第148話 『決戦前夜・後編 ~ありがとうの代わりに~ (1)』
“りん”の家から歩いて五分ほどのところにある総合運動競技場の周辺は、夕方の時間帯にはジョギングを嗜む老若男女が多数行き交う。
それぞれの走力に合わせ、ゆっくりと走る者、前を行く走者を次々に追い抜いていく者。
“りん”は、毎日その中をマイペースで走り、沙紀たちが思わず呆れるほどの距離を、汗だくになりながら走り込んだ。
今度の試合で“りん”が必要としているのは“一試合を完投出来るだけの体力”である。
だが、それは一朝一夕に手に入るものではない。
当然のことながら、わずか一ヶ月では出来ることが限られてしまう。
だから、和宏は、目的を“下半身の強化”に絞って集中的に鍛えたのだ。
一ヶ月間の過酷なトレーニングを乗り切った“りん”は、多少の距離を走っても息が乱れぬほどの体力を手に入れた。
あとは、一試合九回を投げ切ることが出来るかどうか。
こればかりは、やってみないとわからない。
とはいえ、少なくとも“やれるだけのことはやった”という開き直りの素が和宏に与えられたのは間違いないだろう。
いよいよ明日に迫った“滝南”との練習試合。
当初、試合の前日は身体を休める予定だった。
しかし、日もとっぷり暮れた月夜に……“りん”は息を弾ませ走っていた。
“りん”の家から一路西へ。
時間は、すでに午後八時を回っている。
こんな時間に外出など、いつもは能天気な“りん”の母親・ことみも、さすがに心配そうな顔をしたが『カレシとちょっと』と言ったら、手の平を返したように嬉しそうな顔で『いってらっしゃ~い♪』……ときた。
母親としてどうなの? ……と和宏は苦笑したが、簡単に家を出ることが出来たのは幸いだった。
ようやく見えてきた目的地の明かり。
“りん”は、足を止め深く息を吐いた。
のどかの家……“のんちゃん堂”の建物の前で。
店の中にはまだ明かりが灯っているが、暖簾は店内にしまいこまれ、すでに閉店していることを雄弁に物語っている。
のどかはまだ店内にいるかな? ……そう呟きなら、ゆっくりと店の入り口に近づこうとした時だった。
(……あっ)
“りん”は、思わず声ならぬ声を上げた。
のんちゃん堂の建物は、道路に面して店の入り口があり、その入り口に向かって西側に自宅用の玄関が別にある。
オレンジ色のほのかな玄関灯の下、見覚えのある小さな人影を見つけたからだ。
メイドエプロンとカチューシャをしたまま、しゃがみこんでいる少女の姿。
間違いなくのどかであろう人影だった。
声をかけるために近づこうとした時、そののどかの頼りなげな背中が小刻みに震えていることに和宏は気付いた。
(なんだ……?)
のどかの様子に困惑しながら、“りん”は立ち止まった。
同時に“りん”の背後の道路を、大型トラックが騒音を響かせて通り過ぎていく。
その音を気にしたのか、“りん”の気配に気付いたのか……のどかがふと振り向くと、一瞬だけヘッドライトに照らされたその瞳に、間違いなく涙が浮かんでいることに和宏は気付いた。
「かっ、和宏……っ!?」
のどかは、慌てて顔を背けると、服の袖でグリグリと涙を拭った。
もちろん、泣いているのを隠そうとしたのだが、今となってはもう後の祭りだ。
“りん”は、ゆっくりとのどかに近づいていった。
しゃがみこんでいるのどかの背後から、肩越しにのどかの手元を窺う。
そこには、丸くなった猫が、のどかの両腕に大切そうに包まれていた。
お世辞にもキレイとはいえない毛並みの茶色い三毛猫。
だが、その猫は目を閉じたままピクリとも動いていなかった。
「死んでる……のか?」
「……うん」
のどかは、振り返ることなく沈んだ声で答えた。
「猫、飼ってたっけ?」
「ううん。ウチ、飲食店だから飼ってないよ。ただ、いつも遊びに来てくれるからエサをあげてただけ……」
「そっ……か」
しばしの静寂。
たまに思い出したように通り過ぎて行く車が騒音をばら撒き、また辺りは静寂に包まれる……の繰り返し。
そんな中、のどかは手元においてあった小さなスコップで、地面に穴を堀り始めた。
無論、この猫を埋葬するための穴だ。
ザクッザクッという土を掘る音が、静寂な空間に響く。
しかし、片手で猫を抱いているため、なかなか上手く掘ることが出来ないでいる。
見かねた“りん”は、のどかの隣にしゃがみ込んだ。
「俺がやるよ。のどかはその猫を抱いてな」
そう言って、のどかからスコップを優しく奪い取ると、薄暗い玄関灯の淡い明かりを頼りにザクリザクリと勢いよく地面に突き入れていく。
「あ、ありがと……」
“りん”が土を掘り起こすたびに次第に大きくなっていく穴。
のどかは、言われたとおり、丸くなった猫を両腕で抱え込んだ。
そして、その冷たくなった躯を大切そうに抱きながら、一生懸命に穴を掘る“りん”を見つめた。
「よし。こんなもんでいいかな」
あっという間に、優に猫が納まりそうな大きな穴が掘り上がった。
のどかがその中に猫を納めると、今度は二人一緒に土を埋めていく。
次第に塞がっていく穴を見つめながら、のどかは静かにしゃべり始めた。
「わたしね……ここに引っ越してきてしばらく、友だちが一人もいなかったんだ」
「……」
「結構毎日が寂しくてさ。そんな時、この子が家の近くに顔を出してくれるようになったんだよ」
「野良猫……?」
「多分、ね。でも、ものすごく人懐っこかったよ」
のどかの瞳は“その頃”を思い出しているかのように、どこか遠くを見つめている。
猫の姿は、次第に土に隠れて見えなくなろうとしていた。
「毎日毎日ここに来てさ、エサを食べた後もずっとそばに寄り添ってくれたんだ。まるで、わたしを元気付けようとしているみたいに」
そう言って、のどかは言葉を切った。
さっき“りん”が掘った土を、ひたすら元に戻す……そんな作業を黙々と続ける二人。
やがて、穴は完全に埋められて塞がった。
少し盛り上がった土の上に木の枝を墓標に立てて、小さな花を一輪添える。
ピンク色をした秋桜の花を。
「ごめんね。この程度しかしてあげられないけど……」
慈しみの感情が、和宏にも伝わってくるようだった。
きっとのどかにとっては大切な存在だったのだと……それがハッキリとわかるほどに。
のどかが、目を伏せて手を合わせた。
“りん”も、慌ててそれに倣う。
ひと時の静寂の中、のどかの囁き声が“りん”の耳にかすかに届いた。
生まれ変わったら、また会いに来てね――。
二人が手を合わせてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
また、のんちゃん堂の前を車が通り過ぎ、そのライトが周囲を照らしていく。
のどかは、我に返ったように顔を上げた。
「ごめん、和宏。ヘンなことにつき合わせちゃって」
「いや、いいよ。別にヘンなことじゃないと思うし」
“りん”の台詞に、のどかが嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう……和宏」
のどかの大きな瞳が、真っ直ぐに“りん”を捉えている。
玄関灯の明かりに、うっすらと照らされたのどかの肌は白く美しかった。
その幻想的な雰囲気が、また和宏の気持ちを高鳴らせていく。
何度“のどかの中身は男なのだ”と言い聞かせても、この胸の高鳴りを抑えることが出来ない。
“りん”は、それを振り払うかのようにのどかからプイと目線を外した。
「そ、それよりさ……」
「……?」
「生まれ変わりとか……のどかは信じてるのか?」
のどかは、その大きな瞳をパチクリとさせた。
そして、そのままバツが悪そうに苦笑いしながら答えた。
「別に信じてるってワケじゃないけどさ。でも、悲しいじゃないか」
「……何が?」
「死んじゃったらもう二度と会えないなんて思っちゃうとね……」
そう言いながら、のどかは夜空を見上げた。
その瞳には、わずかばかりの悲しみの色が混じっている。
満月まであと少し……夜空には、真円を少しだけ歪ませた月が浮かんでいた。
「生まれ変われたら、また会えるかもしれないだろう? いつかどこかで……さ」
だから、そう信じたい……ということだろう。
和宏は、のどかの顔を見ながら、そう解釈した。
夜空を見上げる、悲しみを堪えた切なげな瞳。
ここではない、どこか遠くを見つめる瞳。
だが、その瞳の奥底に、妙な違和感が見え隠れすることに和宏は気付いた。
(なんだ? どこを……、誰を見てるんだ……?)
ザワザワとかきたてられた不安感が、和宏の中に侵食するように込み上げてくる。
その視線の先にあるものがわからない。
その胸の内に、誰の姿を思い浮かべた瞳なのかが。
のどかの正体は、のどかの兄“久保悠人”。それを知ってもなお……俺はまだ、本当ののどかのことを知らないのではないか。
そんな考えすら、和宏の頭の中に浮かんでくる。
無論、その答えを、今の和宏が知る由もない。
「ところで……こんな時間にどうしたんだい? 明日は試合だろう?」
和宏は、のどかの言葉によって急に現実に引き戻された。
時間はもうすぐ午後九時になろうとしている。
確かに“こんな時間にどうした”と言われても仕方のない時間だった。
“りん”は、“もともとここに来た理由”を思い出しながら苦笑した。
「タハハ。ちょっと思い立ってね……“そのこと”で来たんだ」
「そのこと?」
「やっぱり試合の前に、のどかには話しておこうと思って」
「……何を?」
首を傾げるのどか。
“りん”は、少しばかり照れたように、はにかみながら答えた。
「俺が甲子園を目指している理由を……さ」
――TO BE CONTINUED