第149話 『決戦前夜・後編 ~ありがとうの代わりに~ (2)』
店じまいをした直後の“のんちゃん堂”。
店主の大吾は、すでに奥に引っ込んでいて、店内に姿は見当たらなかった。
だが、店内は整然と片付けられ、客席テーブルの上には逆さにされた椅子がキレイに乗せられている。
きっと毎日掃除をしているのはのどかに違いないと確信するほど、床にはチリ一つ落ちていなかった。
カウンターテーブルに備え付けられた椅子に座った“りん”の目の前に、白無地の無骨なティーカップが置かれた。
琥珀色をした紅茶の上品な香りが辺りを漂う。
紅茶を淹れ終わったのどかは、エプロンとカチューシャを外して“りん”の隣に座った。
「紅茶……大丈夫だよね?」
「うん。サンキュー」
そう言って、“りん”はカップを口に運んだ。
“りん”の舌を心地よく刺激するまろやかで適度な渋味。
お茶自体が良いのか、それとものどかの淹れ方が良いのか……後味のスッキリした飲み心地の良い紅茶だった。
「で、和宏の『甲子園を目指す理由』って?」
のどかの目が、興味深そうに爛々と輝いている。
その食い付きの良さに、思わず“りん”は苦笑した。
「そ、そんなに大した話でもないんだけどな……」
「別にいいじゃないか。わたしが聞きたいだけなんだから」
「な~んだ、そんな理由か」とガッカリされないように予防線を張ろうとした“りん”であったが、のどかはおかまいなく興味津々の様子だ。
なんか切り出しにくいな……と思いながら、“りん”は照れ隠しのようにポニーテールを弄繰り回した。
とはいえ、それを話したいがために、わざわざここまで来たのだ。
“りん”は、咳払いを一つしてから、覚悟を決めたように話し始めた。
「俺の……“瀬乃江和宏”の母さんはさ、以前から病気がちで、よく入退院を繰り返してたんだ」
ここでいう『母さん』とは、無論“瀬乃江和宏”の母親のことであり、“りん”の母親である“ことみ母さん”のことではない。
もちろん、それはのどかも承知の上であるが、和宏は念のために言い直した。
「でも、俺が高校に入ってからは、特に入院とかすることもなく、ずっと普通の生活をしてた」
“りん”の目が、遠くを見るものに変わっていく。
その瞳の奥には、後悔と、悲しさと、切なさとが同居していた。
「“あの日”……まではね」
「あの……日?」
「その時のこと、今でもハッキリと覚えてるよ」
和宏が“瀬乃江和宏”のままだったら、今頃は高校三年の秋。
今から一年以上前のことになる出来事に、和宏は遠く思いを馳せた。
「あれは俺が高校二年の夏……甲子園の県予選が始まった日だった。俺たちは開会式直後の第一試合を戦って逆転勝ちしたんだ」
「へぇ……すごいじゃないか。“瀬乃江和宏”の高校は強いのかい?」
「“城南高校”っていうんだけどな。そんなに強い学校じゃないよ。でも毎年“もう少し頑張れば甲子園に手が届くのに……”っていうところまで行く、いわゆる中堅どころの学校」
「それでもすごいよね」
和宏は、対してスゴイわけでもないのにスゴイと連発するのどかに苦笑しながら続けた。
「その試合で俺、途中からリリーフして勝利投手になったんだ。高校の公式戦では初めての白星だったから、意気揚々と家に帰ったよ」
「だろうね」
「でも、家には誰もいなかった」
いつもならば、家の電気が煌々と灯り、鼻歌交じりで夕食の準備をする母親がいて、帰るなり「おかえり。試合どうだった?」って話しかけてきただろう。
しかし、その日に限っては、家の中は薄暗いまま。
いつも仕事で帰りの遅い父親はもちろんのこと、家で待っているはずの母親の姿もなかった。
「何が何だかわからなくて、家の中で途方にくれていたら、電話がかかってきたんだ」
「……誰から?」
「親父。ボソッと一言。『城南病院の五〇三号室に母さんと一緒にいる。タクシーを使って今すぐ来い』ってね」
のどかは、“りん”の隣で、たまに合いの手を入れながら静かに聞き入っている。
変に相槌を入れられるより話しやすい……そんなことを思いながら、和宏は話を進めていった。
「いつもぶっきらぼうな親父が、この時は殊更にぶっきらぼうだった。すごくイヤな予感がして、言われたとおりタクシーで病院に直行したよ」
学校から帰ってきた時のままの制服姿で飛び乗ったタクシー。
太陽が沈んだ地平線辺りに残る夕焼けは美しい茜色だったが、その時の和宏にとっては別の世界の出来事のように現実感の乏しい風景に感じられた。
タクシーの車窓を流れる見慣れない景色も、まるで銀幕に映し出された陳腐な三流映画のように、何一つ心に留まることなく通り過ぎていく。
病院の玄関にタクシーが到着した時、すでに完全に陽の落ちた夜になっていた。
「恐る恐る病室に入っていくと、母さんがベッドに寝てて、枕元に親父が立っていて、医者や看護婦が四、五人で取り囲んでて……なんか物々しい雰囲気だった」
そして、和宏は一度言葉を切った。
店内の時計の針が差しているのは、午後九時過ぎ……十五分ちょうど。
店の奥から大吾のものと思しきイビキが聞こえる以外は、耳が痛くなるほど静かだった。
のどかが淹れた紅茶からは、まだかすかに湯気が立っている。
“りん”は、そっとカップを口に運び、口の中を潤してからさらに続けた。
「病室に入るなり、親父が『コッチに来て母さんと話をしろ』って言ったんだ。それで、母さんのそばに近づいてみた」
胸が張り裂けそうなほどの悪い予感。
和宏の中で漠然としていたその予感は、母親の姿を目の当たりにして確信に変わった。
ドラマで見るような、口元全てを覆う酸素マスク。
土気色をした顔と、もう開かれていない瞳。
「もうすぐ母さんは死んでしまうんだ……って思った。だから親父は会話しろって言ったんだって」
もう最後だから、何か母さんに言葉をかけてやれ。
おそらくはそういう意味。
朴訥で口下手な父親なりの優しさが込められた、精一杯の表現だったのだろう。
「だけど、何かを話せって言われても、あまりに突然のことで頭が真っ白になっちゃってもう……何を話していいのかわからなくてさ」
“りん”の隣に座っているのどかが、二度三度と頷きながら先を促す。
少しばかり言いにくそうに……“りん”は続けた。
「それで、その……つい、こう言っちゃったんだよ」
「……?」
「『今日、勝ったよ。勝利投手になったんだ。大丈夫だよ。必ず甲子園に行くから』って」
のどかの目が丸くなった。
反応を窺っていた和宏は、その表情の変化を見逃さなかった。
「じ、自分でもわかってるよ、ヘンなこと言っちゃったってことくらい。ただ、いつも母さんは試合のあった日は結果を聞いてくれてたから、その流れでつい……」
「べ、別にヘンとは言ってないじゃないか……」
「でも、そんな目してたぞ?」
「し、してないってば!」
完全に水掛け論の領域である。
実際のところ『なんでこんなことを言ってしまったのか』……という“負い目”を感じている和宏にとって、ほとんど被害妄想に近いモノがあったが、これ以上言っても仕方がないと悟ったのか、和宏は話を切り替えて進めた。
「まぁ、その時はそれしか言えなかったんだ。でもさ……」
「……でも?」
「一瞬だけ、母さんの顔が笑ったような気がしたんだ」
酸素マスクに覆われていた口元が緩んだような。
力なく閉じていた目が、わずかに開いたような。
もちろん、和宏の気のせいだったかもしれないが、和宏にとってはそれが真実だ。
「それから五分としないで母さんは死んだ。医者が死亡時間を読み上げた時の、感情の篭ってない口調が未だに耳に残ってる」
「……」
「後は、通夜とか葬式とか……あっという間だったよ。なんだかわからないうちにどんどん儀式が終わっていって、最後に火葬されて」
普段、交流のない親族たち。
父親の会社の同僚であろう大人たち。
次々に現れる参列者たちに、ただひたすら頭を下げていく。
その時の和宏にとっては、それで精一杯だった。
「全部終わって、母さんのいない日常が始まって……その時に気付いたんだ」
「何に?」
「“ありがとう”……って言っていなかったことに」
“りん”は、のんちゃん堂の天井を見上げながら、どこかタメ息に似た息を吐いた。
店内に明かりを提供する円形の蛍光灯を直視しては、目を細める。
どこか物憂げな瞳だった。
「何か他に言うべきことがあったんじゃないかって……ずっと引っかかってた。母さんがいるのが当たり前過ぎて気付かなかったんだよ。本当は、一番最初に言うべき言葉だったってことにさ」
野球をやりたい、と母親に打ち明けた小学四年生の時のこと。
母親に連れられて、皮のグラブと金属バットを買いに行ったこと。
試合があった日は、必ず結果を聞いてくれたこと。
勝ったことを伝えると、我が事のように大喜びしてくれたこと。
ユニフォームを見て、「大きくなったねぇ」と嬉しそうに笑いながら洗濯してくれたこと。
どれも皆、和宏の中にある大切な母親の思い出だ。
「でも、母さんは……もう、いない。もう、伝えることも出来ない。しょうがないって諦めれば済む話かもしれないけどさ……」
「諦められなかった……?」
のどかの問いかけに、和宏は大きく頷いた。
「だってさ……伝えるチャンスはあったんだよ。間違いなくあったんだ」
“りん”は、何かに腹を立てたかのように語気を強める。
シンと静まり返った店内では、それはとりわけ大きく響いた。
ティーカップの中の紅茶は、“りん”の手元にあって、もう冷めていた。
それでも構わず、“りん”は一気に飲み干した。
渋みの増した味が、今の気分にマッチしているような気がした。
「だから……かい?」
“りん”は、天井を見上げたまま。
のどかは、付き合うように天井を見上げた。
「うん。母さんにとっては約束でもなんでもないだろうけどさ。俺は母さんと約束した……って思ってるよ」
だから和宏は、その約束を果たしたい……と思ったのだ。
“甲子園に行く”という約束を。
言えなかった“ありがとう”の代わりに――。
相変らず聞こえてくる大吾のイビキ。
それ以外は、静寂。
のどかの座る椅子がキィという金属の擦れる音を立てた。
“りん”がのどかの方に視線を向けると、そこには“りん”の顔を真剣なまなざしで見つめるのどかがいた。
「やっぱりすごいね、和宏は」
「……へ! な、何が……?」
「何も考えていないようで、ちゃんと考えてるし、何もわかっていないようで、一番大切なことをわかってるから」
「そ、それ、貶してんのか? 褒めてんのか?」
「あはは。もちろん褒めてるのさ」
声を出して笑いながら、のどかは嬉しそうに目を細めていた。
のどかの笑顔は、和宏をホッとさせる。
やっぱり話して良かったな……と思いながら、和宏も一緒になって笑った。
「言い忘れてたけど、明日の試合……わたしも応援に行くからね」
「……えっ? 店は?」
「お父さんに相談したら『絶対に応援行け!』って」
そう言って、店の奥……イビキの聞こえる方に視線を送るのどか。
何故か、その瞬間だけ照れたように大吾のイビキが止まったのが不思議で、和宏たちはまた笑った。
午後九時半きっかりに、時計から「カチッ」という小さな装置音が静かな店内に響いた。
のんちゃん堂から“りん”の家まで、走って帰ったとしても十五分弱はかかるだろう。
いい加減に帰らないと明日に響く……そう思った和宏は、おもむろに立ち上がった。
「じゃ、そろそろ帰るよ。随分遅くまで邪魔しちゃったからさ」
「大丈夫かい? 車で送ろうか?」
のどかは、心配げに眉を曇らせる。
「心配ないよ。もともと走って帰るつもりだったし。わざわざ大吾さんを起こすのもかわいそうだろ?」
“りん”は安心させるように言いながら、店の玄関の戸を開けた。
秋夜の風は、温もった肌を心地よく冷やしていく。
フワリと店内に吹き込んだ風は、“りん”のポニーテールとのどかの髪の毛をサワサワと揺らした。
「じゃ、明日……な」
「待って、和宏」
“りん”が右手を上げながら、走り出そうとした時だった。
呼び止めたのどかの顔を、“りん”は小首を傾げながら見た。
「今日の話……どうしてわたしに話してくれたんだい?」
入ってくる風が、のどかの外ハネした髪を小刻みに揺らす。
上気したように、頬がほんのりと赤く染まっていた。
「……言われてみたら……どうしてだろ? 多分、誰かに……いや、のどかに聞いて欲しかった、のかな」
今までに、誰にも話したことのないこと。
それを今日、のどかに話して、肩の荷が少し下りたようにスッキリした気分になったことは事実だった。
きっと、誰かに聞いてもらいたいという思いが、以前から和宏の中にあったのだろう。
そして、それが出来る相手は、この世界に一人しかいない……という思いも。
“りん”の返事に、のどかは少し照れたような笑みを浮かべた。
だが、満足げな、心底嬉しそうな笑顔だった。
「明日……絶対に勝とうね」
「もちろん!」
元気な返事とともに、“りん”はポニーテールを威勢よく弾ませながら走っていく。
次第に暗闇に溶けていくその後姿を、のどかは見えなくなるまで見つめ続けた。
明日の試合にかける和宏の思い。
同じように、夏美の思いも、直子の思いも、山崎の思いも、大村の思いも。
その全てを包み込んで、決戦前夜は静かに更けていった。