第141話 『甲子園への道 (2)』
硬球の白い皮の部分を撫で上げると、スベスベして気持ちがいい。
“りん”は、ひとしきり硬球を右手で弄んでから、赤い縫い目に人差し指をかけて、壁に向かって軽く放った。
力のない山なりを描いて、コツーン……という小気味良い音とともに、転々と“りん”の元に跳ね返ってくるボール。
そのボールが、狙ったように足下にピタリと止まる。
「夏美のヤツ、もう来ない気なのかな……」
“りん”は、例の空き地に一人佇みながら、静かにひとりごちた。
夏美が『りん姉のバカッ!』と言って、気まずく別れたのはつい昨日のこと。
とはいえ、夏美はまだ小学四年生の子どもだ。
一晩寝てスッキリすれば、また元気に現れるだろう……と思った和宏は、今日も学校が終わった後、いつもどおり“この場所”に来ていた。
しかし……意に反して、夏美は一向にやってくる気配がない。
あの元気印の夏美は、まるでこの空き地の主である。
一人で騒ぎ、一人で動き回って……それを見て、“りん”はよく苦笑したりしていた。
その夏美がいないだけで、この空き地がなんと広く静かに感じることだろう。
本来、閑静な高級住宅地の一角。これが本来の姿なのかもしれないが。
(なんか、一人きりだと味気ないな……)
和宏は、そう呟きながら、なんだかんだ言って夏美がいたからこそ楽しく練習できていたのかな……と思いを巡らせた。
走り込みをして、ここでストライクナインのパネルを相手にひたすらピッチング練習をする毎日。
確かに、一人で毎日繰り返すには少々単調すぎる練習メニューだった。
(ええ~い! 夏美がいなくてもやるぞ! スライダーの練習をしなくちゃならないんだからな)
気を取り直した和宏は、ストライクナインのパネルをセットして、夏美と二人で土を盛り上げて作った手作りのマウンドに立った。
距離は、ちゃんと計測した……18.44メートル。
“りん”は、いつものピッチングフォームで、長いポニーテールをなびかせながらボールを放る。
直球とほぼ変わらないスピードでパネルに向かうボールが、まるで歪曲した見えないレールに沿うかのように小さく鋭くスライドして五番のパネルを勢い良く打ち抜いた。
(ヨシッ!)
スライダーは、手首の使い方次第で変化の度合いを変えることが容易だ。
“りん”が今練習しているのは、“小さく鋭く曲がるスライダー”である。
大きく曲がるスライダーと、小さく……しかし鋭く曲がるスライダー。
二種類のスライダーを操ることで、投球の幅が広がるかも……と考えてのことだった。
パネルを打ち抜いたボールは、背後のブロック塀に当たり、転々と転がっていく。
夏美がいれば、いち早く子犬のように駆け出して、「ハイ、りん姉!」と言っては“りん”の元にボールを持って来てくれただろう。
いや、その前に、パネルを打ち抜いた瞬間、「スッゲェ!」と言うような素っ頓狂な声を聞かせてくれたに違いない。
そのいずれもなかったことは、和宏にとって改めて突きつけられた違和感だった。
やれやれ……と思いながら、苦笑いを浮かべた時、背後から唐突に“声”が聞こえた。
「萱坂りん……さん?」
どことなく艶やかで、落ち着いた大人の女性をうかがわせる声。ただし、聞いたことのない声。
“りん”は、声のした方向を振り向いた。
上品な紺色のスーツ。
スカートの下から伸びる黒いストッキングに包まれた足はスラリと長く、履いている靴はエナメルのパンプス。
全身から「仕事の出来る女性」といった雰囲気を漂わせる、年の頃三十歳くらいのショートカットの女性だった。
だが……和宏にとっては見覚えのない女性だ。
念のため、“りんの記憶”まで手繰ってみても結果は同じ。
戸惑う“りん”を見て、その女性は微笑ましそうに、なお優雅に笑っている。
品の良いピンク色のルージュがひかれた唇からは、ほのかな大人の色気を感じさせた。
その様子からは、人違いの可能性は全く感じられない。いや、そもそも『萱坂りん』と名前を口にしているのだから、少なくとも人違いではないだろう。
「私のこと……覚えていないかしら?」
まるでイタズラっ子のような笑みを浮かべながら、軽く首を傾けた仕草は、子どもっぽい様でいて、やはり大人の優雅さが色濃く映る。
和宏は、ドギマギしながらも懸命に記憶を手繰った。
「この間の練習試合の時に顔を合わせたと思うんだけど?」
練習試合とは、この間の九月に行われた“滝南”との練習試合(第95話参照)のことなのは間違いない。
その時にいた女性。それも大人の。
和宏は、その時の状況を思い出しつつ……行き着いた結論に驚きの声を上げた。
「あっ! ひょっとして……滝南のベンチにいたあの……?」
滝南のベンチにいた“カントクらしき人”。
そのユニフォーム姿の彼女と、今ここにいるスーツ姿の女性は、別人と言っても差し支えがないほどイメージのギャップが激しい。
だが、あの日、グラウンドにいた大人の女性といえば、一人しかいなかったはずだった。
「正解よ。久しぶりね。萱坂さん」
しかし……滝南の関係者のはずの彼女が、何故ここに?
そもそも、何故話しかけてきたのだろう?
いくつもの疑問が、和宏の頭の中を渦巻いていく。
呆然としたまま、“りん”は、あいさつを返すことすら忘れていた。
「ごめんなさいね、突然。でも、どうしても貴女に会って話がしたかったのよ」
柔らかな微笑を絶やすことなく、しかし、少し申し訳なさそうな色の混ざった表情。
無論、“りん”を驚かせてしまったことに対する申し訳なさ、である。
「昨日、夏美が変なことを貴女に聞かなかった?」
(変なこと……?)
そう聞いて、和宏は昨日の夏美を真っ先に思い出した。
『りん姉は……甲子園を目指さないの?』
確かに、おかしな質問ではあった。
“りん”が女子である以上、男子に混じって高校野球に参加することは出来ない……ということは、いくら夏美が子どもとはいえ、もう小学四年生なのだから、理解していて然るべきである。
にもかかわらず、なぜあえてあんな質問を“りん”に投げかけてくる必要があったのか。
その答えは、一晩経った今でも和宏にはわからなかった。
「確かに昨日の夏美は……」
おかしかった……と、言いかけて、“りん”の口の動きが不自然に止まった。
(待てよ? 今、この人……“夏美”って言わなかったか?)
夏美は、今この場にはいない。だが、目の前にいるこの女性は夏美のことを“知っている”。
疑問が頭の中をグルグルと回りながら、ある一つの仮説を生み出していく。
確信出来る材料はない。だが、“りん”は、ある種の確信を持って尋ねてみた。
「あの、ひょっとして……夏美のお母さん……ですか?」
そんな年に見えるかしら? ……などと、刺々しく尋ね返される可能性もある。
万が一を考え、肩をすぼめながら身構えた。
ただし、見た目の年の頃は三十歳くらい……夏美くらいの子どもがいても年齢的にはおかしくはない上に、まるで親のような精神的落ち着きが感じられることからも、多分間違いないはずだ。
そんなことを考えながら、“りん”はピンクのルージュがひかれた彼女の唇から紡がれる返事を待った。
「ええ、そうよ。いつも娘がお世話になっているわね。“りん姉“」
そう言って、目を細めた彼女の子どものような笑顔。
彼女は、おどけたように肩をすくめながら、少し大げさにウィンクした。
“りん”のことを“りん姉”と呼ぶのは、夏美ただ一人だ。
おそらく、家でも“りん”のことを『今日、りん姉がね……』みたいな感じでしゃべっているに違いない。
“りん”は、思わず鼻の頭を掻きながら、苦笑いをするしかなかった。
「名乗るのが遅れちゃったわね、私は“小松原直子”。夏美の母親よ。よろしくね、萱坂さん」
という台詞とともに、直子の右手がしなやかに差し出された。
一瞬、その意味に気付かず、直子の笑みを湛えた顔とスラリと柔らかそうな右手を交互にいったりきたりする“りん”の視線。
それが“握手”を求めるものだと気付き、“りん”は慌てて右の手の平の汗を拭うようにジャージにこすり付けてから握手に応じた。
「うふふ……。マウンドに立っている時とは、随分と感じが違うのね……貴女は」
微笑ましそうに笑う直子に、“りん”の顔は恥ずかしさのあまりジワジワと紅潮していった。
さぞかし落ち着きのないヤツに見えてるんだろうな……と、心の中で思いつつ。
直子は“夏美の母”である……と言った。
言われてみると、確かに目元などが似ている。
こんな落ち着いた雰囲気の母親から、どうしてあんな騒がしい娘が生まれたのか……少々疑問ではあるが。
そんなことを考えていた和宏を、直子の声が急に現実に引き戻した。
「萱坂さん?」
「は、はいっ」
反射的に、“りん”は背筋を伸ばして直子の顔を見た。
その表情からは、さっきまでの優雅な笑みは消え、まなざしは真剣なものに変わっていた。
「ごめんなさいね。昨日は夏美が不躾な聞き方をしてしまって」
不躾……と言っていいのかどうかは微妙だったが、唐突な質問だったのは間違いない。
少なくとも、なんと返事をして良いのか困ったのだから。
だが、そういう直子は澄ました顔で悪びれずに続けた。
「実は“あれ”、私が夏美に聞いてくるように頼んだのよ」
「……え?」
「どうしてもね、貴女の意思を確認したかったから」
「い、意思……?」
直子が、“りん”の聞き返しにコクリと頷いた。
一体、何の意思を……?
真意が読めず、怪訝な表情になりかけた“りん”に追い討ちをかけるように、直子は本題の台詞を口にした。
それは、思わず口をアングリとさせたくなるような、ひどく現実離れした台詞だった。
「萱坂さん。貴女、甲子園を目指す気はあるかしら?」
――TO BE CONTINUED