第167話 『大村の意地 (1)』
マウンドに上がった“りん”は、右手で額の汗を拭い取った。
右手の甲についた水滴が、指を伝ってポタリと落ちる。
ついさっきまで全力疾走を余儀なくされた“りん”の額には、拭うそばから次々と汗が吹き出していた。
八回裏。スコアは五対三。
さまざまな幸運に恵まれたとはいえ、鳳鳴は二点差まで詰め寄ることに成功した。
試合の流れは、間違いなく鳳鳴に傾きかけている。
この流れを維持するためには、この八回裏……滝南の攻撃を零点に抑えることが必須であった。
逆に滝南からすれば、一点をもぎ取るだけで流れをひっくり返すことができるだろう。
和宏も、大村も……もちろん滝南も、誰もが“次の一点”の重みを理解していた。
滝南の三番バッター・館林が打席に入った。
マウンド上で“りん”は、息を弾ませながら、もう一度額の汗を拭う。
音もなく降りつける小雨が、絶え間なく“りん”の顔を叩き、ヒンヤリとした冷たさを頬に感じさせたが、それはほんの一瞬であり、燃えるように熱くなっている身体を冷やすことはできなかった。
三塁側のスタンドからは、“りん”たちの背中を後押しする声援がこれでもかと飛び交い、大詰めを迎えたスタジアムを喧騒に包み込んでいる。
その熱気は、未だ降り続ける小雨を蒸発させてしまいそうなほど熱かった。
◇
少々鈍い金属音とともに、頼りない打球がセンターに飛んだ。
鳳鳴の中堅手は広瀬。
定位置より少し深めに守っていた広瀬は、懸命に俊足を飛ばして前進する……が、明らかに間に合いそうもなかった。
二塁ベースの後方と言っても差し支えない位置にポトリと落ちた打球は、バウンドを繰り返しながら広瀬の方に近づいていく。
エンドラン気味にスタートを切っていた二塁ランナーが、三塁コーチャーズボックスで右腕をグルグル回すジェスチャーを尻目に猛然と三塁を蹴った。
ダッシュしながらボールを素手で掴んだ広瀬は、迷うことなくボールをバックホームした。
矢のような返球が、ドンピシャのストライクで大村のミットに収まる。
ほぼ時を同じくして、ランナーが本塁へ突入した。
だが、大村のブロックは微動だにせず、ホームベースを狙う手を弾き返してこれを防いだ。
「アウト!」
一塁側の滝南ベンチからは、誰ともなく「またかよ……」という呟きがもれた。
この試合、これで五回目の本塁上でのクロスプレー。
その全てが、大村によって阻止されたからだ。
アウトカウントが一つ積み重ねられ、鳳鳴はようやくツーアウトまでこぎつけた。
しかし、ランナーがまだ三塁と一塁に残っている上に、次のバッターは前の回にホームランを放った松岡である。
この回を零点に抑えるために、まさにここが正念場という局面になった。
(全く……、本当に手こずらせてくれるバッテリーだよ……)
諦めを知らない“りん”の粘り強いピッチング。
大村の重心の低い身体を活かした鉄壁のブロックと巧妙なリード。
そのいずれもが滝南にとって厄介なことこの上ない。
松岡は、バッターボックスに向かって歩く途中、呆れたように呟いた。
以前喫した三振の苦さは、薄れこそすれ忘れられるものではなかった。
ボールの縫い目がハッキリと見えるようなスローボールが目の前を通り過ぎていった時の感覚は、松岡の中で思い出したくないものとして記憶されている。
松岡は、苦い思い出を振り払うかのように、わざとゆっくりとした動作でバッターボックスに入った。
前打席で放った本塁打のイメージを心がけつつ、悠然とバットを構える。
マウンド上、大村のサインを覗き込む“りん”の姿を、松岡は細い目で見やった。
“りん”の……いや、正確には大村の配球を読むために、その頭脳をフル回転させる。
初球は必ずストライク。
“りん”の体力への気遣いが、大村の配球の傾向に現れている。
前打席の松岡は、それを逆手に取って、初球のストライクをスタンドまで運んだ。
だが、その後も大村の配球は一本調子に陥らぬように工夫されながら、なおも初球ストライクを貫いていた。
初球がストライクと決まっているなら狙わない手はない。
そう思いながら松岡は、この打席でも初球を狙うつもりでいた。
大村のサインに“りん”が頷く。
ワインドアップから入るピッチングモーションの一挙一動は、疲労の濃い今となっても寸分も揺らいでいない。
きっと相当な量の投げ込みと走り込みによって作りこまれたピッチングフォームなのだろう……と松岡は思った。
それがどれほど価値のあることなのかは、ここにきてフォームを崩した遠藤を見ていれば明白である。
(大したピッチャーだよ……本当にね)
今や松岡にとって、“りん”は女性であることを抜きにしても賞賛すべき投手となっていた。
しかし、打ち崩さなければならない敵でもある。
松岡は、静かに息を吐き出しながら、ファーストストライクを待った。
舞うように軽やかなステップを踏んで、“りん”の右腕からリリースされたボールがストライクゾーンへ。
そして、そのコースは、間違いなく松岡の虚を突いた。
(ど真ん中……だとっ)
これまでのストライクは、ストライクゾーンの一角を舐めるようなギリギリのストライクばかり。
初球ストライクを織り込んでいたとはいえ、ど真ん中のストレートは想定外だった。
一瞬の空隙。
松岡の頭の片隅に、あのスローボールの苦い記憶が不意によぎる。
わずかに切っ先の鈍ったスイングが、辛うじてそのストレートを叩いた。
鈍い音によって生み出された中途半端なポップフライが、一塁側観客席へ向かって飛んでいく。
(ファールか……)
松岡は、ホッと安堵のため息をもらした。
ファールならば、チャンスは再びやってくる。
同じ奇策は、もう二度と通用しない。
松岡にとっては、それで何ら問題ない……はずだった。
だが大村は、素早くマスクを放り投げ、フライを追って脱兎の如く駆け出していた。
まさか……と呟きながら、松岡は猛然と走って行く大村の背中……自身と同じ背番号“2”を眺めた。
大して高く上がったフライでもなく、観客席まで届きそうにない打球が、真っ直ぐベンチの中に飛び込もうとしている。
ベンチには椅子やバットケースなどの障害物がいくらでもあり、それらとの激突を避けるには、すぐにでも走るスピードを緩めてベンチ手前で止まらなくてはならない。
にもかかわらず、大村はわずかな躊躇もなく全力疾走のまま一塁側ベンチに突進していく。
(萱坂さんは、もう限界なんだ!)
(これ以上負担をかけないために……絶対に捕る!)
打球の落下点辺りから、滝南の選手たちがとばっちりを避けるためにそそくさと逃げる。
大村は、落ちてくる打球に飛びついた。
懸命に伸ばす左手のミットにボールがスッポリと収まり、勢い余った大村の身体は、そのままベンチの中に突っ込んだ。
思わず顔をしかめてしまいそうなほど大きな衝突音とともに、長椅子に激突した大村。
次の瞬間には、見るからに頑丈そうだったプラスティック製の長椅子が、背もたれの部分に大きなひびが入りひっくり返っていた。
コンクリートの床にしこたま身体を叩きつけられた大村は、小さく呻き声を上げた。
「お、おい……大丈夫か……?」
滝南の選手たちが、床に倒れこんだままの大村に声を掛ける。
ざわついた声を制すように、フラフラと起き上がった大村がミットを高々と掲げた。
その中には、確かに白球が捕まれていた。
「アウト! スリーアウトチェンジ!」
主審は、そう高々と宣言した。
観客席とベンチからは、感極まった拍手と歓声が上がる。
大村を遠巻きにする滝南の選手たちは、その無謀ともいえるようなプレーに呆気にとられていた。
そんな視線に見送られるように、大村は少しよろめきながらベンチを出た。
「大村クン! ナイスキャッチ!」
喜びの表情を全開にして一直線にマウンドから駆け下りてきた“りん”が、大村に抱きついた。
辛く苦しい展開の中、大村が身体を張ってくれたことが、ただひたすら嬉しかったからだ。
「かかっかかか、萱坂さん……っ!」
他のナインも駆けつける中、突如“りん”に抱きつかれた大村は、振ってわいたようなシチュエーションに目をシロクロさせた。
女性慣れしていないウブな大村だけに致し方ない反応。
もちろん、なんの自覚もない“りん”の方は、全くお構いなしに大村の背中をバンバンと叩いていた。
「大丈夫? 怪我はなかった?」
「……う、うん。だ、大丈夫……」
大村は、照れた様子で苦笑いしながら答えた。
「でもよ、スゲェ音してたぞ? どんだけ頑丈なんだよ、お前の身体……」
遅れて駆けつけた山崎が、横から口を挟む。
その目は、明らかに呆れ返っていた。
「まぁ、大村は頑丈なのがとりえだしな。健康優良児だし」
山崎のおどけた言い方に、みなもつられたように笑った。
八回裏、滝南の攻撃は零点に終わった。
スコアは五対三のまま、九回表の鳳鳴の攻撃は一番・広瀬から。
大村の闘志溢れるプレーに、鳳鳴のムードはこれ以上ないほど高まっていた。
誰もが最終回での逆転を諦めてはいない。
だが、その沸き立つような雰囲気の中、わずかに一瞬……大村の表情が苦痛に歪んだことに気づいた者は誰もいなかった。
――TO BE CONTINUED