたとしても、痛みを完全に抑えることは不可能である。
しかし、逆転に成功すれば、次の守備機会が容赦なく待っている。
そこで守りの要である大村が欠ければ、せっかくの逆転が意味のないものになってしまうことは、栞にも容易に想像がついた。
「萱坂さんは諦めていない。だからボクも諦めない」
「……」
口元を引き締めた大村の顔を、栞は見返した。
純粋さを感じさせる瞳には、栞の顔がクッキリと映りこんでいる。
「ボクなりの“意地”……なんだ」
そう言って、大村は口元を引き締めた。
完全に腹を括った言い方だった。
おそらくもう何を言っても聞く耳を持たないだろう。
栞は、そう思いながら大きなタメ息をついた。
「ずるいです、大村さん」
「え?」
「男の子に“意地”だなんて言われたら、女は何も言えないじゃないですか」
呆れたように言い放った栞の台詞に、大村は目を丸くして戸惑った。
急に返答に詰まった大村を見て、栞はクスッと笑いながら
「救急箱を持ってきます。ちょっと待っててください」
と言い残して、ベンチに戻っていった。
独り佇む大村を、しばしの静寂が包み込む。
ズキズキと痛む左手。ともすれば呻き声を上げてしまいそうな疼痛を、大村は辛うじて飲み込んだ。
この痛みが“りん”と苦しみを分け合っている証のような気がしたからだ。
ほどなく、救急箱を抱えた栞が、小走りで大村の元に戻って来た。
「さあ、左手を出してください」
言われるまま、大村は左手を差し出した。
未だに患部から滲み出している血液が、今にも零れ落ちそうだった。
栞は、患部に直接触れぬよう慎重に、なおかつ手早くコットンで血を吸い取りながら言った。
「患部が直接何かに触れないように、爪の周りに湿布で台座を作って、その上から包帯を巻いてみます。それくらいしか出来ませんが……いいですか?」
「も、もちろん!」
大村の返事を聞くやいなや、さっそく栞は処置を始めた。
慣れた手つきで湿布をはさみで切り取り、患部の周りに丁寧に貼り付けていく。
重ね貼りによって、ある程度の高さを確保できたら、その上から包帯をぐるぐる巻きにする。
これで患部は包帯でカバーされ、包帯との間には緩衝用の空間が確保された。
「はい。終わりました。どうですか?」
「大丈夫。十分だよ」
大村は、包帯の上から右人差し指で恐る恐る触ってみた。
栞の処置によって、痛みはかなり軽減されている。
患部をよほど強く押し付けられない限り、激痛が走ることはないだろう。
「ただ、りんさんの球を受けた時の衝撃はどうしようもないので……それは覚悟してくださいね」
栞は、テキパキと救急箱を片付けながら言った。
確かに栞の言うとおり、“りん”の球がミットに収まった時に受ける振動は防ぎようがない。
それもまた激痛の元のはずだったが、大村の反応は事もなげだった。
「大丈夫だよ。我慢するから、それくらい」
本当のところ、簡単に我慢できるような痛みとは思えなかった。
だが、大村ならどんな激痛でもきっと最後まで我慢してしまうのだろう……と栞は思った。
「ならいいんですけど。あとは……」
「……?」
「あとは、思う存分“意地”を張ってきてください。もう……止めませんから」
栞は、眩しいものでも見るかのように目を細めた。
その表情には、諦めの入った笑みが混じっていた。
その時、再び場内に歓声が響いた。
言うまでもなく、試合に動きがあった証拠に他ならない。
経過が気になりだした大村は、いても立ってもいられなくなり
「ありがとうマネージャー。それじゃ先に戻るから」
と言って駆け出そうとした。
そんな大村を、栞は呼び止めた。
「大村さん!」
「……え?」
立ち止まった大村は、キョトンとした表情で栞のいる方へ向き直った。
「大村さんは、まだわたしの名前……覚えてくれていないんですか?」
栞の銀縁の眼鏡の奥から、物怖じしない真っ直ぐな視線が大村を貫く。
思いもよらない問いかけに、大村は目をしばたたかせながら、ただ見つめ返すことしかできなかった。
視線を絡ませ合う二人の間の沈黙と、それを上書きするような断続的な歓声。
まるで、そこだけが隔離された別世界を思わせる奇妙な静寂。
ようやく意味を理解できた大村が、いつもの温和な笑みを湛えながら答えた。
「ありがとう、園田さん」
「どういたしまして」
そう返事をした栞は、かすかに頬を染めながら、照れたように……でも、嬉しそうに笑った。