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俺、りん  作者: じぇにゅいん
第三部
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第164話 『約束 (3)』

終始冷静沈着だった松岡に、初めて動揺が走った。


「も、もうこれ以上試合を続けても仕方ないだろう! キミたちに勝ち目なんか……っ」


ない……と断言しようとしたが、“りん”の突き刺すような視線がそれを躊躇わせる。

いつもの静かな口ぶりが影を潜め、松岡にしては珍しく乱暴な口調。

常にクールな松岡の思考回路が、軽いパニック状態に陥っていた。


完全に頭の中から抜け落ちていた“約束”を持ち出され、しかもその対処が覚束ない。

約束をした事実はある。三振を喫したのも間違いなく事実。

拒否できる材料が何一つなく、松岡は一気に窮地に追い込まれた。


もう試合中止は決定事項なんだ……と吐き捨てて、この場を立ち去りたいという欲求すら頭をかすめる。

これ以上の長居は、松岡にとって針のむしろに近いものがあったからだ。

だが、少なくとも“約束”をしたのが事実である以上、しかも“約束”を持ちかけたのが松岡の方である以上、そんな不誠実なことなど出来るはずもない。

八方塞がりの状態に陥った松岡は、冷や汗が湧き出るのを感じながら立ち尽くした。


雨はまだ相変らずの調子で降り続いている。

この雨足のままなら、いずれ中止の決断を下すのが妥当ということになるだろう。

松岡は、大きく両手を広げ、直接雨粒を受けながらまくし立てた。


「だ、だけど……グラウンドの状態を見てくれ。もうあちこちに水溜りが出来つつあるし、実際にこの雨では再開は難し……」


松岡が、そこまで言いかけた時だった。

まるで魔法のようなタイミングで遠くの空が明るくなったのは。


(――なっ!?)


どんよりと厚かった雨雲が途中で途切れ、その隙間から差し込み始めた一筋の陽光とともに、雨足は嘘のように一気に弱まった。


三塁側のベンチと観客席からは、沸き立つような歓声が一斉に上がった。


「よっしゃぁ!」

「おお! これなら再開出来るぞ!」


ヤキモキしていた鬱憤を晴らすかのような大騒ぎ。

雨はまだ止んではいなかったが、遥か向こうの雲の切れ間から太陽の光が差し込み始めた以上、この雨が上がるのも時間の問題であろう。

空模様《状況》は、文字どおり一変した。


突然明るくなった空を眺めながら呆然としていた松岡が我に返り、“りん”の視線に気付いた。

その瞳から感じられるのは、ただ純粋に“試合を続けたい”という思いのみ。

松岡は、“りん”の邪気のない瞳を、もう直視することが出来なかった。


顔を歪めながら視線を逸らし、返す言葉を失っている松岡。

明快な口調で試合の途中終了を説いていた先ほどの松岡とはまるで別人であった。


松岡が、この場から逃げるように立ち去っていく。

その後姿に目をやりながら、和宏は、もうコールドの危機が去ったことを確信していた。


山崎が、“りん”の元に駆け寄った。

その表情には、さっきまでの苦渋は綺麗に消え去っていた。


「すげぇぞ萱坂! 天気までなんとかしちまうとはオレもビックリだぜ!」


「イヤイヤイヤ。なんとか出来るわけないだろ、天気なんて。そんなのこっちがビックリだ」


山崎のベタなボケに、和宏がベタに突っ込みを入れる。

ベンチの中が、まるで負けていることなど忘れたように自然に笑いに包まれた。


「でもよ、なんだよ“約束”って? いつの間にアイツとそんな“約束”なんかしたんだ?」


「そうですよ、りんさん。私もそう思いました。興味あります。ぜひ教えてください」


山崎と栞が、当たり前の疑問を口にした。


「あ、いや、その……なんだ。試合中にだな……え~、話すとちょっと長くなるんだけど……」


ふんふんふん、それでそれで? ……と喰い付きよく、皆の視線が“りん”に集まる。

思わぬ注目を浴びて、“りん”はしどろもどろになった。

試合中に『打てたらデートしろ』と迫られて、しかもその話にノッてしまいました……などとは、声を大にしていうのは憚られたからだ。


「そ、その……あれだ。また今度……ってことで!」


え~!? と納得いかない声が一斉に上がった。

勘弁してくれよ~……という、少々情けない“りん”の声が何度も響く。


この後“りん”は、試合が再開されるまで山崎たちからしばらく質問ツッコミ攻めにあい、違う意味で疲れることになるのだが、それはまた別のお話であった。


 ◇


なんだろう……この気持ちは?

そう自問自答しながら、松岡は一塁側ベンチに引き上げていく。


敗北感とも違う。

バツが悪いとも違う。

ほっとしたとも違う。


いくら考え込んでも、結論は出なかった。


弱くなった雨足。開いていた傘はすでに畳み、右手に握り締めている。

松岡は、余計なことを考えるのを止めた。

しなくてはならないことがいくつもあったからだ。


グラウンドに浮かんだ水をスポンジを使って吸い取り、その上から土をまいてやる必要があるだろう。

それらの指示を出すのは、二軍を指導する立場を副監督と共有する松岡の役目だった。


頭の中で、試合再開に向けた段取りを組みながら、松岡は自嘲したように笑う。

決定されているはずの試合中止をなかったこととして、真剣に試合を再開させようとしている自分が滑稽に思えた。


おそらく監督は烈火のごとく怒るだろう。

チームメイトたちも決していい顔はしないだろう。


誰も得をしない選択。だが、松岡の気持ちはすでに固まっていた。

ただの一言も“りん”に反論できなかった以上、試合を再開させる以外の選択肢などありえないのだから。


松岡は、小さな声で独りごちた。


「不思議な女性ひとだ……」


最後に見た“りん”の真っ直ぐな瞳を頭に思い浮かべる。

あの諦めを知らない瞳を。


七回裏に放った自身の本塁打を浴びても折れなかった心を想い起こす。

その勝利をひたむきに信じる心を。


彼女の中に、強靭な勝利への意志が溢れていることを松岡は知った。

だからこそ、その源泉は一体なんだ……? と思わずにいられなかった。


「参ったね……」


緩む口元。堪えきれない笑い声が小さくもれる。

先ほどから、“りん”のことばかりを考えていた自分に気付いたからだ。


「もう一度……彼女をデートに誘いたくなってきたよ」


好奇心をいたく刺激する存在。

この次々に湧いてくる疑問の答えを得るためならば、それも悪くないかもしれない……と、松岡は思った。


灰色の雲の間、遥か遠くに覗く太陽を眩しく感じつつ、もともと細い目をさらに細めながら見上げる。

弱々しい陽光を受けて振り注ぐ細雨は、まるで銀の針のようにキラキラと輝いていた。

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