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俺、りん  作者: じぇにゅいん
第三部
164/177

第161話 『勝利の歌 (2)』

初回裏に“4”。間に五つの“0”を挟んで、七回裏に“1”……合計“5”点。

鳳鳴のスコアボードに七つのゼロが連なっている間に、滝南は五点を積み上げた。


五対〇……七回裏、ノーアウト。

マウンド上にうなだれたまま……“りん”は、非情な現実に抗うように固く目を瞑った。

球数は、すでに百球を超え、呼吸のたびに“りん”の肩が大きく揺れる。

誰の目にも、体力の限界なのは明らかだった。

しかし、この試合のルール上、“りん”は最後まで投げ続けなければならない……気力の続く限り。


初回の大量失点がなければ。

ホームランを打たれた、直前の一投がなければ。


野球にタラ・レバは存在しない。

それでも、朦朧とした意識の中に渦巻く後悔は、和宏の心を削り取っていった。

そして、その心の空隙に、黒くて甘い誘惑がジワジワと広がっていく。


もうあきらめよう――。


まだ滝南の攻撃は続く……決め球のスライダーをスタンドまで運ばれてしまった以上、これからさらに追加点を奪われるかもしれない。

その前に、あの遠藤を相手に五点差をひっくり返すことすら容易ではない。

あきらめてしまえば、きっとラクになれる。

この疲れ切った身体に鞭打つ必要がなくなるのだから。


そんな思考が堰を切ったように、マウンド上でへたり込んだままの和宏の頭の中に次から次へと流れ出し、必死に守ってきたはずの勝利への意志を押し流そうとしている。


“りん”は、瞑っていた目を静かに開けた。

その視界の上端に、一際大きなサイズのスパイクとキャッチャーレガースが入ってきた。

虚ろな表情のまま、ゆっくりと顔を上げると、そこに立っていたのは雨にぬれた大村だった。


「そんな下を向いてる萱坂さんなんて……萱坂さんらしくないよ」


大村の野太い声が、胸にグサリと突き刺さる。

普段の大村らしくない、強い口調の声。

“りん”は、それから逃げるように、顔を歪ませながら再び俯いた。


大村のつり上がった太い眉毛と鋭い目つきからは、未だ力強い意思が感じられる。

きっと大村クンはまだ諦めていないのだろう……和宏は、そう思った。


(わかってるよ……それくらい。でも……)


身体が悲鳴を上げている。

もう立っているのも辛いほど。

そして、和宏の頭の中にはいくつもの後悔が渦巻いている。


潰えそうな気力。

折れそうな精神こころ


今にも弱音を吐いてしまいそうだった。


もうダメだ――と。




俯いたまま、膝を掴む両手に力が篭る。

和宏が“敗北”という二文字に押し潰されそうになった時、それは聞こえた。



――顔を上げろ 前を向け

――進む道は前にしかないだろう?



唐突に響いた歌。

和宏は、驚きながら顔を上げた。



――勝利への意志は 決して自分を裏切らない

――燃やし尽くせばいい その燃えカスにこそ価値がある



聞き覚えのある歌詞を、大村が口ずさんでいた。

耳に心地良く響くメロディに乗せて。


(Victory……!)



――限界だなんて認めるなよ 本当の限界はその先にしかないんだから



二人でライブに行った時に聞いたあの曲が、今“りん”の耳元で流れている。

“ブラックポセイドン”の名曲……『Victory』が。


ポカンとする“りん”を見て、大村はイタズラっぽくニヤリと笑った。

二人が“ブラックポセイドン”のファンになったきっかけになった曲。

大村にとっても、和宏にとっても思い出の曲だった。(第121話参照)



――ただがむしゃらに前へ

――苦しみの向こう側へ

――明日のその先へ


――戦う理由わけがあるのなら 一歩ずつだって進んでいける

――例えそれが道なき道だったとしても



虚ろだった“りん”の瞳に光が灯り、同時に忘れていた思いが舞い戻ってくる。

“りん”は、戦い理由を二つ持っていることを思い出した。


母さんとの約束と、夏美との約束と。


和宏は、急に腹立たしさが湧き上がるのを感じた。

やり直しのきかないラストチャンスであることをわかっていたはずなのに、一瞬でも試合をあきらめようとした自分自身への怒り。

それを教えてくれた、大村に対する気恥ずかしさ。

きっと照れ隠しもあっただろう。


“りん”は、静かに右手を上げた――。




何の前触れもなく、盛大な肌を叩く音が、ことのほか大きくマウンド上に響く。

あまりにも突然で突拍子もない出来事に、歌は中断された。

何が起こったのか……理解が追いつかずに、ただ大村は面食らうしかなかった。


ムリもなかった。

“りん”が、自分で自分の頬を力一杯ひっぱたいたのだから――。




「か、萱坂さん……?」


大村は、間の抜けた声を出すのが精一杯だった。


ジンジンする頬。

意に反して潤む瞳。


しびれるような極上の痛みが後を引いた。

少々強く叩き過ぎてしまったのだろう。

だが……手は動く。足も動く。身体はまだ動く。


「大丈夫……まだ、いける」


そう言った“りん”の頬を、相変らず降り続ける雨が遠慮なく叩いた。

十一月の雨は、ヒンヤリと冷たい。

だが、まだヒリヒリと痛む頬を濡らしていく水滴は心地よかった。


「もう一度、やり直そう。二回以降、ずっと滝南を無得点に抑えてきたんだから、あと二回くらい……」


何とかなるさ……と、“りん”が台詞を続けようとした時


「いや、違うよ。あと三回だよ、萱坂さん」


と、大村が言い返した。

目をパチクリとさせる“りん”を見て、大村はさらに続けた。


「この七回と八回、そして九回裏まで抑えてもらわないといけないからね」


そう言う大村の目は、半分笑いながらも真剣だった。

九回表で逆転すれば、九回裏まで投げなくてはならない……一寸考えればわかる話。

大村の意図を理解した和宏は、唇を結んで力強く頷いた。


「ウチの攻撃は、まだ二回あるんだ。このままじゃ終わらせないよ」


「わかった。サンキュー、大村クン」


ずっと雨水を吸い込続けて、マウンドの表面はもうかなり荒れ果てていた。

それでもまだ止まない雨は、相変らず静かに降り続いている。


“りん”は、ぬかるみの混じるマウンドを足で丁寧に慣らした。

相変らず肩で息をしている“りん”だったが、その瞳にはもう弱気の色はない。

満足気に頷いた大村は、ホームベース前に戻り、振り返った。


「しまっていこ〜っ!」


グラウンドの果てまで響き渡るような、腹の底から搾り出された大声。

まるで敗北が決定してしまったかのような暗澹としたムードに一喝を入れるには充分だった。


お通夜のように静まっていたスタンドから、思い出したように声が上がり始めた。


「そうだ~! りん〜!」

「まだ終わってないよ!」

「あと、ひと踏ん張り〜!」


沙紀が、東子が、クラスメートのみんなが……思い思いの一声を“りん”に送っていく。


「頑張れ! 負けるなっ!」


(のどかまで……)


“りん”は、スタンドに視線を向けた。

両手でメガホンを作って、小さな身体を震わせながら、目一杯の大声を張り上げるのどか。

いつも冷静沈着なのどからしくない絶叫だった。


沙紀も、東子も、上野の姉御も……もちろんのどかも、全員が総立ちになっていた。

しかも、差していた傘は何時の間にか脇に放られ、“りん”と同じように雨に打たれながら。


みんなの声が重なり合い、それらはやがて大きな声援となった。

止むことない声援が、何度も何度もグラウンドにこだまする。


“りん”は、雨に濡れ重くなった帽子を深く被りなおした。

帽子のツバに隠された瞳には、照れたような笑みが浮かんでいた。

ボールを握った右手を高く掲げ、“りん”は振り向きざま叫んだ。


「頼むぞ! バックッ!」


透明感溢れる澄んだ声が、グラウンドの隅々まで届く。

つられたように、バックからは力強い返事が即座に返ってきた。


「おうっ!」


投手がマウンドに上がる時は、常に独りである。

そこで投手は、時として孤独感を味わう。

しかし、今は違った。

それを、和宏はマウンド上での実感として味わっていた。


大切な仲間たちが、いつだって自分を支えてくれているという実感を――。




大村は、『このままじゃ終わらせない』と言った。

それは気休めかもしれない……が、今はその言葉を疑う必要はなかった。


“りん”の身体の体力の限界は、とうに超えている。

だが、今ならば、気力が続く限り信じ抜くことが出来るだろう。

最後に勝つのは自分たちだということを。


七回表、ノーアウト。

ゲームセットが宣告される瞬間まで、試合はまだ終わらない。


和宏は、心の中で『Victory』の続きを口ずさみながら振りかぶった。



――遥か彼方 あの敵陣に 俺たちの旗を突き立てるんだ

――泥だらけの勝利の旗を

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