第159話 『試合の行方』
滝南のエース・遠藤の左腕から放たれたハイレベルな速球が、キャッチャー・松岡のミットに入ると同時に景気の良い音が辺りに響いた。
主審のコールはストライク。
山崎の苦手コースである“内角低め”にズバリと、文句のつけようのないストライクだった。
二回表、四番・山崎から始まった鳳鳴の攻撃は、奇しくも滝南のエースと鳳鳴の四番の対峙となった。
この試合の行方を占う上で、甚だ重要な位置付けとなる対決だ。
四点というビハインドは確かに大きいが、直前の自身のファインプレーにより盛り上がったチームのムードに乗って遠藤を打ち崩せば、試合の行方はまだわからない。
明らかな劣勢を少しでも挽回したい一心で打席に立った山崎であったが、その目論見は遠藤の鬼気迫るピッチングによって強引に阻止されようとしていた。
絶対に打たせない! ……という遠藤の強い意思が込められた、ズシリと重そうな速球が山崎を翻弄する。
初めて全国レベルの速球を目の当たりにした山崎は、バッターボックス上で呆然と立ち尽くすしかなかった。
(アイツが……こんな球を投げる投手になるなんて……)
山崎の記憶の中にある遠藤は、小学校四年生のままで止まっている。
貧相な身体つきをした、遠投も満足にこなせない少年のままで。
隠せない驚きの中には、感慨深い思いがわずかに混じっていた。
◇
弱い雨足ながらも、止むことなく降り続けている小雨。
なおいっそう灰色の度を増した厚い雲は、まだしばらくこの雨が降り続けるであろうことを容易に想像させた。
屋根のついているベンチと違い、観客席には屋根がない。
三塁側……鳳鳴の観客席。上野の姉御以下、“りん”のクラスメートの一団も、ほとんどひとかたまりになって座りながら、思い思いに傘を差して、決して良くはない戦況を言葉少なに見つめている。
沙紀と東子、そしてのどかの三人もまた、その最前列に陣取りつつ、試合の行方を見守っていた。
「すごいね……カズっち」
「そう……ね」
感心したようにタメ息をもらす東子に、沙紀は気のない相槌を打った。
素人目にも凄みを感じさせるピッチングは、東子だけでなく、観客席に座っている全員を黙らせるに値した。
だが、それ以上に沙紀の反応の薄さは、東子にとってものどかにとってもしっくりこないものを感じさせた。
「なんか元気ないよ? 沙紀」
「そんなこと……ないわよ」
沙紀の生返事は相変らず。
心ここにあらずといった感じの沙紀を見て、東子はなすすべなく肩をすくめた。
「ひょっとして沙紀は……彼と付き合ってたのかい?」
「な、なんでそうなるのよ!?」
「なんとなく……だけど」
のどかの確信めいた質問に、沙紀は自慢の切れ長の瞳を大きく見開いた。
そんな沙紀を見て、東子は可笑しそうに吹き出した。
「変に鋭いから、のどかは♪ りんと違って♪」
そう言って笑う東子に、のどかは
(この際、りんは関係ないような気がするけど……)
と思いながら苦笑した。
確かに……という感じで、同じように苦笑いする沙紀を尻目に、東子は、らしくなく、ヒソヒソ話をする時のようにいつものアニメ声をひそめた。
「告白されただけだよね~……小学四年生の時にっ♪」
「えええっ!?」
「のどか驚きすぎ! ……っていうか、東子突然なに言い出すのよ!」
「えへへ。だってアタシ、その時の話、まだ詳しく聞かせてもらってないしっ♪」
東子の、ちょっと意地の悪さを含んだ確信犯的笑顔が、小憎らしいほど眩しい。
そんな東子を、ジトリと睨みつけた沙紀は、観念したようにタメ息を一つついた。
「別に話すほどのことじゃなかったって言ってるじゃない」
「え~!? いいじゃない、別にぃ~」
「『いいじゃない』……って言われてもねぇ」
ちょっと困った顔で言い淀んだ沙紀に、のどかが口を挟んだ。
「じゃあせめて、なんて台詞で告白されたのか……とか、沙紀はなんて答えたのか……とかさ」
「そ、そうそう! それそれ! アタシが聞きたいのはっ!」
女子にとって、他人の恋話はケーキより甘い……という格言がある。
それを地で行くように、東子とのどかの目は興味深げにキラキラと輝いていた。
確かに、他人の恋話の甘さは格別であるが、それを提供する側になると、また話が違ってくる。
沙紀は、喰いついてくる二人に呆れたように、もう一度タメ息をついた。
以前、のどかの告白現場をノリノリで目撃していたこと(第133話参照)など、すっかり棚に上げて。
半ば無意識に、沙紀は記憶を手繰り寄せていく。
小学四年生の時……遠藤が引っ越す直前の突然の告白。
沙紀にとっては、生まれて初めての。
その時のことを思い浮かべるだけで、頬が赤く染まるような――。
沙紀の中で鮮明にリプレイされる、その時のやり取り。
顔中どころか、耳たぶまで燃えるように熱くなるのを感じた沙紀は、思わず頭を振った。
「ああん、もう! いいじゃない、昔の話よ! 昔の!」
イヤな流れを変えようとするかのように、沙紀は声を荒らげた。
「ええ~!? つまんな~い」
わざとらしく頬を膨らませてブーイングする東子に、沙紀はイラッときた感情を込めて右手をワキワキさせた。
アイアンクローの喰らい役は大体“りん”であり、東子が喰らうことはめったにない。
沙紀が東子にアイアンクローをかけようとする時は、“本気”で怒っている時である。
「つまんな~い……じゃないでしょうが!」
ムスッとした沙紀に、東子は口を尖らせながら、ハイハイ……と返事をして、そのまま黙りこくってしまった。
長い付き合いである。沙紀が本気で怒る一歩手前なのはわかっていたからだ。
そんな二人の掛け合いを眺めていたのどかは、微笑ましさを感じながらクスクスと笑った。
不自然な沈黙が三人を包む。
沙紀は、雨中のグラウンドに顔を向けながら、小さくタメ息をついた。
心なしか、傘を叩く雨音が強くなったような気がした。
(もう“昔の話”……なんだから……)
そう心の中で呟きながら、沙紀の視線はバッターボックスに立つ山崎の背中……背番号“5”で止まっていた。
◇
鈍い金属音とともに、ボテボテのゴロが一塁側ファールグラウンドに転がった。
辛うじて当てた感のある振り遅れ。
カウントはツーストライクワンボールになった。
あと二球の遊び球を放る余裕のある、いわゆる投手側に有利なカウントである。
山崎は、苛立ちを感じていた。
いうまでもなく、手玉に取られている自分自身に。
遠藤と相対して、山崎は遠藤にも弱点があることを知った。
その抜群のスピードとは一線を画した稚拙な変化球と、針の穴を通すようなコントロールを誇る“りん”より明らかに劣る雑な制球力。
いずれもが、外野手からコンバートされたばかりという経験の浅さからくる弱点である。
だが、そんな弱点など簡単に糊塗してしまうほど、遠藤の速球は力強かった。
そして、苛立ちの最大の原因は、来る球全てが山崎の読みを外していくことだった。
苦手な内角低目を徹底的に突いてくるのかと思いきや、次には得意の外角を大胆に突いてきたり。
裏をかくのか……あるいは、さらにその裏をかくのか……。
考えれば考えるほど、山崎の思考は泥沼へと嵌っていき、その表情には苦悶の色が混じっていった。
(ふふふ……迷ってるね。手に取るようにわかるよ)
松岡は、一球ごとに集中力を欠いていく山崎の表情にほくそ笑んでいた。
狙い球の読みを何度も外されれば、誰でも疑心暗鬼になり、生じた迷いは集中力を乱す元になる。
(特に、このテの打者は組し易いからね……)
松岡から見て、対する打者のタイプは次の二つに大別される。
論理的な読みを働かせてくるタイプと、自らの直感を信じてくるタイプ。
山崎は後者に該当する。
天才肌の選手に多いタイプだが、信じている自分の感覚にズレを生じさせれば、対処が容易くなることが多い。
今の山崎が、まさしくそれだった。
松岡は、決め球として内角低め一杯のストレートを遠藤に求めた。
我が意を得たり……と、遠藤は大きく頷き、センターからバックホームをする時のような大きなモーションで全力のストレートを放った。
山崎は、苦手とする内角低めのストレートに対し、窮屈そうなスイングしか出来なかった。
ボールは、山崎のバットにかすることなくミットに収まり、万事は休した。
「ストライク! バッターアウトッ!」
審判のコールと同時に、山崎がしかめっ面で天を仰ぐ。
痛恨の三振だった。
マウンド上の遠藤は、力ない足取りでベンチに引き上げる山崎の後姿を見据えた。
「昔と変わってないんだな、お前は。内角低目を窮屈そうに打つクセ……あの時のままだ」
そう呟きながら、昔、どう足掻いてもかなわなかった相手を強さでねじ伏せた喜びを遠藤は感じていた。
一方で、微かな腹立たしさとともに……。
「ナイスピッチング」
ボールを手に持った松岡が、マウンド上の遠藤の元まで歩み寄って来た。
遠藤は、それを受け取りながら、わざわざ近づいてきた松岡の顔を怪訝な表情で見つめた。
「少々飛ばし過ぎじゃないか?」
初回から、“これでもか”と力の差を見せ付けようとする遠藤を、松岡は柔らかく諌めた。
野球は九回まであるにもかかわらず、松岡の目には、遠藤がスタミナ配分を考えているようには映らなかったからだ。
「大丈夫だ。問題ない」
だが、遠藤は松岡の心配を一笑に付した。
このペースがオーバーペースかどうかは、実のところ本人にしかわからない。
ここで遠藤に反論したところで、エースとキャッチャーとの間に亀裂が生まれるだけ。
少なくとも、今は四点差を付けて勝っている。しかも、このまま得点を重ねれば九回を待たずして試合終了になる可能性も高い。
そう考えた松岡は、これ以上の反論を避け、軽く肩をすくめてながら、またホームへと戻っていった。
遠藤は、鳳鳴の観客席を一瞥した。
上品な花柄の傘と、その下にある沙紀の顔が目に止まる。
もちろん、その視線は遠藤の方を向いてはいなかった。
別に、目が合うことを期待したわけではない。
そう思いながらも、遠藤の胸の内には何かモヤモヤした気持ちが残った。
何故なら、沙紀の視線は明らかに山崎の姿を追っていたからだ。
遠藤は、面白くない気持ちを打ち消すかのように、グラブを二度三度と叩いた。
◇
「何やってんのよ……」
「え?」
沙紀の小さな呟きは、すぐ隣にいる地獄耳の東子まで届いた。
なんでもないわよ……と取り繕いながら、沙紀は視線をしょぼくれたようにトボトボとベンチに引き上げてくる山崎に向けた。
子どもの頃から、数え切れないほど山崎の試合を見てきた沙紀。
もちろん、かっこ悪く凡打に終わることはいくらでもあった。山崎の三振を見たのも今回が初めてというわけではない。
だが、こんなにもうなだれて帰ってくる山崎を見るのは初めてだった。
体格に恵まれているはずの山崎の身体が、こじんまりと小さく感じられるほどに。
(らしくないわよ……)
沙紀は、俯いたままベンチへと消えていった山崎に向かってもう一度、もどかしそうに呟いた。
そんな情けない姿なんて――。
山崎の三振を皮切りに、続く五番と六番も三振に倒れ、鳳鳴は一回表に続く三者三振を喫した。
トータルすると、六者連続三振になる。
こんな投手を相手に、どうやって点を取ればいいんだ……?
まだ二回表が終わったばかりだというのに、鳳鳴ナインの顔色からはそんな焦りが色濃く出るに至った。
投打両方における劣勢が決定的になりながらも、試合はまだ続いていく。
二回裏……滝南の攻撃に備え、“りん”たちは、また守備位置に散った。
止みそうな気配を見せず、淡々と降り続く小雨。
空を覆う灰色の雲が、試合の行方を暗示するように、暗くゆっくりと蠢いていた。