第142話 『甲子園への道 (3)』
今の和宏の精神状態を表すならば、驚きが3割、戸惑いが6割、残りの1割は妙な高揚感という複雑なブレンド。
ちなみに妙な高揚感とは“甲子園”という単語に対する和宏の過剰反応である。
例え冗談だと思っていても、和宏自身にはどうすることも出来ない条件反射みたいなものだ。
『萱坂さん。貴女、甲子園を目指す気はあるかしら?』
先ほどの、“りん”の目の前に佇む直子の台詞が、和宏の中で何度も反芻されていく。
目指したい、という気持ちはある。十分すぎるほどある。そして、その理由も。
だが、いくら和宏でも、こんな常識外れの問いに二つ返事で「ハイ」と答えてしまうほど無邪気ではない。
和宏の反応に戸惑いの感情が多く含まれていたのは無理もない話であった。
そんな“りん”の複雑な表情を見た直子は、困ったように肩をすくめた。
「やっぱり、すんなりとは受け取ってもらえないわよね……」
とはいえ、軽いタメ息をつく表情は笑み交じり。心底困ったという表情ではない。
腕組みをしながらも、右人差し指を頬に当て、首を傾げる仕草には「想定の範囲内」という十分な余裕が感じられた。
「少し……昔話を聞いてもらっていいかしら?」
(昔話?)
相変らず、警戒した表情を崩さぬ“りん”。
しかし、“りん”が「いい」とも「ダメ」とも言う前に、直子の“昔話”は一方的に始まった。
「昔、あるところに野球の得意な女の子がいました。その女の子は“ある人”と約束をしました」
『次の試合に勝てたら、アンタを甲子園に出られるようにしてやろう』――と。
「……っ」
“りん”の目が丸くなった。
その顔を見て、直子はまた右手を口元に当ててクスクスと笑った。
「どう? なかなか魅力的な昔話でしょう?」
確かにそうかもしれない……と、和宏は思った。
もちろん、それが“本当ならば”の話だ。
「でも、そんなことが可能なんですか?」
まさに根本的な疑問。
高校野球に女子が参加する……一言で言えば前代未聞の“ありえない話”だ。
直子は、すぐに答えず、一拍考えてからまた口を開いた。
「そう思うのが当然……だと思うわ。でも私は嘘じゃないと思う。それは“あの人”が言ったことだったから。そして、“あの人”は絶対に嘘をつかない人だから」
「“あの人”……?」
核心に触れる質問だったのだろう。
直子は“りん”の瞳を見つめながら、口元を微かに緩めるだけの控え目な微笑を浮かべた。
「堂丸晋一郎。日本高校野球連盟……現会長よ」
優しく、まるで子どもに言い聞かせるような……そんな直子の台詞が、ひどく場違いな感じで辺りに響く。
時が止まったように風が止み、つい先ほどまで風に揺られていた“りん”のポニーテールの毛先がフワリと落ちた。
日本高校野球連盟……通称“高野連”。その字の如く日本の高校野球における最上位組織だ。
そして、その会長と言えば、一言で言うなら“日本高校野球界の最高実力者”ということになる。
和宏は、自分の耳を一瞬疑った。
自分は一高校生。今、目の前にいる直子は“滝南”の一職員。
そんな二人の会話に出てくる登場人物の肩書きとしては、どう考えても似つかわしくない……そう思ったからだ。
だが、直子の優雅な瞳からは、嘘や冗談の匂いは全く感じられない。
むしろ、その纏っている真剣な雰囲気から感じられるのは事実の匂い。
遠い世界の夢物語のように思われた話は、次第に現実味を帯び始めていた。
「会長って……。いや、それより、いくら会長でもそんなこと……」
出来るはずがない……そう言おうとした“りん”を、直子が先回りしたように遮った。
「確かにね、本気だったかどうかは、今となってはわからないわ」
「……え?」
「その試合……負けちゃったから」
そう言いながら、直子はどこか遠く……夕暮れの茜色に染まった空を見つめた。
まるで思い出と戯れているような。
しかし、その思い出はあまり心地よくないような。
そんな直子の瞳が、遥か遠くの夕陽を見つめている。
『次の試合に勝てたら、アンタを甲子園に出られるようにしてやろう』
女の子は、“ある人”と、そう約束をしたという。
和宏は、今ようやく気付いた。
その女の子とは、きっと直子自身のことだったのだ……と。
「もしかすると、初めから“勝てるはずがない”と見越した約束だったのかもしれない。だけど、もし勝っていたら……きっと実現してくれたんじゃないかって思うの。すごく頑固で一本気で昔気質な人だから」
「あの……」
「なにかしら?」
「どうして、そんな人と知り合いなんですか?」
「ふふ……。いろいろあるのよ。人生を長く生きていると……ね」
直子は、少し困ったように笑いながら、答えをはぐらかした。
“あの人”は絶対に嘘をつかない。
“あの人”は頑固で一本気で昔気質な人。
明らかに直子は堂丸のことをよく知っている。
直子の口ぶりから、それは疑いようのない事実と言えるだろう。
増してや、嘘にしろ本気にしろ、『次の試合に勝てたら、アンタを甲子園に出られるようにしてやろう』などという約束まで交わしたというからには、単なる知り合いとも思えない。
ただし、その接点は、直子が口を噤む限り謎のままだ。
「さて、萱坂さん。改めて聞くわ」
表情から笑みを取り除いた直子は、真っ直ぐに“りん”の瞳を見据えた。
途端に張り詰めた空気。
直子の真剣な表情に、“りん”は無意識にピンと背筋を伸ばした。
「貴女に甲子園を目指す意思はありますか?」
和宏に“甲子園を目指す意思”があるのは間違いのない事実。
しかし、先の見えぬ不安感もまた、胸の内からは拭えない。
何より、直子の真意が掴めないでいる。
「もし“ある”と言ったら……どうなるんですか?」
「そうしたら、貴女の意思を実現するために動くだけよ」
直子は、凛として言い放った。
固い決意が、その瞳からハッキリと見て取れる。
そして……不意に和宏の頭の中に浮かぶ夏美の顔。
『りん姉は……甲子園を目指さないの?』
よく見ると、直子の今の瞳は、そう言った時の夏美の瞳とそっくりだった。
やはり母娘だな……と思いながら、言っていることまで全く一緒であることに和宏は気付いた。
(そういうことか……)
思わず笑いそうになっていた。何のことはない。昨日も今日も二人して同じことを聞いているだけなのだ。
昨日の和宏の煮え切らない返事は、夏美を幻滅させた。
苦々しい思いは、今も胸の内にこびついている。
夏美と直子が、“りん”の『甲子園を目指す』という答えを望んでいるのは明らかだ。
ならば、もうどこにも断る理由などありはしない。
甲子園にこだわる思い。それだけは、誰にも負けない自信が和宏にはあるのだから。
「あります」
ハッキリと……“りん”は直立不動でそう答えた。
“瀬乃江和宏”の野球部時代、監督に対して常にそうであったように。
そんな“りん”を見て、直子は「我が意を得たり」とばかりに顔を綻ばせた。
「その返事が聞きたかったの」
ハンドバッグを肩に掛け直しながら、嬉しそうに目を細める直子。
その表情は、やはり夏美に似ていた。いや、正確に言えば、夏美“が”似ているのであろうが。
「そうと決まれば、後は私の仕事よ。安心して。悪いようにはしないから」
直子は、“りん”を安心させるように微笑みながら、直子は踵を返して歩き始めた。
爽やかなスプリングショートというヘアスタイルから足元の黒いパンプスまで、大人の女性として非の打ち所のない立ち姿。
背筋をピンと伸ばしたその歩き方は、日本女性の美しさを十分に感じさせた。
夏美も将来はあんな感じになるのかな……?
そんな疑問が、和宏の頭の中に浮かんでくる。
『りん姉!』……と、お淑やかとは正反対の、まるで男の子のような口調で話しかけてくる夏美。
母親の直子のような女性になるには、乗り越えるべきハードルがかなり高そうだ。
無論、そんなことを夏美に言ったら、これ以上ないほど頬を膨らませて怒るだろう。
“りん”は、夏美のその顔を思い浮かべながらクスクスと笑った。
すでに直子の後姿ははるか遠くだ。
もうすぐ見えなくなりそうなところで、直子はもう一度振り向き、“りん”に向かって手を振った。
“りん”が慌てて手を振り返すと、すぐにその姿は和宏の視界から消えた。
いつもよりも早く……強く脈打つ胸の鼓動に、和宏は落ち着いていられなかった。
直子が、どこでどのように話をつけてくる気なのかはわからない。
それが失敗したら?
そもそも、この話自体が嘘や冗談の類であったら?
悪い方に話を考えている自分に気付いた和宏は、慌てて首を振った。
直子も夏美も、決して嘘はついていないはずである。
そして、直子は、甲子園を目指す意思があると答えた“りん”に対し、『そうしたら、貴女の意思を実現するために動くだけよ』とハッキリ言い切ったのだ。
ならば、二人を信じてみよう……和宏はそう思った。
“りん”でいるうちは諦めるしかなかった“甲子園への道”。
少なくとも、その道を照らし出す微かな明かりが灯されたことだけは確かなのだから。
――TO BE CONTINUED