第160話 『勝利の歌 (1)』
雨は、飽くことなくシトシトと降り続いていた。
外野の芝生は水滴を帯び、観客席の無人のシートは、人が座るのを拒むかのように尻の部分のくぼみに水を貯めている。
グラウンドの土も、雨を吸い続けたせいで、あちらこちらにぬかるみが生じている。
そんな雨中で進行する試合も、ついに終盤戦へ……七回表まで進んだ。
毎回のように得点圏にランナーを進め、執拗に追加点を狙う滝南。
その都度、全員一丸となった守備で本塁を強固に守り、すんでのところで失点を免れる鳳鳴。
何度となくホームベース上で繰り広げられたクロスプレイは、観客席で声を出すことしか出来ない沙紀やのどかたちにとって、心臓にあまり良くない光景の繰り返しであった。
点差は四点のまま。
回を追うごとに“りん”の疲労の度合いが高まっていく。
それに反比例するようにベンチでの口数が減っていき、ここに至っては、すで疲労困憊な様子が誰の目にも明らかだった。
それでも力投を続ける“りん”を、守備陣が好守で支えている。
だが、逆に打線の方は、滝南のエース・遠藤の左腕の前に圧倒され続けていた。
「ストライクバッターアウトッ!」
鳳鳴の二番バッター・矢野のスイングが空を切り、主審が親指を立てた握り拳を空に掲げた。
三塁側の鳳鳴ベンチから、失望のタメ息がこぼれる。
「園田。これで三振は何個目だ?」
「え~と……十三個目です」
険しい顔をした山崎の質問に、スコアブックに記入された“K”の数を素早く数えあげた栞が答えた。
七回表の攻撃、ツーアウト。ここまでのアウトの総数二十個のうち、実に十三個が三振によるもの。
まさに、驚きの奪三振ショーだった。
(くそっ! 手も足もでないのかよ、このまま……っ!)
四点のビハインドを追わなくてはならないのに、遠藤の前に沈黙を余儀なくされる鳳鳴打線。
しかも、山崎自身が、その打線の主軸なのだ。
山崎は、自らの情けなさと悔しさのあまり歯ぎしりをした。
「山崎さん! ネクストサークルに入らないと!」
栞が、慌てたように山崎を急かした。
バッターボックスには、すでに三番の倉木が入っていた。
当然、次打者に当たる四番の山崎は、ネクストサークルに入っておかなくてはならない。
空っぽのネクストサークルを見る主審の訝しげな視線に気付いた山崎は、あ……と気の抜けた声を発しながら、自分の金属バットを片手に慌ててネクストサークルに入った。
程なくプレーが再開され、マウンド上の遠藤が第一球を放る。
相変らず、外野からのバックホームを思わせるような大きなバックスイングが特徴的なピッチングフォーム。
小気味よく投げ込まれる速球は、爽快な音を響かせながら、松岡のミットにピシリと収まった。
「ボール!」
少しトーンを抑え目にした判定のコール。
高めに浮いた、明らかなボールだった。
(……ん? なんだ……?)
山崎は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
見た目豪快で、初回と変わらぬように見える遠藤のピッチングフォームだったが、山崎はわずかな違和感を覚えた。
しかし、遠藤のピッチングフォームを穴が空くほど見つめても、何故そう見えたのかまではわからなかった。
(ひょっとすると、萱坂のピッチングフォームを見慣れちまったからかもな)
ベンチの奥……疲れ果て、椅子の端っこに膝を立てて顔をうずめるように座っている“りん”を見やる。
あの流れるように滑らかなピッチングフォームは、今や“りん”の専売特許みたいなものだ。
それに比べれば、コンバート直後の投手のフォームなど、ぎこちなく見えて不思議はないだろう。
遠藤の、倉木に対する五球目。カウントツーツーから投じられたインコースへのボールを、倉木は腰を引きながら振ってしまった。
力ないスイングは空を切り、同時に主審が三振を宣告した。
スリーアウトチェンジ。七回表の鳳鳴の攻撃は、四番の山崎まで回ることなく無得点に終わった。
「バカヤロー! 見送ればボールじゃねぇか!」
山崎の鋭い指摘が飛び、倉木はバツが悪そうに頭を掻きながらベンチに戻っていった。
これで、遠藤に奪われた三振の数は十四個目。
キリキリ舞いという言葉がピッタリとくる戦況。
七回裏の滝南の攻撃に備え、鳳鳴ナインが守備に散っていく。
だが、その足取りは沈痛だった。
何故ならば、鳳鳴は七回の攻撃を終わって未だ無安打無走者。滝南のエース・遠藤の前に完全試合に抑えられていたからだ。
攻撃の機会は、残りわずか二回。にもかかわらず、全く掴めぬ反撃の糸口。
みな、一様に意気消沈していた。
そんな中、悠々と引き上げていく遠藤に代わって“りん”がマウンドに上がる。
息を乱し、濃い疲労感を漂わせ、重い身体を引きずるように……ゆっくりと。
◇
「痛々しいね、どうにも」
右バッターボックス手前で、軽く素振りをしながら、松岡は細い目をさらに細めて呟いた。
呼吸に合わせて“りん”の肩が上下に揺れているのが、バッターボックス付近からでもはっきりとわかる。
(ムリもないか。毎回ピンチの連続なんだから)
松岡は、ここまでの驚異的な鳳鳴の粘りに思いを馳せた。
一体いくつの本塁憤死があったことか。
そのうち一つでも生還していたら、また変わった展開になっていただろう。
だが、滝南のスコアボードに、初回の四点以降、五つのゼロが並んでいるのは否定できない事実である。
滝南にとっては“嫌な流れ”かもしれない。
だが、勝負のアヤは、いつだって揺蕩っている。
逆に言えば、わずかに運が滝南に向くだけで、いつでも流れはひっくり返るはず……松岡は、そう確信していた。
「あと一点でいい……」
松岡の本音が、思わず口をついた。
点差は四点。
回は七回……鳳鳴の攻撃機会は、あとたった二回。
遠藤にパーフェクトに封じられている攻撃陣。
消耗しきった“りん”の体力。
状況は、どう足掻いても滝南有利だった。
常識的に考えれば、総合力で圧倒的に劣る鳳鳴が、この局面から逆転する見込みなど無に等しい。
それでも“りん”には、マウンド上で疲労に喘ぎながらも、勝利を諦めている様子はなかった。
また、そうでもなければ、立っているのも辛そうな状態で投げ続けることは出来ないだろう。
賞賛すべき精神力。だが、それももはや薄皮一枚で繋がっているだけの脆いシロモノだ……と松岡は感じた。
この状態において“りん”の気力を後押ししているのは、実際に二回以降の滝南の攻撃を無得点に抑えてきたという事実。
加えて、このまま抑え続ければ、いつか打線が何とかしてくれる……という愚直なまでの思い。
もしここで滝南が追加点を一点でも奪えば、それらは音を立てて崩れ、間違いなく“りん”に対する精神的なトドメとなるはずだ。
(あとたった一点で……彼女の心は折れる)
それが、現在の状況から見た、松岡の大局観だった。
◇
「松岡《彼》は要注意だからね。気を抜かずにいこう」
「大丈夫。わかってるよ」
大村の言葉に、マウンド上の“りん”は、肩で息をしながら頷いた。
しかし、所詮は気休めである。
気を抜いていい打者など、滝南打線には一人もいないのだから。
大村は、マウンドからホームへの戻り際、“りん”をチラリと見やった。
いくら呼吸を繰り返しても止まらぬ息切れ。
それでも、輝きだけは失わない瞳。
“りん”に体力の不安があることをわかっていながら、より多くの球数を投げさせる戦術をとってしまったことを後悔はしていない。
そのフォローのために、二回以降はストライク主体のリードに切り替えた。
いうまでもなく“りん”の体力への配慮、だ。
だが、滝南の強力打線は、数多くのヒットを容赦なく“りん”に浴びせかけ、なけなしの体力を奪い取っていってしまった。
打線の援護のない中、萱坂さんの気力はいつまで持つだろう?
そんな不安が胸中をかすめたが、あえて大村はそれを飲み込んだ。
大村がよく知る“りん”の意地と勝利へのこだわり。
今はそれを信じるしかない……と思いながら、大村はミットを構えた。
マウンド上から見る大村の構えは、大きな身体を小さく畳んでいるため、キャッチャーミットだけが相対的に大きく見える。
和宏にとっては、ひどく投げやすいターゲットだ。
“りん”は、気を抜くと朦朧となりそうな意識を手繰り寄せながら、大村の出すサインを覗き込んだ。
右バッターボックスで構える松岡に対する初球は、松岡の得意コースである外角高目からボール一つ分軌道を変えるスライダー。
もし、見送ればストライクとなるコースである。
大村のサインに頷いた“りん”は、ワインドアップモーションから松岡への第一球を投じた。
明らかに疲労を抱えながらも、そのアンダースローのフォームは流れるように美しく、躍動感を失ってはいない。
放たれたボールは、要求されたとおりの軌跡を描いてスライドする……“りん”の渾身のスライダー。
大胆にも初球から得意コースを攻めてくる配球に虚を突かれながらも、初球はストライクと決め打ちしていた松岡が遮二無二打ちにいく。
すでに、スライダーに身体は泳がされていた。完全に大村の狙いに嵌った形。だが、それでも構わずに強引に振り抜いた金属バットが白球を力強く捉えた。
ジャストミートの快音とともに。
程よい角度で、レストスタンドに向って伸びる打球。
金属音と同時に、被っていたキャッチャーマスクを放り投げて立ち上がった大村が、それを目で追う。
打球を追って、レフト・佐伯が一直線に走る。
観客席に座る誰もが立ち上がって、大なり小なり悲鳴を上げながらレフト方向を凝視する。
フェンス手前まで全力疾走した佐伯が、力尽きたように足を緩めた。
同時に、無人の外野スタンドにボールが飛び込み、大きく跳ねる。
三塁塁審の手が三度……ゆっくりと回され、ホームランであることが宣された。
一塁を回ったばかりの松岡は、誰にも見えぬように小さくガッツポーズをした。
同時に、滝南のベンチに、どこかホッとした空気が流れた。
押しに押して取れなかった追加点が、ようやく手に入ったからだ。
ただでさえズッシリと重かった四点差は、今……一点を加え、五点差となった。
反撃の足がかりすらない状態にもかかわらず広がってしまった点差。
我慢して堪えていたものが、一気に押し流されたような感覚。
言葉を失ったまま、鳳鳴ナインは、その場で棒立ちとなっていた。
シンと静まり返った観客席は、誰もがボールが飛び込んだばかりのレフトスタンドを見つめたままだった。
そして、マウンド上の“りん”は、ひざに手を当ててゆっくりとうなだれた。
雨にぬれたポニーテールが、重そうに……その身を垂れる。
まるで、絶望したかのように――。
――TO BE CONTINUED