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俺、りん  作者: じぇにゅいん
第三部
165/177

第162話 『約束 (1)』

「センターッ!」


鋭い打球がセンター方向へ。

“りん”は、センター・広瀬を指差して、凛とした声を張り上げた。


右中間の深いところ、懸命に全力疾走する広瀬は、グラブを懸命に伸ばしつつ、ボールの落下地点にダイビングした。

計ったようにスッポリと収まるボール。

そのまま雨に濡れた外野の天然芝の上を滑った広瀬は、ボールを掴んだことをアッピールするためにグラブを高々と掲げた。

審判がアウトを宣告したのは、それとほぼ同時だった。


広瀬のダイビングキャッチに、“りん”の嬉しそうな笑顔が弾けた。

そんな“りん”の笑顔と連動するように、観客席に陣取る沙紀たちも飛び上がらんばかりに喜び合う。

少し前までの辛気臭さなど微塵も感じさせないお祭り騒ぎであった。


スリーアウトとなり、この七回裏をなんとか一点に抑えることに成功した鳳鳴。

松岡に本塁打を浴びた後、さらにヒットを浴びてランナーを背負いながらも、粘り強く守りきったことには大きな意味があった。


この回、追加点を献上したことにより、危うく気持ちが切れかけた。

だが、辛うじて持ちこたえたことで、先ほどの広瀬のファインプレーが生まれた。

切れかけた気持ちはきつく繋ぎとめられ、いつの間にかそれは強固なものへと変わっていた。


疲れた身体を引きずるようにマウンドをゆっくりと下りる“りん”を、ナインが笑顔で囲む。

“りん”への声援が、観客席から絶えることなく響く。

チームの中に、“りん”を中心とした一体感が生まれつつあった。


 ◇


「しぶといな……」


バックネット裏の特別観覧室内にて、展望ガラスの手前まで歩み寄った重彦が、忌々しげにボソリと呟いた。

重彦も、日本高校野球連盟という組織の中で働く職員として、人並み以上の野球の知識がある。

その豊富な知識を持って下した判断は、滝南が五点目を取った瞬間“勝負あった”だった。

あとは、滝南が一方的に点を取るだけ。それでこの試合は終わりだ……と踏んでいた。

ところが、実際には、一つのファインプレーに湧き立ちつつ、首の皮一枚のところで踏みとどまっている。

重彦は、思惑どおりに事が動かぬことに苛立ちを感じながら舌打ちをした。


「彼女は、そう簡単に諦めないわよ」


ソファに掛けたまま、直子が重彦の背中に向って口出しした。


「だって、彼女の精神力は並みじゃないもの。滝南≪ウチ≫を相手にパーフェクトに抑えようなんて、本気で考えて……そして、やり遂げる娘なんですから」


「……ふん。滝南といっても二軍の話じゃないか」


重彦は、そう冷たく言い放ちながら、窓の外……灰色の空を眺めた。

大きな展望窓には細やかな雨粒が次々と当たり、撥水加工されたガラスの上を水滴がスルスルと滑り落ちていく。


馬鹿にしたように鼻を鳴らした重彦の態度に、直子は不愉快な気持ちを募らせながら反論した。


「例え二軍相手でも、あそこまで見事なピッチングが出来るピッチャーなんて、男でもそうはいないはずよ」


「そうだよ! りん姉はすごいんだ……本当に!」


直子に同調する夏美を見て、重彦はあからさまに眉間にシワを寄せた。

自己中心的なこの男は、自分の意見に対する反論を好まなかったからだ。


「だが……」


そう言って、ガラスをドンッと拳で叩く。

冷酷さを感じさせる薄い唇をニヤリと吊り上げながら、重彦は直子と夏美の方を向き直った。


「今、五対〇で負けている現実は変わらない」


重彦の台詞に間違いはなかった。

七回を終わって五対〇……しかも、完全試合進行中というオマケつき。

敗色濃厚という言葉を通り越して、敗北が決定的というべき状況である。


ガラス一枚を隔てた向こう側では、現在もまだ試合は進行している。

雨に煙るマウンド上の遠藤から放たれたボールが、打者のフルスイングにかすることなく松岡のミットに収まり、主審の轟声がグラウンドに響いた。


「ストライクバッターアウトッ!」


ちょうど鳳鳴の四番・山崎が、三振に打ち取られたところだった。


(あと五人……だな)


今は八回の表……ワンアウトとなったところである。

滝南のエース・遠藤が完全試合≪パーフェクト≫を達成するまで“あと五人”。

重彦が、そうほくそ笑むと同時に、窓ガラスに打ちつける雨粒の数が急激に増えた。

小雨模様だった雨足が強まったためだ。


ガラスに付いた水滴が増えるにつれ、グラウンド全体の様子が見づらくなっていく。

舌打ちをしながらガラスに顔を近づけても、流れ落ちる水滴の向こう側に辛うじて試合の様子が見て取れる程度で、あとは雨粒がガラスを叩く音がかすかに聞こえるくらいだった。


「ええぃ、見にくいな」


そう言いながら、重彦が苦笑いをして自分のソファに戻ろうとした時だった。

夏美が、ガラスの向こう側を凝視しながら


「あっ……!」


という驚いた声を上げた。

重彦はまたガラスに張り付き、外の様子を窺った。

堂丸も、直子も、身を乗り出して注視した。


「……中……断?」


直子が呆然としながらポツリと呟いた。


グラウンドに散っていた滝南の選手たちがベンチに引き上げていく。

これは、主審が試合の一時中断を宣告したからに他ならない。


直子の表情には、驚きが含まれていた。

雨足が強くなったとはいえ、試合を中断させるほどの雨とは思えなかったからだ。

だが実際は、試合開始から降り続いている小雨により、グラウンドの状態が見た目以上に悪化していたことも主審に中断を決断させた一因であった。


思わぬハプニングに、重彦は込み上げてくる笑いを抑えきれずに笑い声を上げた。

まるで、せせら笑うように。


「あと五人どころじゃない。雨天コールドってヤツだ」


選手たちが引き上げ、無人になったグラウンドを眺めながら、重彦は一際冷たく……愉快そうに言い放った。


「試合は敗色濃厚。しかも雨で中断中。どうせ公式戦じゃないんだ。もうこれ以上試合を続ける必要はないだろう」


「待って! それは……っ!」


直子は慌てた。

天気予報では、本格的な雨にはならない……と言っていた。

だとすれば、一時的なにわか雨である可能性が高い。

また、懸念されるグラウンドの状態も、あらゆる手段を尽くすことで応急処置が可能なのだ。


直子は、チラリと夏美を見やった。

この状況で、このまま試合を終わらせるわけにはいかなかった。


「会長も多忙なんだ。勝敗のついた試合をこれ以上見ても仕方ないんだよ……なぁ、会長オヤジ?」


重彦を皮切りに、直子……そして、夏美が、ソファに掛けたまま、一言もしゃべらずにいる堂丸を一斉に見た。

堂丸は、厳しい表情を崩すことなく、重々しく口を開いた。


「ワシは夏美と約束した。『りん姉の戦いを最後まで見届ける』……とな」


その言葉を聞いて、直子と夏美の顔にホッとした笑顔が浮かぶ。

あからさまに面白くなさそうにソッポを向いた重彦とは対照的だった。


「あとキッカリ一時間待つ。理事長にそう伝えい」


その間に雨が上がるか。

そして、グラウンドの状態が試合続行に耐えられるか。


堂丸の一言により、サイは投げられた。


重彦は、気乗りしないながらも、室内のカウンターテーブル上にある直通電話ホットラインを手に取った。

もちろん、堂丸の意向を、この試合の主催者である滝南の理事長に伝えるためだ。

堂丸の意向が伝われば、理事長は唯々諾々と受け入れるだろう。

当然、その指示は滝南の監督にまで及ぶはずである。


その時、重彦の頭に閃いたことがあった。

重彦は、理事長室に回線が繋がる通話開始ボタンを押す“ふり”をして、しばらく受話器を握り絞めてから何食わぬ顔で元に戻した。


「……理事長が電話に出ませんね。俺が行って直接伝えてきます」


怪訝そうな顔をする直子を無視するように、重彦はためらいなく部屋を出た。


滝南の理事長室は、この球場から少々離れた校舎の最上階にある。

雨の中、球場の外に出た重彦は、駐車場に待機していた黒塗りのセダンの後部座席に素早く身を滑らせた。


「校舎まで行ってくれ」


車内で待機していた滝南のお抱え運転手に対し、大至急だ……と付け加えた重彦の態度は不遜だった。

エンジンがかかり、動き出したワイパーにより前方の視界が大きく確保された。

スーツに付着した水滴を払いつつ、胸ポケットから慣れた手つきでタバコを一本取り出し火をつけた重彦は、立ち昇る紫煙を見つめながらニヤリと唇を歪ませた。

早々に、静かに走り出す車。

重彦は、肺一杯に吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出しながら独りごちた。


「ふふ……、もう勝負のついた試合だ。一時間も待つ必要はないさ、親父」


走る車のフロントガラスには次々に水滴が当たり、リズミカルに動くワイパーが瞬く間にそれを払拭していく。

流れる景色を無感動な目つきで眺めながら、重彦はもう一度タバコを大きく吸い込んだ。


(もう、この試合は終わらせてやる。あとは夏美を連れ帰るだけ……)


そう心の中で呟いた重彦は、美味そうに煙をくゆらせた。



――TO BE CONTINUED

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