第147話 『決戦前夜・前編 ~理由~ (2)』
沙紀と東子が“りん”の家を訪ねるのは、実は四回目である。
一回目は、一学期の中間テスト前の勉強をするために。(第50話参照)
二回目は、“りん”のデートの事前工作として、“りん”の母親であることみを篭絡するために。
そして、三回目は、“りん”のデートの当日にお召かしさせるために。(第118話参照)
であるからして、沙紀と東子にとっては、“りん”の家はもはや勝手知ったるモノだった。
時間は午後五時半ちょうど。
夕暮れ時。地平線の向こうに隠れようとしている夕陽が、弱々しく辺りを照らし、周囲の家々は、ポツリポツリと窓に明かりが灯り始めている。
だが、“りん”の家の窓からは全く明かりがもれていない。点灯しているのは、玄関の電灯だけだ。
沙紀は、門柱に設置されているインターホンのボタンを押した。
ピンポーン……というお馴染みの音色が家の中から玄関前まで響いたが、誰かが出てくる気配は全くなく、“りん”の家はひっそりと静まり返っていた。
「誰もいないみたいだね」
「おっかしいわね……どこに行ってるのかしら。りんってば」
「おばさまもまだ帰ってきてないみたいだしっ」
肝心の“りん”は不在。おまけに母親のことみは、もう帰ってきていてもおかしくない時間帯にもかかわらず、今日に限ってはまだのようだ。
次第に薄暗くなってきた空を見上げながら、東子がタメ息交じりに小さく呟いた。
「どうしよう?」
このまま家の前で“りん”を待つか。
あるいは明日にでも出直すか、だ。
沙紀も、腕組みをしながら、途方にくれたように首を傾げた。
その時だった。
「あ……、あれ、りんじゃないかな?」
のどかが、通りの向こうから近づいてくる人影を指差した。
沈みかけの夕陽を背負った黒いシルエット。
その左右にゆらゆらと揺れるポニーテールを見れば、その人影が“りん”であることは一目瞭然だった。
「ホントだ。りんだ!」
東子が、いつものアニメ声を上げながら、嬉しそうにぴょんと飛び跳ねた。
水色のジャージを着た人影が、真っ直ぐに三人に近づいてくる。
そして、沙紀たちの姿には気付いたものの、それを気にする余裕もない……という感じで、三人の目の前で両手を膝に当てて屈みこんだ。
ぜぇ……ぜぇ……という激しい息切れが、沙紀たちの耳にハッキリと届いた。
「ちょっと……大丈夫? りん」
そのままの姿勢で、右手だけをヒョイと上げて「ちょっと待って」のジェスチャー。
息切れのせいで、普通にしゃべることすら困難だったからだ。
“りん”の額から、幾筋もの汗が流れ落ちていく。
“滝のような汗”という言葉が決して大げさではないと断言できるほどの汗が“りん”の顔中に浮かんでいた。
「ど、どうしたの? すごい汗……」
沙紀がびっくりしたような声を上げた。
もうすぐ十月も終わる。
秋の気配の深まりと同時に、肌寒さが増してくる季節。
その中でも、特に今日は素肌に触れる空気が冷たく感じられた。
にもかかわらず、この大量の汗である。
これは、ちょっとその辺をジョギングしてきました……というレベルのものではない。
少しずつ収まってきた“りん”の呼吸。
“りん”は、もう一度深呼吸をしてから、ようやく答えた。
「ちょっとね。ずっと走ってたから……」
“りん”は、そう言いながら、右手で汗を拭った。
零れ落ちた汗が、アスファルトの地面に黒いシミを作っていく。
「ずっと、って……学校終わってから今までっ?」
東子の問いに、“りん”は無言で頷いた。
「あっきれた! 三時過ぎに学校終わって、今五時半よ? 二時間以上走りっぱなし?」
「まぁね」
心底呆れた……そんな感じで、口をアングリさせる沙紀と東子。
そんな二人をクスリと笑いながら、“りん”は三人を見た。
「ところで、どうしたんだよ。こんなところで。のどかまで、さ」
“りん”は、家まで押しかけてきた三人に、そう言い放った。
「アンタねぇ、みんなアンタを心配して見に来たんでしょうが」
沙紀は、いたって呑気な“りん”に向かって、呆れたように言い返した。
「し、心配って……何を?」
「もう! 最近りんの様子がおかしいねって、みんなで話してたのっ!」
東子は東子で頬っぺたを膨らませてプンプンしている。
もちろん、察しの悪い“りん”に腹を立てているのは明らかだった。
「一体、何があるんだい?」
「な、何……って?」
「そんなになるまで走っているってことは、何か理由があるんだろう?」
のどかの質問が、核心を衝いた。
“りん”は、三人の顔を順番に見回した。
そのいずれもが、冗談で誤魔化せそうもない真剣な顔つき。
例の“滝南”との試合の件は、基本的に他言無用となっている。
故に“りん”は、他のクラスメートたちはもちろんのこと、沙紀や東子……のどかにすら話していなかった。
だが、家にまで来て、汗だくでトレーニングをしている姿を見られては、これ以上隠し通すのはムリそうだ……と、和宏は思った。
(まぁ……いいか)
和宏は、本来楽観主義者だ。
この三人になら、正直に話しても大丈夫だろう……そんなことを考えながら、“りん”は観念したようにしゃべり始めた。
◇
東子は、呆気にとられたような顔をしている。
沙紀は、眉をひそめて怪訝な顔をしている。
のどかは……といえば、“りん”の顔を不思議そうに眺めていた。
「ということは、その“滝南”との試合に勝ったら“甲子園に行ける”……ってこと?」
「いやいやいや。夏の“甲子園予選に参加できる”んだってば」
「ま、どっちでもいいじゃないっ♪」
(どっちでもよくはねぇだろ……)
“甲子園に行ける”と“甲子園予選に参加できる”では天と地ほど違うのだが、沙紀と東子はピンと来ていない様子だった。
二人とも、野球にはあまり興味を持たない普通の女子なのだからムリもない話しではあるが。
「でも、その話……本当かい?」
のどかは冷静に言い放つ。
常識外れの話……むしろ、そう思うのが当然だった。
「そこは正直わからないけどさ。でも、直子さんは信頼できそうな人だし、とりあえず信じてみようと思うんだ」
ふーん……と唸りながら、のどかは二度三度と頷いた。
その時、沙紀が一際大きく唸った。
「そういうこと……だったワケね……」
呆れたように大きなタメ息をついた沙紀の眉間には、苦笑いとともにシワが寄っていた。
「もう……バカ。野球バカ。アンタ“たち”野球バカよ、本当に」
「たち……?」
“りん”は、思わず首を傾げた。
「アンタと山崎のことよ、ヤ・マ・サ・キ・!」
「山崎~……?」
突然出てきた名前に、今度は“りん”の方が呆気にとられたような表情になった。
「とりあえず、その試合ってかなり大切な試合なワケよね?」
「そ、そうだけど……?」
「山崎はね……そんな試合の前は、決まって顔が引き締まるの。“マジ顔”っていうのかしら。普段はチャラチャラへらへらしてるクセに」
へぇ……と、“りん”だけでなく、東子ものどかも感心したような声を上げた。
「昔っからそうなの! もう完全に野球バカなんだから」
そう言って、沙紀は深く溜め息をついた。
さすがは幼馴染である。
山崎のそういう表情までは気付いていなかった和宏は、素直に感心した。
「しょうがないから、応援してあげるわよ」
「え?」
「当日、応援に行ってあげるって言ってるの!」
「じゃあアタシも行く~♪」
思わぬ沙紀と東子の申し出に、和宏は困惑した。
何しろ、校長が全校挙げての応援をしようとして、直子がピシャリと断ったほどの、言わば非公開の試合なのだ。
しかし、滝南のグラウンドで試合をする以上、完全に外部の目をシャットアウトするのは不可能であるし、最悪の場合は栞の助け舟でベンチに入れてもらうという手もある。
ニ、三人程度なら、無下に追い払われることもないだろう。
しょうがねぇなぁ……と小さく呟きながらも、“りん”の頬がわずかに緩んだ。
わざわざ休日に応援に来てくれるというのだから、少なくとも悪い気分ではなかった。
「のどかはどうする?」
「え……わ、わたし?」
人差し指で自分の鼻先を指差すのどかを見て、沙紀と東子がゆっくりと頷く。
「ど、どうかな、お店があるから……。一応お父さんに確認してみるけど」
“のんちゃん堂”は、土日であろうと開店する。となれば、のどかもまたウェイトレスとして店に出なくてはならない。
のどかは、申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「まぁ、いいじゃない。もしのどかが来れなくても、私たちがその分応援してあげるわよ」
「そうそう。妨害工作も承るしっ」
そう言いながら、東子は明るい声で笑った。
なんとなく冗談に聞こえなかった和宏は、「とりあえず止めとけよな」という一言に留めた。
あまり「やるなよ。やるなよ」と連呼したら、ネタ振りと勘違いして、逆に東子はやりかねん……と思ったからだ。
「じゃ、ギモンも晴れてスッキリしたところで帰ろっか?」
「そうね。明日も学校だし」
秋の夕暮れ時は短い。
つい先ほどまでは、まだわずかに顔を見せていた夕陽もすでに沈み、辺りは夕闇に包まれようとしていた。
「じゃあね、りん。試合前に怪我なんかしないように気をつけなさいよ!」
アンタ、そそっかしいんだから……などと、いかにも沙紀らしい台詞を吐きながら、沙紀と東子は鞄を肩に掛け直し、元来た道を小走りで戻っていく。
ふと振り返った東子が叫んだ。
「何してるの、のどか! 早く行こう!」
何故かのどかは“りん”の傍らに立ち止まったまま。
右手を上げ、おいでおいでをするように手を振る東子に、のどかは視線を“りん”にチラリと向けてから東子たちに叫び返した。
「先に行ってて! すぐ行くから!」
沙紀は、ちょっと疑問の色を表情に浮かべながらも「早く来なさいよ!」と言い残して、のどかが来るのを待つかのようにゆっくりと歩き始めた。
そして、顔に疑問の色を浮かべたのは“りん”も同じだった。
「どうしたんだ? のどか」
「うん。ちょっと和宏に聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
そう言って小首をひねった“りん”を、背の低いのどかは真っ直ぐに見上げた。
“りん”の顔が映りこんだ大きなその瞳は、相変らず吸い込まれそうなほど澄んだ瞳だった。
「和宏は……どうしてそんなに甲子園にこだわっているんだい?」
唐突……かつ素朴な質問。
それだけに、和宏は目を大きく見開いたまま、とっさに答えることが出来なかった。
「あれ? わたし、何かヘンなこと聞いちゃったかな?」
のどかは、子猫のように肩をすくめた。
ただでさえ小さなのどかの身体が、申し訳なさそうにますます小さくなる。
「いやいやいや、そんなことないけどさ。ただ、そんなこと面と向かって聞かれたの初めてだな~……って思っただけだよ」
「そうなのかい?」
「だってさ、俺、もともと瀬乃江和宏として普通に野球部だったんだぜ? 高校野球やってる奴に『どうして甲子園にいきたいんだ?』なんて聞くヤツいないだろ……当たり前過ぎてさ」
和宏の説明に、のどかは合点がいったように「あぁ……」と頷いた。
「そうか。山男に『どうして山に登るのか?』って聞くのと同じだね」
それは微妙……と苦笑いした和宏だったが、のどかは構わず何度も頷いていた。
「ごめん、ヘンなこと聞いて」
「い、いや……そんなことないよ」
「じゃ、東子たちが待ってるから……行くね」
「ああ……気をつけてな」
「うん。また明日!」
そう言って、のどかは東子たちの元へ駆け出していった。
手を振るのどかたちに、“りん”もまた手を振り返す。
やがて、三人の姿は夕闇の中に消えた。
相変らずのどかはスルドイな……と和宏は思った。
のどかのいうとおり、和宏は甲子園へのこだわりを……簡単に諦めるわけにはいかない思いを持っている。
だが、和宏は、その理由を胸の内に秘めたまま、誰にも話したことはない。
「甲子園を目指す理由……か」
“りん”は、三人の姿の消えた曲がり角をボンヤリと見つめながら呟いた。