第156話 『初回の攻防 (3)』
カウントはワンストライクスリーボール。
投手にとって有利とはいえないカウントを挽回するために放たれた“りん”の渾身のカーブが、鋭く曲がりながら一番バッター・上地の内角高めの胸元を襲う。
だが、得意の内角を待っていた上地は、一塁方向に大きく身体を開いて、その球を力一杯叩きつけた。
金属バット特有の快音とともに、痛烈なゴロになった打球は、一、二塁間を真っ二つに切り裂いていく。
右翼手の倉木がボールをグラブに収める頃には、上地は楽々と一塁に到達していた。
滝南としては、歓迎すべきノーアウトのランナーである。
(ランク“B”ねぇ……)
外したバッティンググローブを尻ポケットにしまいこみながら、上地は皮肉めいた笑みを浮かべた。
その不信感たっぷりの視線の先には、涼しい顔でベンチに座る松岡がいた。
(いいところランク“D”だぜぇ? オレに言わせれば」
確かに制球力があり、変化球のキレも鋭いが、ランクBというにはあまりに力強さがない。
上地の“りん”評は、そのチャランポランな性格の割に意外と的を射ていた。
さてと……と呟きながら、上地は一塁ベース上で屈伸を始めた。
五十メートルを六秒フラットで走ることが出来る上地の、これ見よがしの“これから走るぞ”の意思表示である。
セットポジションに入った“りん”のポニーテールの垂れた背中を見て、上地はジリジリとリードを広げていく。
一メートル……、二メートル……。
ここまでリードを取っても、マウンド上の“りん”からはランナーを気にするような素振りが全くない。
ほくそ笑みながら、さらにすり足でリードを広げようとした瞬間だった。
突然、ポニーテールがクルリと踊り、糸を引くような鋭い牽制球が一塁に飛んだ。
とっさにバックステップで一塁に滑り込む上地。
素人目には同時に見えるほどのきわどさだったが、わずか一瞬……上地の手の方が早かった。
「セーフ!」
一塁塁審の重々しいジャッジング。
思いもかけないクロスプレーに、上地は肝を冷やした。
「あーもぉ! 惜しい!」
「誤審! 誤審!」
鳳鳴側の観客席から騒がしい声が飛ぶ。
ユニフォームについた泥を落としながら、上地は改めてマウンド上の“りん”を見やった。
ファーストから戻されたボールを両手で丁寧にこねる姿は、マウンド上に違和感なく溶け込んでいる。
それは、つい最近ピッチャーにコンバートされたばかりのチームメイトの遠藤よりも、はるかに堂々とした佇まいだった。
(なんなんだよ……あの女は)
つい先ほどまでは『カワイイ』などと軽口を叩いていた上地だったが、あのような牽制球を見せつけられては、もうお気楽に『カワイイ』などとは言っているわけにはいかなかった。
加えて、まるで慣れ親しんだ場所にいるかのような“りん”の立ち振る舞いに、上地は思わず感心のタメ息をもらした。
それは、投手としての豊富な経験を十分に感じさせるもの。
先ほどの見事な牽制も、そういった経験によって培われたものだろう……と、上地は思った。
「上地さん! あの娘、牽制メチャ上手いっすよ!」
一塁コーチャーズボックスに立つ一年生が、泡を喰ったような表情で上地に話しかけた。
上地は、忌々しげに舌打ちしながら
「分かってんだよ!」
と言い返した。
◇
滝南の二番バッターが、右バッターボックスに入ろうとしている。
やはり気負いなどは一切感じられず、代わりににじみ出ているのは“打って当然”と言わんばかりの泰然自若な気配。
打ち取られることなど微塵も考えていないことは一目瞭然だった。
(ちぇっ……ま、簡単に抑えられるとは思っちゃいなかったけどな……)
一番バッター・上地には、会心のカーブをライト前に運ばれた。
内角球を狙い打たれたのは明らかである。
和宏は、打者の読みを次々と外していく大村のリードがなければ滝南打線を抑えるのは相当に難しい……と思わざるを得なかった。
いや、それがあっても抑えられるかどうか。そう思わされてしまうほど優れたバッティングセンス。
そして、後続の打者たちも同等のそれを持ち合わせているに違いない。
(さすが滝南……ってトコか)
“りん”は、苦笑いしながら、ロージンバッグに手を伸ばした。
「りんー! もう一回だよー!」
「そうよ! 次こそやっちゃいなさい!」
思わず突っ込みを入れたくなるような物騒な声。
誰の声か……などと考えるまでもなく東子と沙紀の声だ。
相変らずの能天気さに、和宏は頭を抱えたくなった。
(気楽に言ってくれるぜ……)
リードをさらに広げようとした瞬間の牽制球は、完全にランナーの逆を突き、今までの和宏の経験からすれば、完全に刺せた……と思えたタイミング。
だが、それ以上にランナーの帰塁が俊敏だった。
それは、あくまで相手が油断していたからこそである。
警戒されてしまった今となっては、牽制球で刺すことなど出来っこないだろう。
唯一の成果は、盗塁の気勢を削いだことくらいだった。
三塁側の観客席からは、東子や沙紀たち以外の声援も断続的に聞こえてくる。
非公開の試合とは思えない騒がしさに
(まさか、本当に『出てけ』とか言われないだろうな……)
という不安が和宏の頭をよぎったが、今のところ球場内にそういう動きはなさそうだった。
「プレイ!」
そんな和宏の心配を余所に、主審からプレイ再開のコールがされた。
滝南の二番バッター……背番号“4”が、すでに右バッターボックスで構えている。
“りん”は、マウンド上で屈み込みながら、大村のサインを覗き込んだ。
外角へ、ストライクからボールになるカーブ……という要求だった。
(またボール球からか……)
大村のリードは、基本的にストライク先行型。
しかし、今回も、先ほどの上地に対する配球も、いずれも初球にボール球を持ってきている。
それは、大村が、バッターからの情報を出来るだけ多く得ようとしているからに他ならない。
一打席当たりの球数が多いほど、より多くの情報を得ることが出来る。
だが、それと引き換えに“りん”は体力を削り取られていく。
この試合、九回を投げ抜くことを義務付けられている“りん”にとっては、ジレンマであり、この上ない不安材料だ。
(だけど……こっちは大村クンのいうとおり投げるだけだ!)
“りん”は小さく頷くと、セットポジションから、二盗を警戒してのクイックモーションで一球目を投じた。
◇
バックネット裏の二階席。
生憎の雨にもかかわらず、この観覧室は外界から厚いガラスを経て遮断され、低い稼動音を唸らせた空調が室内温度を快適に保っている。
通常の成人男性よりもさらに背の高いガラスにより確保された視界は、座りながらにしてグラウンドの隅から隅までを見渡せるほど広い。
そんな心地よい空間に、前列二つ、後列に二つのソファが合計四つ。
前列に掛けているのは堂丸と夏美、後列には直子と重彦である。
“りん”が、滝南の二番バッターに投じた初球はボールと判定された。
気密性の高い部屋だけに、グラウンドの音はほとんど入ってこなかったが、主審の怒鳴るような声だけは微かに部屋の中まで響いている。
試合が始まってから、ここまで誰一人として口を開いていなかった。
普段は落ち着きのない夏美ですら、ソファに座ったまま大人しく試合を眺めている。
その表情は、固く思いつめたような表情だった。
“りん”の投げた六球目……乾いた金属音が響いた。
ボールは、一直線にセンターに向って飛んでいく。
あっという間にセンター・広瀬の頭上を越えたボールは、ワンバウンドしてバックスクリーンフェンスに当たった。
打った瞬間にセンターオーバーを確信させる完璧な当たり。
スタートを切っていた一塁ランナー・上地は、全力疾走で三塁を回った後、スピードを緩めながらホームインした。
一番・二番の二人だけで奪い取った、電光石火のような滝南の先取点であった。
「ふふん」
堪えきれずに笑い出したのは重彦だった。
バカにしたような笑い方に、直子は眉をひそめた。
「やはりワンサイドになりそうじゃないか。あの時のように」
誰に話しかけるでもない、重彦の独り言。
だが、それに直子は過敏に反応した。
かつて、今日と同じシチュエーションで戦ったことのある直子は、結果“大差で負けた”。
そのことを揶揄するような言い方は、直子の神経を逆撫でしたからだ。
直子は、わざと視線を逸らしながら下唇を噛み、込み上げる怒りを必死で堪える。
ちょうどその時、大人しく座っていた夏美が口を開いた。
「りん姉は勝つよ」
直子も重彦も、娘の確信めいた口調に驚きを露わにした。
堂丸だけが、顔のシワを深く刻ませながら、ニヤリと笑っていた。
「だって『絶対に勝つ』って約束してくれたもん」
何を言い出すのかと思えば……と言わんばかりに、重彦はまた鼻で笑おうとした。
それをたしなめるように、堂丸が口を挟んだ。
「そうか。約束してくれたのか」
「うん。ちゃんと指切りゲンマンをしたんだ」
「そうかそうか……」
堂丸は、ククッ……と鳩のようにのどを鳴らした。
愉快そうに頷きながら。
愛しい“孫”を見守るように目を細めながら。
およそ年寄りらしくなく、ピンと背筋を伸ばしてソファに掛けた堂丸は、両手で持つ黒杖に力を込めた。
「ならば、しっかりと見届けようではないか」
そう言って、堂丸は重彦と直子を交互に睨みつけた。
濃い人生経験が為せる、見た者を縮みこませるような鋭い眼光。
何かを言いたげだった息子の重彦は不服そうに黙り、直子は感情的になりかけた自分を恥じ入るように下を向いた。
二人が押し黙ったのを確認すると、堂丸は満足げにもう一度口元を緩めながら呟いた。
「“りん姉”の戦いを、“最後まで”……な」
そう言い終わった時、すでに堂丸の視線はマウンドの上で美しく躍動する“りん”に向いていた。
――TO BE CONTINUED