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俺、りん  作者: じぇにゅいん
第三部
168/177

第165話 『反撃 (1)』

球場の特別観覧室にある電話の呼び出し電子音が鳴った。

ワンコールのうちに受話器を取った重彦の喜び勇んだ表情が、電話口の向こうからもたらされた内容によって、次第に険しくなっていく。

話を聞き終わるやいなや、重彦は心持ち乱暴に受話器を叩き付けた。


「間もなく試合が再開されるそうです」


ニコリともせずに、事の経過を堂丸に報告する重彦。

厳めしい顔つきのまま、二度三度と深く頷きながら報告に耳を傾ける堂丸。

そんな二人の様子を見た直子と夏美は、お互いに顔を見合わせつつホッとしたタメ息をついた。


窓ガラスの向こう側では、まだ小粒の雨が降り続いているものの、厚かった雨雲はすっかり薄くなり、遠くの空には晴れ間すら覗く。

天気が快方に向かったことで、もう雨天中止の心配は必要なさそうだった。


グラウンド上では、背番号の付いていない滝南のユニフォームを着た一年生たちが、スポンジでグラウンドに浮いた水を吸い取ってはポリバケツに絞る作業を開始していた。

そして、彼らとは別に、内野のぬかるみの激しい部分に一輪車で土を盛る二桁背番号の選手たち。背番号が付いている分、格上扱いとなる二軍の選手たちだ。


総勢五十名近い彼らの黙々とした作業が着々と進んでいく。

次第に整いつつある試合再開リスタートの準備。

その中にあって、重彦の心中は穏やかではなかった。

雨を利用して、試合を早く終わらせてしまおうとする計画《企み》がパーになったのだから。


(フン……まぁいい)


重彦は、自分のソファに腰を下しながら、心の中だけで吐き捨てた。


実際、滝南が逆転されたわけでも何でもない。

五対〇というスコアのまま、八回表ワンアウトの場面から試合が再開されるだけなのだ。

滝南の圧倒的有利は寸分も揺らいではいなかった。


(あと、たった二回我慢すればいいだけだ)


それで、今度こそ本当に終わる。

そう思いながら、重彦は口元に冷たい笑みを浮かべた。


 ◇


滝南の二軍選手や一年生たちによるグラウンド整備は、予想以上に早く終わった。

土の上に出来かけていた水たまりは綺麗に除去され、試合再開に支障ないグラウンドコンディションである。


滝南の選手たちが、各自の守備位置へと散っていった。

いよいよ試合が再開される。

鳳鳴の四番バッター・山崎が打ち取られた直後からのリスタートだ。


八回表、ワンアウト、ランナーなし。

バッターは、五番の中曽根。


電光のスコアボードには“五対〇”という試合中断前と同じ数字が表示されている。

それは、鳳鳴にとってあまり面白くない数字だったが、受け入れなくてはならない現実でもある。


「プレイボールッ!」


中曽根がバッターボックスに入ると同時に、主審の一声がかかった。

マウンド上の遠藤が、勿体つけることなくピッチングモーションに入る。

鋭く振りぬかれた左腕から、空気を切り裂くようなボールが唸りを上げる。

相変らずの速球に、中曽根は手を出すことが出来ずに見逃した。


「ボール!」


わずかに高めに外れたボール。

小さく首を傾げた遠藤は、さしたる間をおかずに二球目を放った。


「ボールッ!」


主審のコールは、再びボールだった。

二球続けてのボールに、鳳鳴ベンチの中にざわつくような違和感が広がった。

だが、遠藤の三球目も、またもやボール。

しかも、今度は大きく高めに外れた、違えようのないボールだった。


カウントは、ノースリーになった。

再びマウンド上の遠藤が首を捻る。

納得のいかない表情を浮かべた遠藤が、続けて四球目を投じた。


「ボール! フォアボール!」


迷いなくコールしながら、主審は一塁ベースの方向を指差した。

鳳鳴にとっても滝南にとっても、思いもよらなかったストレートのフォアボールである。

両軍ベンチから、ざわつきが上がり始めた。


狐につままれたような表情で一塁に進む中曽根。

ここまで続行中だった遠藤の完全試合パーフェクトが、あまりにもあっけなく途絶えた瞬間だった。


マウンド上で仁王立ちする遠藤には、もともと記録を狙っていたわけではなかったこともあり、そのことに対するショックの表情はない。

その代わり、どことなく浮かない表情だった。


和宏も、ベンチに座りながら首を傾げた。

遠藤という投手に対して、特にコントロールの良さは感じていなかったが、ストレートの四球を出すようなノーコンピッチャーという印象もなかったからだ。


続いて打席に入ろうとしているのは六番の三船。

次の七番は大村……という打順である。


“りん”の隣に座っていた大村が、勢いよく立ち上がった。

心なしか、興奮を隠し切れずに紅潮してる浅黒い顔肌。

太い眉毛をキリリと吊り上げた様は、見る者に何か心に期するものを感じさせる。

“りん”は、座ったまま、大村を見上げた。


「萱坂さん。これはチャンスかもしれない」


「え?」


「ひょっとしたら……最初で最後の」


大村の、“りん”を見る目は真剣そのものだった。


遠藤の突然の変調を、大村はチャンスと捉えていた。

点差は五点。となれば、九番バッターである“りん”のバットにも大きな期待がかけられることになる。

なにしろ、今塁に出た中曽根から“りん”までが全員生還したとしても、まだ同点にすらならないのだ。


いずれにせよ、勝つのならば、このチャンスを掴むしかないだろう。

“りん”は、静かに……しかし力強く頷いた。


 ◇


ネクストバッターズサークルに入った大村は、いつもと同じように自分のバットを抱きかかえながらしゃがみ込んだ。

そして、マウンド上の遠藤のピッチングに、これ以上ないほど真剣な眼差しを向ける。


六番バッター・三船に対する一球目は、またもや高めに浮いた。


「ボール!」


そのピッチングフォームを見て、大村は確信した。


初回と比べると、より手投げに近くなったピッチングフォーム。

疲れから踏ん張りが利かなくなった下半身と、加えて雨の影響で柔らかくなったマウンドが、明らかに遠藤の制球力を削いでいる。


これこそ、大村が待ち望んでいたシーンであった。

もちろん、最初から明確にこの場面が訪れることを確信していたわけではない。


投手にコンバートされたのはつい最近という事実。

一見、ダイナミックで豪快な遠藤のピッチングフォームが、必要以上に上半身に頼ったものであるという事実。


これら二つの事実を元に描かれた希望的観測にしか過ぎなかった。

だが、疲れが溜まれば下半身がブレてコントロールが乱れるはず……そんな予想が今、現実のものになろうとしている。


制球に苦しみ始めた遠藤は、続く六番の三船にも四球を与えた。


八回表、ワンアウト、ランナー二塁一塁。

雨による中断の末に巡ってきた千載一遇の好機チャンス


大村は、力強く立ち上がり、深く大きな深呼吸をした。


俄然盛り上がり始めた観客席からは、「頑張れ!」という声援が飛ぶ。

観客のほとんどが二年A組の生徒であることから、クラスメートである大村への応援の声も手厚い。

大人しい性格の大村であったが、改めて気合いを入れ直すには十分だった。


思い出したように振り返って、ちらりとベンチを見やる。

一瞬“りん”と目を合わせた大村は軽く頷き、まるで死地に赴く武士のような面持ちでバッターボックスへと向かった。


 ◇


遠藤は、舌打ちをしながらマウンドをスパイクの裏で丁寧に慣らし始めた。


ぬかるみの上から乾いた土が盛られ、中断前とは明らかに足ざわりの変わったマウンド。

中途半端に長かったインターバルのせいで、全身が連動性を失ってバラバラになったような感覚。


失った感触は、すぐには戻らない。

投手として初めて経験する事態に、遠藤は苛立ちを隠せずにいた。


「大丈夫か?」


静かにマウンドに駆け寄った松岡が、遠藤に声を掛ける。

いつもの遠藤ならば『大丈夫だ』とでも答えたであろうが、今は何も答えることが出来なかった。


「やはり前半の飛ばし過ぎが祟ったのかもね」


「いや、それはない」


「本当か?」


意地悪く念押しをするような松岡に、遠藤は再び沈黙した。

実際に疲れを感じていなかった遠藤だったが、松岡の全てを見抜いたような言い方が気になったからだ。


「腰高になってきてるよ。下半身の踏ん張りが利かなくなってきてるんじゃないか?」


「む……。中断前よりマウンドの固さが変わったせい……かな」


遠藤が、自信なさ気にそう言った。

だが松岡は、おそらくそれだけが理由じゃないだろう……と思った。

下半身の粘りがなくなったからこそ、マウンドの硬軟が余計に気になるのだ……と。


遠藤はまだ外野手から投手へのコンバート直後。

コンバートを命じた監督の秋山の目論見としては、投手として必要な下半身の強化は、これから急ピッチで進んでいくはずだった。

その前にこの練習試合が設定されてしまったのは、滝南にとって不運だったと言えるだろう。

さらに言うなら、この雨が遠藤の下半身のスタミナの消費を早めたことも影響した。

そして、遠藤が異常なライバル心を燃やす四番・山崎を打ち取った直後に試合の中断が入ったことで、燃え尽きたように気持ちを切らしてしまったことが最も大きかったかもしれない。


松岡は、ここにきて試合の流れの全てが悪い方に向かっていることに気付いた。


今はとにかく遠藤に踏ん張ってもらうしかない。

遠藤の様子をつぶさに観察しながら、松岡はわざとこともなげな口調で注意事項を投げかけた。


「とにかく今以上に丁寧にいこう。四球は守りのリズムを崩すからなるべく避けて」


「わかった」


遠藤は、気を取り直したように頷いた。

隠し切れずにいた遠藤の動揺が少しずつ収まっていくのを確認した松岡は、ふぅ……と深く息を吐きながらホームに戻っていった。


投手としての経験のなさ故に動揺が垣間見えたが、これも一つの経験である。

こういった事態での対処の仕方を理解すれば、すぐにまた落ち着きを取り戻すだろう……と松岡は思った。

だが、この時の松岡は気付いていなかった。


己の犯したミステイクに――。




松岡がキャッチャーボックスにしゃがみ込み、マスクを付けるのを待ってから、大村は打席に入った。


太目の身体を支える、筋肉質で短めの足。

腰を落とした重心の低い構えは、少々つついたくらいではびくともしないほど重厚な安定感がある。


少し落ち着きを取り戻した遠藤が、セットポジションから第一球を放った。

だが、そのピッチングフォームからは、最初のようなダイナミックさが失われていた。


速い。ストレート。

だが、伸びもキレもない。

大村は、その置きにきたストレート(絶好球)を叩きつけるようにフルスイングした。


この上なく大きな打球音が響き、打ち上げられた打球は、長い滞空時間を経て右中間を真っ二つに破った。

センターとライトが、フェンスまで転々とする打球を懸命に追う。


二塁ランナーの中曽根が、三塁を回って悠々とホームインした。

一塁ランナーの三船は三塁へ、打った大村は二塁へ。

殊勲のタイムリーツーベース。

残っていた遠藤のノーヒットノーランをも打ち砕く、起死回生の一打となった。


「やったやったやったっ! 一点取った!」

「いけるよ! まだいける!」


待望の一点が入り、観客席も天と地をひっくり返したような大騒ぎになっていた。

ここまで鬱憤の溜まる試合展開だったのだから、ムリもなかった。


遠藤も松岡も呆然としていた。

特に、松岡にとっては誤算だった。


遠藤への指示を誤ったのだ。


投手の経験が浅く、力押しが身上の遠藤にコントロールを重視させてしまえば、腕が縮こまるのも当然だった。

むしろ、ここはコントロールを気にせずに投げさせるべき局面であった。

そうすれば、いずれマウンドの感触に慣れるに従って、少しずつコントロールは回復しただろう。


ベンチから、ライト側ファールグラウンドに設置されているブルペンに、二組のバッテリーが急ぎ足で向かう。

監督の秋山が、投手交代という選択肢を準備し始めた証拠である。


にわかに慌ただしくなった滝南ベンチ。

終始、滝南に有利であった試合の流れは、あの雨による中断を境にして、少しずつ変わろうとしていた。



――TO BE CONTINUED

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