第144話 『甲子園への道 (5)』
直子の言う“この試合を行うための条件”……それは“りん”に過酷な役割を求めるものだった。
「先発投手は萱坂りんさん、貴女が勤めること。途中交代は認めません」
(――っ!)
和宏は、声ならぬ声を上げた。
途中交代を認めない……ということは、一試合九回を一人で投げきらなくてはならないということだ。
つまり、途中で身体が限界に達して、投げることが出来なくなれば、そこで試合は終了である。
果たして、りんの体力が持つのか?
しかも、あの名門“滝南”の一軍を相手に?
不安要素は、いくらでも和宏の頭の中に浮かんでくる。
だが、“りん”を見る直子の視線は、先ほどまでの柔らかな視線とはうって変わって、射抜くような鋭さだった。
「いかがですか?」
直子は、畳み掛けるように……静かに返答を迫った。
今、鳳鳴高校の校長室にいるのは五人のみ。
山崎と“りん”の他、校長、野球部監督の山本……そして、滝南の副監督である直子。
皆、固唾を呑んで、山崎と“りん”の返事を待っている。
山崎が、助けを求めるように、腕組みをしたまま事態を見守っている山本を見た。
野球部の監督である山本ではあるが、この時ばかりは首を振り、顎をしゃくるジェスチャーで答えた。
すなわち“主将であるお前が決めろ”……である。
すでに山本はこの話を聞いていたのであろう。
そして、結論は生徒に出させるということになっていたに違いない。
極度に混乱しながらも、山崎はそう受け取った。
鳳鳴高校野球部としては、大きなメリットと意義のある試合である。
練習試合とはいえ、滝南の一軍と試合が出来るのだから、今後に向けた貴重な経験を得る事も出来るだろう。
しかも、今度はハッキリと『一軍が相手』と明言されているため、前回のようなぬか喜びの心配もない。
だが、問題は最後の条件だった。
『先発ピッチャーは萱坂りんさん、貴女が勤めること。途中交代は認めません』
先の練習試合で負ったエース御厨の怪我(第98話参照)が、まだ完治していない上に、“滝南”の一軍に対して、一年生の控えピッチャーでは明らかに荷が重い。
鳳鳴高校野球部にとっては、“りん”が参戦してくれた方がむしろありがたい状態だといえる。
しかし、“りん”は野球部に所属していない。しかも女子。おまけに九回を一人で投げきらなくてはならないという厳しい条件縛りつき。
それでも“りん”が『ハイ』と言うかどうか。それが最後の焦点だった。
山崎は、隣に身を固くして座る“りん”に視線を投げた。
――どうする? やるか?
そういう問いかけの込められた視線が、程なく“りん”に伝わったことを山崎は確信した。
次の瞬間には、“りん”が力強く頷いていたからだ。
「やります」
もちろん、“りん”がそう答えた以上、山崎が断る理由は全くない。
鳳鳴高校野球部の主将として、山崎もまた力強く頷いた。
「こちらも構いません」
“りん”と山崎の真剣な表情とその答えに、直子は満足げに頷いた。
「わかりました。快諾に感謝します」
そう言って頭を下げた直子からは、先ほどの事務的な表情は失せ、代わりに柔らかな笑みが戻っていた。
ここに、鳳鳴高校と滝川南高校との練習試合の開催が成立した。
甲子園とは無縁の鳳鳴高校にとって、甲子園常連である滝南の一軍との練習試合など一種の珍事と言って差し支えない。
話の成り行きを見守っていた校長は、年相応のシワが刻まれた満面の笑みを浮かべながら、この快挙に手を叩いた。
「いや~、素晴らしい。あの滝南の一軍と練習試合が出来るとは。当日はぜひ我が校の応援団を……」
「申し訳ありませんが、今回の試合は諸事情により非公開とさせていただきたいのですが……」
直子によって、校長の提案は瞬時に拒否された。
満面の笑みがいきなりシュンとしおれてしまった校長を見て、山崎と“りん”はクスリと笑った。
「そ、そうですか……それは残念。でも試合が出来るだけでも良い経験になるでしょうから、山崎くんに萱坂さん、ベストを尽くしてきてください」
山崎は、言われるまでもない……とばかりに元気に返事をした。
いつになく気合の入った表情である。
今のスイッチの入った山崎なら、例え手加減をしろと命令されても全力を尽くすだろう。
そんな山崎を見た山本は、監督らしく満足げに頷いていた。
「では、最後に萱坂さんとお話をさせていただきたいのですが……」
そう校長に申し出た直子の態度は、あくまで控えめだった、
暗に人払いを申し出たのと同義だったからだ。
だが、校長は特に気にするでもなく、にこやかに答えた。
「もちろん構いませんよ」
校長は、至って上機嫌な表情で山本と山崎に退室を促した。
二人が退室し、パタンと閉まったドア。
人数が少なくなり、幾分静けさを取り戻した校長室を見渡した校長は、続いて自身もドアのノブに手をかけた。
「では私も席を外しましょう。女性同士の話に男がいては無粋でしょうからね」
そう言って、校長は笑いながらドアを閉めた。
“りん”と直子は、向かい合ったまま二人きり。
締め切った窓から、外のグラウンドに響き渡る運動部の掛け声が微かにもれ聞こえてくる以外は、物音一つなく、しんと静まり返った校長室。
“りん”は、山崎の座っていた隣をチラリと見た。
そこには、えんじ色をした野球部の帽子が無造作に置いてある。
間違いなく山崎のものであろう帽子だった。
(アイツ、忘れていったな……)
後で届けてやるか……と思いながら、“りん”は、それを引き寄せて膝の上に置いた。
◇
「それじゃ山崎、先にグラウンドに行っててくれ。俺も後から行く」
「了解ッス」
山崎は、そう答えながら、職員室の自分の席に戻っていく山本の後姿を見送った。
滝南との試合が決まって気合が入ったのは山崎だけではなく、校長も年甲斐もなく興奮していた。
しきりに『応援に行けなくて残念だ』とぼやきながら職員室を出て行ったからだ。
だが、そんな校長の期待度とは関係なく、教頭室の前に佇む山崎の興奮は未だ冷めやらずにいる。
滝南との再戦が決まったことを、一刻も早くみんなに伝えたい。
そう思いながら、山崎はグラウンドに向かおうとして、ハタと気付いた。
(あ……帽子!)
校長室に入るまでは、確かに手に持っていた帽子が、いつの間にかなくなっていた。
思いがけない話に、興奮が過ぎてしまったせいで、校長室に置き忘れたのだろう。
山崎は苦笑しながら、回れ右をして校長室のドアの前へ戻った。
中には、まだ“りん”と直子がいるはずである。
バツの悪さを感じながら、仕方なくドアをノックしようとした時、思いがけず、中での話し声が山崎の耳まで届いた。
『当日は、お忍びで堂丸会長が直々に観戦に来ることになっています』
『えっ……?』
『いわゆる“御前試合”ね。そして……』
山崎は慌てた。
聞くつもりのない会話が聞こえてくるのだ。
直感的に“これ以上聞いてはいけない”……そう思って、ドアから離れようとした時だった。
『勝てば、貴女の“甲子園への道”が拓けるわ』
(なん……だと!?)
決して盗み聞きをしようとしたわけではない。
にもかかわらず、衝撃的な台詞が山崎の耳に心ならずも飛び込んできた。
“りん”の強制先発と交代不可という特殊ルールには、山崎の中にも不可解という思いはあった。
何故そんなルールを付加する必要があるんだ? ……という、ある種の引っかかりだ。
だが、山崎とて甲子園を目指して戦う高校球児。
今しがたの意味深な台詞とを組み合わせれば、おぼろげながらその意味が見えてくる。
これ以上聞いてはいけない……という気持ちは、ノックしかけた手とともに引っ込んでしまった。
誰もいない教頭室の中で、山崎の意識はドアの向こう側に集中し始めていた。
――TO BE CONTINUED