第166話 『反撃 (2)』
「ストライクバッターアウトォッ!」
鳳鳴の八番バッター・新井のバットが空を切る。
ワンアウト二塁三塁が、ツーアウト二塁三塁へと変わり、鳳鳴ベンチからは変な唸り声が上がった。
まだワンアウトということで、スクイズもありえる場面だった。
だが、ただでさえバントしにくい遠藤の速球。しかもコントロールが乱れている最中。
万が一スクイズに失敗しようものならダブルプレイで全てが泡となり却って危険……との判断で、スクイズは見送られた。
かといって、下位打線にヒットを望むのは酷な話である。
狙いはヒットよりも四球だったが、遠藤の立ち直りは予想以上に早かった。
細かい制球は望むべくもないものの、次第にストライクが入り始めたのだ。
八回表。スコアは五対一。
打席には、九番バッターである“りん”が入った。
雨による中断の間、十分に身体を休めたからか、激しかった息切れだけはかなり収まっていた。
ただし、それも所詮かりそめ。
蓄積された疲れが、ほんの半時間休んだ程度で全回復することなどありえない。
だが、ここが勝負どころとみた和宏は、後先考えずに打って走るつもりでいた。
「りん~っ! がんばれ~っ!」
「わかってるわね~! ヘマしたらコレよコレ!」
などと言いながら、傘を片手に右手をワキワキさせる沙紀。
えげつないお仕置きのアピールに、“りん”は「うぉぉい……」と脱力した。
とはいえ、これも沙紀なりの特殊な激励表現であることは間違いない。
この試合、三度目のバッターボックス。
前二打席は、ともに内野ゴロに終わった。
ちなみに、三振を一個も喫していないのは、鳳鳴の中でも“りん”ただ一人である。
自らの非力さを自覚し、バットを短く持ってミートに徹しているからだ。
この打席もまた、バットを短く持って“りん”は構えた。
(デカいヤツはいらない。次に繋げるんだ……)
心の中で、そう呟く。
この遠藤の速球を“りん”の力で力強く打ち返すのは難しい。
心持ち前進守備の体勢を取っている滝南守備陣の頭を越そうとしても、球威に押されるのがオチだろう。
力まないで、コンパクトなスイングを心がける。
和宏は、それだけを心に念じていた。
そして、滝南のキャッチャーである松岡から見ても、和宏の狙いは一目瞭然であった。
金属バットのグリップを拳二つ分ほども余らせた、極端なほどのミート狙い。
故に、その対応策は非常に明快だった。
外角一辺倒の攻め。
腕の長さの足りない“りん”のスイングでは、どんなに上手くミートしても外野まで飛ばすのが精一杯のはずだ。
頭の中でそう計算しながら、松岡は外角にミットを構えた。
遠藤は軽く頷き、セットポジションに入る。
肩越しに三塁と二塁のランナーに視線をやって牽制しつつ、大きくバックモーションを取る見慣れたピッチングフォームから第一球が放たれた。
降りつける小雨を寄せ付けない速球が、松岡の構えたミットにズバリ収まる。
「ストライク!」
制球に難があるとはいえ、その球速に衰えはない。
だが、一球ごとに球筋がブレているのも事実だった。
その証拠に、二球目もストライクの後、三球目と四球目は外角に外れるボールが続いた。
続く五球目。“りん”が外角のストライクコースに来たストレートを丁寧に当て、その打球は一塁側ファールグラウンドに転々としていく。
松岡は、キャッチャーマスク越しに眉をひそめた。
外角はカットして、内角への失投を待つ……という“りん”の狙いが垣間見えたからだ。
(何が何でも次に繋げるつもりだな……)
逆に滝南からすれば、次は鳳鳴の打順が一番に戻るだけに九番で切っておきたいところ。
その辺の感覚は遠藤も同じだった。
自らがコントロールに不安を抱える身としては、いつまでもファールで粘られるのは決して面白い話ではない。
カウントはツーストライクツーボールである。
遠藤は、フルカウントになる前に勝負に出た。
セットポジションから、ランナーを気にすることなく大きなバックスイングからの全力投球。
カットすることもできないような渾身の一球でもって勝負を決めようとした……その時だった。
(……っ!?)
遠藤の、声にならない声。
深く踏み込んだ右足が、ぬかるみでわずかに上滑りした。
危うく転びそうになった遠藤は、大きくバランスを崩しながらも、辛うじて球を放った。
このような時、ボールはとんでもない大暴投になることが多い。
しかし、今回ばかりは運が“りん”に味方した。
投げ損じた棒球がストライクコースへ……和宏が望んでいた内角へ。
“りん”は、絶好球にも力むことなく、あくまでコンパクトにスイングした。
ジャストミート。金属バットのスィートスポットで捉えた打球が、その華奢な体格に似合わぬ鋭さで三塁手の頭上を越えレフト線を襲う。
(切れるなっ!)
打球の行方を目で追う“りん”は、疲れの溜まった身体にムチ打って走りながら、心の中で目一杯叫んだ。
フェアか、ファールか。
固唾を呑んだ視線が集まる中、三塁塁審が掌を下に向けるポーズとともに怒鳴ったような声を上げた。
「フェアッ!」
ボールが落ちたのは、ラインのわずかに内側……間違いなくフェアグラウンド内だった。
三塁側ベンチと観客席は、総立ちになって絶叫に似た歓声を上げる。
水気を多く含んだ天然芝の上を、勢いよく転がっていくボール。
滝南のレフト・上地が俊足を飛ばして打球を追う。
ツーアウトのため、打った瞬間にスタートを切っていた三塁ランナーの三船は悠々とホームインし、二塁ランナーの大村も三塁を回った。
上地が打球に追いつくと、素手で掴んだボールを素早くバックホームへ。
決して足の速くない大村が懸命に走る。
そして、その前に松岡が立ちはだかる。
大村のホーム帰還のタイミングに合わせるかのような返球。
泥を飛ばしながらヘッドスライディングした大村と、捕球してタッチにいく松岡とのクロスプレー。
「セーフ!」
主審が、両手を大きく広げるジェスチャーとともにコールした。
松岡のタッチよりも、わずかに早かった大村の手が、鳳鳴に三点目をもたらすことに成功した瞬間だった。
三塁側の観客席からは、再び沸き立つような歓声が上がる。
だが、松岡はこの状況においても憎らしいほど落ち着いていた。
何事もなかったように、ボールは素早い動作で二塁へと送られた。
一塁を回った後、疲労から走るスピードがガクッと落ちた“りん”を刺すためである。
“りん”は、よろめきを隠すように足から滑り込んだ。
だが、送球を掴んだ二塁手のグラブが、二塁ベースに触れる直前の“りん”の足を叩いて万事は休した。
「アウト!」
二塁ベース付近まで出張った一塁線審が、アウトをコールした。
スリーアウトとなり、滝南の守備陣がぞろぞろとベンチに引き上げていく。
今までは、ただひたすら淡々と攻守交替するだけだった滝南の選手が、この回に限っては心中穏やかではない様子をうかがわせている。
はるか格下の鳳鳴に三失点。
まだリードしているとはいえ、名門・滝南のプライドに傷を付けられては面白いはずはなかった。
そんな中、二塁ベース上で“りん”がうずくまったまま動かないでいることに大村が気付いた。
「萱坂さんっ!」
血相を変え、真っ先に駆けつける大村。
続いて山崎たちも大村の後を追う。
観客席の沙紀やのどかたちも色めき立った。
ケガか、あるいは……そんな不吉な予感が各自の胸中を駆け巡る。
“りん”の元にいち早く駆け寄った大村は、一目見て全てを理解した。
全力疾走によって、自力で立ち上がれぬほど消耗した“りん”の姿。
忙しなく上下に動いている肩が、息も絶え絶えの状態であることを証明している。
中断中に得た休息は、“りん”の体力を回復させるに至らなかった。
おそらく、打って走るだけでも相当辛かったに違いない。
そう思いながら大村は、改めて“りん”の“意地”を感じずにはいられなかった。
(やっぱりすごいな……萱坂さんは)
大村は、迷いなく手を差し出し、“りん”を起き上がらせて肩に抱えた。
「……お、大村クン?」
「大丈夫。しっかりつかまって」
華奢な“りん”の身体とは全く違う、分厚い筋肉に覆われた肩の感触。
“りん”の全体重を軽々と支えているそれは、和宏にとって妙に心地よく力強く感じられた。
大村に支えられ、二人三脚のような形になりながらも、確かな足取りでベンチに戻っていく“りん”に、観客席の面々は一様に胸を撫で下ろした。
次は八回裏……試合は正念場である。
声を出すことしかできない観客席からは遠慮なく“りん”への声援が飛んだ。
その中でも、一際大きい沙紀の声が“りん”の耳に届いた。
「りん! あと少しよ! 死ぬ気で頑張りなさい!」
沙紀らしい激励に、和宏は心の中で苦笑した。
(死ぬ気で……か。相変らずキッツイな……)
だが、もとより和宏もそのつもりである。
ここまできて諦める気など毛頭なかった。
「そうだよ! 勝ったら沙紀がパフェ食べ放題奢るって言ってるよっ!」
「言ってない言ってない! 一個だけ! 一個だけだからね、りん!」
東子の、空気を読まない爆弾発言を沙紀が必死で否定する。
緊迫した空気を台無しにする二人のやり取りに、周りはみなお腹をよじらせて笑いこけていた。
ちなみに、のどかも笑っていたが、どちらかといえば苦笑いの類いであった。
(いつも何個も食ってるような言い方しやがって……)
いつだって和宏は、沙紀と東子に翻弄される。
この大詰めに来て何でこんな漫才じみたやり取りができるんだ……と、和宏は心底呆れながらタメ息をついた。
だが、包み込む脱力感が、良い意味でのリラックスとなる。
和宏は、わずかばかりの力が湧いてくるのを感じた。
「大村クン、サンキュー。もう大丈夫、歩けるから」
ベンチまで戻った“りん”は、再び自らの両の足で立った。
勝利を得るためには、まずは次の八回裏を投げきらなくてはならない。
そのためのマウンドへ、和宏は自分の足で上がるつもりでいた。
「萱坂さん……パフェ好きなの?」
「へ? イ、イヤイヤイヤ……別にそういうわけじゃ……」
「ボクが奢るよ。何個でも」
大村が、グラブを“りん”に手渡しながら、冗談っぽく笑う。
いつの間にやら“パフェ好き”が既成事実化されようとしていることに気付いた和宏は、慌てて首を振った。
「ちょ……、俺パフェは……っ!」
「だから、絶対に勝とう」
「……え?」
「二点差まで来たんだ。勝とう……いや、きっと勝てるよ」
大村の言葉には、どことなく説得力があった。
九回表の鳳鳴の攻撃は、一番からの好打順である。
また、試合の流れが鳳鳴に傾きつつあるのを、和宏も肌で感じている。
それを確かなものにするためには、八回裏の滝南の攻撃をゼロに抑えることが必須だ。
“りん”は、言われるまでもない……とでも言わんばかりに、グラブを左手にはめながら大きく頷いた。
「ナイスバッティング」
そう言いながら大村が右手を上げ、“りん”も応じるように右手を上げた。
パチンという音とともに、右手と右手がぶつかり合う。
喜びのハイタッチを交わした“りん”は、体力の限界を超えた身体に気力を漲らせながら、八度目のマウンドに向かった。