第143話 『甲子園への道 (4)』
六時間目終了のチャイムが、まるで生徒にとっての福音のように校舎全体に鳴り響く。
当然、ここ二年A組の教室のスピーカーからもその音が鳴り響き、途端に教室内が放課後モードに切り替わったかのようにざわついた。
六時間目の授業は、担任の種田による日本史。
一日の最後の授業が担任による授業の場合は、ホームルームが省略される……それが鳳鳴高校の通例である。
その通例に従い、日直の号令が終わると同時に、皆バタバタと帰り支度を始めていく。
すぐにでも帰ろうとする者、部活に行く者、まだノートをとっている者、さまざまだ。
“りん”は、この内の“すぐにでも帰ろうとする者”に分類される。
そそくさと教室を出て行こうとする“りん”を、種田が急に思い出したように呼び止めた。
「あ! そうだ。おい、萱坂!」
“りん”は、イタズラを見咎められた子どものように肩をすくめた。
その妙なリアクションに、種田は「別に怒ってるわけじゃないぞ」と苦笑しながら言った。
「何か用事でもあるのか?」
「……いえ、特に……」
「そうか。なら、すぐに校長室に行ってくれ」
「こ、校長室?」
「うむ。校長先生がお呼びだそうだ」
さっさと帰ろうとしていた“りん”にとって、思わぬ障害の出現である。
しかも、それがよりにもよって“校長”だ。
何かやらかしたっけ? ……などという疑問が、和宏の頭の中を全力でかけ巡っていく。
「ちょっと、りん! 今度は何やらかしたワケ?」
(やってねぇよ! ……多分)
「ありゃあ……カワイそうに。こってり絞られておいでっ♪」
(叱責確定かよっ!)
沙紀と東子は、基本的に目ざとい。
二人とも心配気な様子をカケラも見せることなく、かつ恐ろしいほど俊敏な突っ込みだった。
「アタシたちもついていってあげたいけど、部活だからっ……残念っ♪」
「大丈夫よ。校長先生は真面目で怖そうだけど、怒ると手がつけられないらしいし」
しかもノーフォロー。
いつものように面白おかしく不安を煽るだけ煽った二人は、さっさと部活へ駆けていった。
沙紀や東子たちが言うまでもなく、鳳鳴高校の校長は真面目で実直な“教育者の鏡”タイプだ。
和宏自身も、全校集会などで登壇した際などに校長の顔を見ているのでよく知っている。
逃げられるものなら、このまま逃げてしまいたいところだったが、当然そんなわけにもいかないだろう。
(仕方ない……。いくか……)
足取り重く歩き始めた“りん”は、まだざわつきの残る教室を、タメ息をつきながら出て行った。
◇
やはり、どう考えても和宏には覚えがなかった。
校長に直接呼ばれるような悪さをしでかした覚えが全くないのだ。
しかし、現実にこうして校長に呼び出しを喰らっている。
頭の中で鬱々と考えながら、“りん”は職員室のある管理棟への渡り廊下を歩いていた。
その窓から見える中庭の茶枯れかけた芝生の上には、バトントワリングの練習をしているバトン部の姿があった。
廊下は、これから帰ろうとしている者、ジャージに着替え終わって部活に行く者が、頻繁に通り過ぎていく。
いつもどおり、活気のある放課後の光景だった。
職員室は、管理棟の二階……比較的奥まった場所にある。
どこかへ行くための通路というわけでもないので、多くの生徒が闊歩する校舎の中にあって、この一角だけは生徒たちはあまり寄り付かない。
校長室と教頭室も隣接しているため、ここはさながら教師たちの城だ。
“りん”が、その職員室まで辿り着くと、ちょうど出入口前に体育教師の山本とE組の山崎が立っていた。
山本は、普段と同じジャージ姿。いかにも体育教師といった風貌である。
そして、その山本の隣にいるのが、のどかと同じ二年E組のお騒がせ男……かつ、大村と同じ野球部の主将、山崎だ。
まだ部活前のためか、身に纏っている白地のユニフォームが全く汚れていない。
二人はなにやら立ち話をしていたが、山本が目ざとく“りん”に気付くと、右手を上げながら近づいていった。
「おう。来たか萱坂。ちょうど良かったぞ」
「ちょうど……?」
「ああ。山崎も来たばかりでな」
“りん”は、山崎の顔に視線を向けた。
一夏を越え、真っ黒に日焼けした、逞しさすら感じる端正な顔。
山崎は、“りん”と目が合うなり、やたらと目立つ白い歯を見せながら、よぉ……と右手を上げた。
その笑顔は、いつもと変わらず人懐っこいものだった。
「よし。それじゃ行くぞ。お前たち、ついて来なさい」
山本は、二人を手招きしながら職員室の中にズカズカと入っていった。
“りん”と山崎は、そんな山本の後姿を呆然と眺めながら、思わず顔を見合わせた。
「……何やらかしたんだ? 山崎」
「何もやってねぇよ。萱坂こそ何かしたんじゃねぇの?」
「別に何も……ないはずだけどなぁ」
そう。先ほどから、それが和宏には解せないでいた。
だが、解せないでいるのは、盛んに首を傾げている山崎も同じだった。
二人ともに、校長から直々にお叱りを受けることなど何もないはずなのだ。
「しょうがないから行くか?」
「そうだな。ひょっとしたらお褒めの言葉かもしれねぇし」
「そんな覚えでもあるの?」
「いや。全く」
(コイツは……)
ずうずうしいにも程がある。
和宏は、心の中で山崎にダメ出しを喰わせた。
「おい。オマエたち何をやってる? さっさと来い」
先に職員室の奥に進んでいった山本が、一向についてこない“りん”と山崎に業を煮やしていた。
二人は肩をすくめつつ、職員室の奥に進んでいった。
各クラスのホームルームが終わったばかりで、まだ騒然とした職員室。
そのさらに奥の方に教頭室がある。
先頭を歩く山本がノックをしてから教頭室のドアを開けるも、教頭は本日出張のため不在。
だが、山本はお構いなしに、さらに奥にあるドアに向かって突き進んでいった。
そのドアこそが、校長室の入口だったからだ。
校長室は、教師といえども誰でも気軽に入れるわけではなく、教頭室を通らないと行けない構造だった。
かなり妙な作りだが、この管理棟は築年数の長い古い建物であるための止むを得ない配室なのだ。
「山本です。二人を連れてきました」
山本は、少しばかり緊張した面持ちで校長室のドアをノックした。
「どうぞ」という年配男性の太くて渋い声が響く。
そんな校長の声を合図にするようにドアを開けた山本が“りん”と山崎に「先に入れ」と促した。
二人は、恐る恐る校長室に足を踏み入れた。
比較的こじんまりとした空間に、柔らかそうな一対の二人掛けソファと、その間にはガラス製の磨き上げられた応接テーブル。
鳳鳴高校の校風が達筆で描かれた掛け軸や、過去に獲得した数々のトロフィが飾られた棚は、この学校の歴史と重みを感じさせる。
校長の執務机は、応接セットと比べると少々貧相に見えたが、それでも黒光りして重厚感があった。
先に部屋に入った山崎は、生徒の佇む余地などなさそうな、大人専用の濃密な空間に気圧されるように立ち尽くした。
和宏も似たようなものであったが、応接セットのソファに座っている顔を見て、思わず声を上げていた。
(な、直子さん……?)
“りん”たちの入ってきた入口に背を向ける形で設置されているソファに掛けているのは校長。そして、その向かいのソファに綺麗に足を揃えて座っているのは、間違いなく夏美の母親であり、滝南の副監督である直子だった。
明るめのグレーのスーツと純白のブラウスに、スラリと伸びる綺麗な脚を包むベージュのストッキング。
その姿は、先日と同じように上品、かつ優雅に映えていた。
「よく来てくれましたね、二人とも。とりあえずここに座りなさい」
校長は、そう言いながら席を立ち上がった。
要するに、客人である直子の向かいに座れ……ということだ。
入り口に用心棒のようにして立つ山本が、山崎に「言われたとおりに座れ」と顎で示した。
場違い感丸出しで佇んでいた山崎は、覚悟を決めたように、校長の勧めに従ってドッカリと腰を下ろした。
半ばヤケクソのような豪快さだ。
山崎は、腕組みをしたまま“りん”に「早くお前も座れよ」とアイコンタクトを投げつけた。
こんな異質な空間で、よくこんな堂々とした態度が取れるもんだ……と感心しながら、少し遅れて“りん”も倣った。
“りん”のすぐ目の前には、あの日と同じ直子の顔。
久しぶりね……と言わんばかりに、直子は笑みを浮かべた。
「さて、山崎くんに萱坂さん。まずは紹介しましょう。滝川南高校野球部副監督の小松川直子さんです」
“りん”と山崎の座るソファのすぐ横に立つ校長が、にこやかな顔で客人の紹介をした。
和宏にとってはもう知っていることであるが、山崎にとっては初耳である。
直子は、校長の紹介に併せて、山崎と“りん”に静かに一礼した。
「今日は、折り入って我が野球部に伝えたいことがあるということで来校されています」
伝えたいこと?
そんな疑問を抱いた“りん”の眉がピクリと動いた。
山崎の方は、見当もつかない……という感じで、無意識のうちに首を傾げていた。
「それでは、私の方から今日の用件をお話させていただきます」
そう言って、直子は、どことなく不安げな様子の二人を気遣うように“りん”と山崎の顔を交互に見た。
“りん”も山崎も、直子の次の言葉を待っている。
その確認が出来たところで、直子の表情は事務的なものに一変した。
「私たち滝川南高校は、鳳鳴高校に対して、正式に練習試合を申し込みます」
予想外の申し出に、山崎の目が丸くなった。
だが、直子は、表情を変えることなく、あくまで事務的な口調で続けた。
「日時は十一月七日の土曜日、午前十時。場所は滝川南高校」
今日は十月九日……約一ヵ月後のことだ。
「そして、先日の練習試合でのメンバーは二軍でしたが、今度は一軍がお相手をいたします」
山崎の顔色が、サァッと変わった。
真っ黒に日焼けした顔に、わずかながら赤みが差す。
「ただし、一つだけ……条件があります」
(条件?)
“りん”の瞳に、疑問の色が濃く浮かんだ。
そんな“りん”の反応も、直子にとっては全くの予想どおり。
次の句を告げる前に、直子は心の中でクスリと笑った。
――TO BE CONTINUED