第163話 『約束 (2)』
滝南の監督を務める秋山が、納得いかない表情ながらも
「わかりました」
と、憮然とした声で答えて受話器を置いた。
滝南の最高権力者である理事長からの直々の電話を、秋山はベンチ備え付けの内線電話で受けた。
試合の中止を決定したこと。
ついては、その旨を直ちに鳳鳴高校に告知し、試合終了の了承を得ること。
理事長からの電話の内容をまとめると、この二点に集約される。
秋山は、妙な話だ……と思った。
空模様から判断すれば、試合中止を決定するにはまだ早すぎる。
だが、理事長が試合中止を決定したのなら、その決定をもって審判団が強制的に試合を終了させればよい。
そうせずに“鳳鳴から試合終了の了承を得る”ことにこだわる理由が、秋山には理解できなかった。
実は、これは重彦が独断で理事長に持ちかけた“条件”であった。
すなわち、鳳鳴が試合終了を了承してしまえば、一時間を待つまでもなく試合を終了させても問題ない……という理屈だ。
仮に堂丸が異を唱えようとも、両校が試合終了を望んだ……ということであれば、いかに堂丸とてそれ以上は何もいえないであろうことを見越してのことである。
事情をよく知らないが故に腑に落ちないものを感じる秋山であったが、かといってこのような外野の声にグダグダと振り回されるような無能な男でもない。
この無益な試合を早く終わらせたいのは、滝南としても同じ。ならば、多少納得のいかない話であろうとも、さっさと鳳鳴から“了承”を得たほうが話が早い……という結論に至ったのは当然のことだった。
秋山は、サングラスの縁をクイッと上げた。
その奥にある瞳は、レンズの色の濃さ故に誰からも見えることはない。
だが、常に何か考えを巡らせているかのような、油断ならない雰囲気は十二分に感じさせていた。
そんな秋山の動きがピタリと止まり、次の瞬間には、強張るような緊張感とともに、迷いのないドスの利いた太い声が辺りに響いた。
「松岡! 松岡はどこだ!」
◇
松岡は、ベンチの中から雨の降る空を見上げた。
試合中断から、早くも十分が経過しようとしている。雨足は弱まる気配を見せていない。
とはいえ、この程度の雨で試合中止の判断を下すのは少々乱暴な気がするのは確かだった。
ただ、それを口にするのは憚られた。
ベンチに座りながら、ヒマそうに雨を見つめるレギュラーたちは、早くコールドにしてしまえばいいのに……という思いを剥き出しにしていたからだ。
主将の遠藤ですらも、まるで勝利の余韻に浸っているかのような表情でボンヤリと視線を宙に舞わしている。
七回までパーフェクトに抑え、四番の山崎を三打席とも三振に打ち取ったことを思えば、それも無理からぬことだった。
少々弛緩しすぎではないか……とも思ったが、松岡はその考えをすぐに打ち消した。
試合はもう終盤の八回である。ここまでくれば滝南の勝利は動かないだろう。
例え、勝負はゲタを履いてみるまでわからないといわれようとも。
チーム力の差は歴然なのだから。
(でも……なんとか最後までやりたかったけどね)
少し残念そうに松岡が呟いた。
以前“りん”から喫した三振の借りは、ホームランを打ったことで返したといえる。
だが、この試合を途中で終わらせてしまうことに、なんとなく松岡の中でも釈然としない思いが残っていた。
部の備品である冴えない黒色の傘を開きながら、松岡は意を決したように雨中のグラウンドに足を踏み出した。
自身の体重によって地面が沈み、そのスパイクの裏面の形が綺麗に足跡として残る。
グラウンドの状態が悪化している証拠だった。
向かう先は、対面の三塁側……鳳鳴ベンチ。
もはや試合中止が決定したことを“了承”させるために。
それは、つい先ほど、秋山から受けた監督命令だった。
本来ならば、こういった交渉は監督同士で行うものである。
しかし、ヤクザのような風貌と歯に絹を着せない性格を併せ持つ秋山は、相手に強圧的に命令するのは得意だったが、そういった交渉には全く向いていないことを自覚していた。
キャプテンの遠藤も、素直な性格が災いして、相手を説得するような交渉には不向き。
副監督の直子がいれば、彼女が最も適任であろうが、本日は所用のため不在……という扱いである。
監督の秋山が、消去法により副主将の松岡を適任者と考え、この仕事を命じたのも、客観的に見れば極めて妥当な判断であった。
その命令を受けた時、貧乏くじを引かされたという思いが松岡の胸中をかすめたが、交渉ごとをあまり苦にしない松岡からすれば、それもやむなし……と思うしかなかった。
こういう時の為に“副主将”という肩書きが自分についていることを、松岡自身がよく理解していたからだ。
(さて、どう説き伏せたものかな……)
松岡は、雨粒がリズミカルに傘を叩く音に耳を傾けながら、諦めたようにそう呟いた。
◇
雨の雫がグラウンドに落ち、土に染み込みつつ消えていく。
だが、いかに水はけのよいグラウンドであろうとも、この調子で雨が降り続ければ、間もなく土が吸収しきれなかった水が浮き出始めるだろう。
“りん”は、相変らず息を乱しながら、試合開始時より厚みを増しつつも風に流されていく雨雲を恨めしそうに睨んだ。
(早く止め……! 早く上がれ……!)
そんな“りん”の祈りも虚しく、雨足は一向に衰える気配がない。
ジリジリした気持ちを剥き出しにしてベンチに座る“りん”から、真っ直ぐ三塁側のベンチに近づいてくる人影が見えた。
灰色を基調とした滝南のユニフォーム……背番号は“2”。
黒いこうもり傘を差した松岡を、鳳鳴の監督である山本はベンチ前で丁重に出迎えた。
そのまま二人は、いくつか言葉を交わしたが、“りん”の座る場所からは会話の内容までは聞こえない。
生徒の自主性を重んずるタイプの山本は、早々にキャプテンの山崎を呼びつけて、ともに話を聞くこととした。
山本と松岡の間に入った山崎は、怪訝な顔をしつつ松岡の話に耳を傾けた。
そして、その話の内容の理不尽さに反応する山崎の声は、本人も意識することなく次第に大きくなっていった。
「ちょっと待ってくれよ! この程度の雨で中止決定だって……!?」
「雨足はともかく、グラウンド状態も悪くなってきているんでね」
松岡は、すまし顔で反論した。
だが、内心では中止の決定を下すにはまだ早すぎると思っていたため、歯切れは決して良くはなかった。
「まだ十分できる範疇だろ? 八回まできたんだから、最後までやってシロクロつけようぜ」
「……もう、十分じゃないかな」
「……っ!」
「八回まできて五対〇……。キミに至っては三つの三振。三打数ノーヒットだ」
痛いところを突かれた山崎は、押し黙らざるを得なかった。
シロクロつけようぜ……という直前の台詞が白々しく感じられるほどグゥの音も出なかった。
もう勝負はついている……と、暗に冷笑されたようなものだったからだ。
響くのは降りしきる雨の音だけ。
会話が止まり、誰も物言わぬ静寂が辺りを支配した。
そんな沈黙を破ったのは、山崎の反論を待っていた松岡の方だった。
「では、コールドゲームということで」
そう言いながら、松岡は一礼して踵を返す。
山崎の長い沈黙を“了承”と受け取って。
このままでは本当に試合が終わってしまう……そう確信しながらも、山崎は松岡を呼び止めることが出来なかった。
すぐそばにいた監督の山本も、山崎の意思を尊重するように沈黙を貫いている。
その光景をベンチの中から眺めるチームメイトたちも、無念さを表情に色濃く浮かべながら立ち尽くした。
松岡の背中の背番号“2”が、雨の向こう側に……次第に遠ざかっていく。
「ちょっと待ったっ!」
試合中、何度でもグラウンドに響いた、凛として澄んだ女の子の声。
誰の声なのか……今さら確認するまでもなく、全員がわかっている。
ピタリと立ち止まった松岡が、声のした方を肩越しに振り向く。
ついさっきまでベンチに座ってへばっていた“りん”が顔を上げて、松岡をジッと見つめていた。
「……やっぱりキミか」
その瞳には、すがるような真剣さすら混じっている。
まるで、吸い込まれそうな瞳だった。
松岡は、先の練習試合を通じて“りん”の負けん気の強さをよく知っている。
確かに、このまま試合終了というのは感情的に堪えられないだろうな……と思いながら、だからといって、あえて試合中止の決定に逆らう気もなかった。
松岡は、身構えることなく、自然体のままで“りん”の言葉を待った。
例え何を言い出そうとも、松岡にとっては反論できる自信があったからだ。
だが、“りん”の口からもれたのは、全く想定外の台詞だった。
「あの“約束”……覚えてる?」
一瞬、何のことかわからずに、松岡の端正な顔は呆気に取られた。
“りん”と松岡の視線が、しばしぶつかり合う。
まるでそこだけ時間が止まってしまったかのように動かなくなった二人を見て、間に入った形の山崎たちも目をしばたたかせている。
“りん”の台詞から、その意図を紡ぎだすためにフル回転する明晰な松岡の頭脳。
そうして導き出された答えは、松岡の心臓をわしづかみにするほど衝撃的だった。
「あ……っ!」
意図しない驚きの声が、松岡の口からもれる。
思い出したのは、先の滝南の二軍相手の練習試合での出来事だった。
――次の回、ボクを抑えられるかどうか……賭けをしないか?
ボクがヒットを打てなかったら……キミの言うことを何でも聞くよ――。
その約束は、松岡にとっては“りん”の冷静さを奪うための一つの方便にしか過ぎなかった。(第105話参照)
しかし、松岡はヒットを打つことが出来ずに三振を喫した。
ヒットを打てない事態など露ほども考えていなかったため、そんな約束のことなど松岡の頭の中からとうに消えていた。
たった今“りん”に指摘されるまでは。
“りん”は、追い討ちをかけるように付け加えた。
「この試合……最後までやらせて欲しいんだ」
松岡は、“りん”の瞳から目を逸らすことすら出来ずに、驚愕の面持ちで息を呑んだ。
未だに失われぬ瞳の輝きは、勝利への意欲を失っていなかった。
この絶望的な状況にあって、その瞳はこう言っている。
最後に勝つのは自分たちだ――と。
――TO BE CONTINUED