第140話 『甲子園への道 (1)』
“りん”が、いつも野球の練習をしている場所。
この閑静な住宅街のど真ん中にある七十坪程度の空き地は、“りん”の家から、さして遠くない。
妙に小奇麗に整備されたそこに置かれたストライクナインのパネルは、いつだって“りん”を歓迎してくれる。
今日もまた、空はよく晴れ渡っていた。
秋の澄んだ陽光に照らされた、この空き地に二人の人影。
一人は、腕組みをして佇むポニーテールの少女……“りん”。
そして、“りん”より一回りも二回りも小さなもう一人の可愛らしい人影は……今にもワインドアップからピッチングモーションに入ろうとしていた。
胸を張って背筋を伸ばし、身体を大きく見せるように振りかぶる。
右の軸足をプレートに乗せたまま、左足を上げ、豪快なほど大きく取るテークバック。
ギリギリまで引き絞った弓を放つように、全身を使ってボールをリリースすると、その勢いでフォロースルーの瞬間、小さな身体はわずかに宙に浮いた。
それはさながら、地面スレスレを舞う“蝶”のように。
こんもりと土の盛られたお手製マウンドから放たれたボールは、通常以上のキレと伸びを持って、ストライクナインのパネルに向かっていく。
ど真ん中……五番のパネルが、バンッという大きな音とともに打ち抜かれた。
「やったぁ!」
「よっしゃっ!」
子どものように無邪気な歓声と、透き通るような澄んだ声が、この空き地に大きく響く。
透き通るような澄んだ声の持ち主は“りん”。
そして、子どものように無邪気な歓声を上げたのは“小松原夏美”。
ここで出会った、“りん”を姉のように慕う小学四年生の野球少女である。
「見た!? りん姉!」
「うん。今のはナイスボール!」
夏美は、物怖じすることのないキラキラした目で“りん”を見た。
“りん”が言うまでもなく、今、夏美が投げたボールは間違いなくナイスボールだった。
これだけのボールを放る小学四年生は、そう多くはないはずだ。
ただ、制球力がイマイチのため、“りん”のようにバンバンとパネルを打ち抜けるわけではないのが玉にキズである。
むしろ、特筆すべきはそのピッチングフォームであろう。
身体の柔らかさやしなやかさがよく活かされた、“りん”の美しいピッチングフォーム。
夏美はそれを、かなりの精度で再現していた。
まるで“りん”のミニチュアコピーかと見間違わんばかりに。
毎日毎日の練習の積み重ねと“りん”の指導の賜物である。
ちなみに、和宏がアンダースローに転向したのは高校一年の秋。
オーバースローのままでは高校野球で通用しない、と当時の三年生部員からハッキリと言われ、自暴自棄になりかけた時、監督に転向を勧められたのだ。
猛練習を繰り返し、和宏が自分なりにアンダースローを習得したと実感するまで、たっぷり半年はかかった。
それに比べたら、夏美の習得の早さは恐れ入るレベルだった。
「すごいね、夏美は。もうアンダースロー完璧じゃん」
「え~? まだりん姉みたいにカーブもスライダーも投げられないのに~」
いやいや。そこまでされたら俺の立場がありませんから。
という言葉が喉まで出掛かっったが、“りん”は辛うじて飲み込んだ。
「ま、まぁ……小学生は変化球なんかにあまり頼らない方が良いんだよ。肩やヒジに悪影響があるかもしれないし」
「ずるい~! りん姉ばっかり!」
そう言って、頬っぺたを膨らませる夏美。
いつも生意気で可愛げの足りない夏美であるが、こういうユーモラスな表情だけは密かに和宏は気に入っていた。
とはいえ、このままムダ話ばかりしていては練習が先に進まない。
ブーブーと文句を言う夏美を尻目に、“りん”はストライクナインのパネルを相手に一球ずつ丁寧に投げ込んでいく。
その間、夏美はシャドーピッチングと球拾いである。
こうして今日も、いつもどおりの練習風景が繰り広げられていった。
夕暮れが迫る頃……時計は午後六時になろうとしている時間帯。
そろそろ小学生の夏美はもちろんのこと、“りん”も帰らなければならない時間である。
母親のことみが、夕食の支度をしながら“りん”の帰りを待っていることだろう。
これ以上遅くなろうものなら、『りんってば遅いわねぇ。さてはカレシが云々』……という話になりかねない。
ストライクナインのパネルを空き地の隅っこに寄せるだけで帰り支度は終わる。
これでよし……と“りん”が呟いた時、道路側より年配の女性の会話らしき声が聞こえた。
「あら、こんなところに空き地なんて珍しいわね」
「そうね。ここなら建て売りでもすぐに売れるでしょうにねぇ……」
そんな何気ない会話をしながら、品の良さそうな貴婦人風の彼女たちは通り過ぎていった。
“りん”は、何かに考えをめぐらすように視線を辺りに向けた。
一見、何の変哲もないただの空き地だが、ただの空き地のわりには綺麗に整地されている。
しかも、周りを見渡せば、どれも豪華な一軒家ばかり。
この一帯は、いわゆる“高級住宅街”である。
さっきの会話でも言われていたとおり、売りに出せば間違いなく人気物件になるはずだ。
だが、実際は“売り物件”の看板すら掲げられることなく、この一区画がまるまる空き地になっている。
(確かに変だよな……ここ)
誰が、何のために、こんな一等地を空き地にしているのだろう?
そんな疑問が、和宏の頭の中をよぎった時だった。
「ねぇ、りん姉?」
「……ん?」
いつの間にか“りん”のすぐそばに近づいてきていた夏美が、“りん”を心配げに見上げている。
いつも活発な夏美にしては、珍しく固い表情だった。
「りん姉は……甲子園を目指さないの?」
「……っ」
唐突に出てきた“甲子園”という単語。
“りん”は、驚きを隠すことが出来ず、思わずのけぞってしまった。
「こ、甲子園……?」
夏美がコクリと頷いた。
『目指せるものなら目指したい』……それが、和宏の本音。
だが、実際には、甲子園予選に女性が選手として出場することは出来ない。
良くてマネージャーとしてベンチに入れるくらいだ。
それは厳然としたルールでもある。
言葉を詰まらせた“りん”を見て、夏美は察したかのように続けた。
「ルールだから……もう諦めちゃってるの?」
少し悲しそうな……でも、少し怒ったような顔で、夏美は、いつになく“りん”に絡んでいく。
良くも悪くも、その子どもらしい真っ直ぐな瞳は、“りん”にとっては妙に心地悪く苛立ちを感じさせた。
「諦めちゃってるとか言うなよ。ルールはルールなんだからしょうがないだろっ!」
高校球児なら誰だって憧れる“甲子園”。
もちろん、和宏だって憧れている。いや、おそらく“憧れ”などという言葉では足りないほどに。
“瀬乃江和宏”の時ならば、何も悩むことなく、疑問を抱くことなく甲子園を目指すことが出来た。
しかし、ある日突然、望むことなく“萱坂りん”になっていて……甲子園への道は絶たれていた。
なんという理不尽な話なのだろう。
和宏は、未だにその葛藤を胸の奥底に抱え続けている。
夏美の無邪気な問いかけは、和宏の癒されることのない傷口に塩を塗りたくる行為に似ていた。
「だって……ママはいつも言ってるよ。“夢は諦めるものじゃない。叶えるものだ”って」
思わず声を荒げた“りん”を目の前にして、夏美は気丈にも怯まなかった。
(夢って……。それはなんか違うような……)
ルールの向こう側だから、夢にすることは出来ないのか。
それとも、夢に向かって、ルールすら突き破るために進むべきなのか。
和宏は、一瞬“迷い”を感じた。
“女子はプレイヤーとして高校野球に参加できない”というルールは、日本高校野球連盟によって定められた『全国高等学校野球選手権大会参加者資格規定』による明文ルールである。
例え和宏が一人で抗ってみても、何も変わらないだろう。つまり……これは仕方のないことなのだ。
にもかかわらず、“りん”は夏美の強い瞳を見つめ返すことが出来なかった。
この現状を打破するための行動を何も起こしていないことが、一抹の引け目になっていたからだ。
最初、パネルまで届かなかった夏美の球。
そこに突如現れた“りん”が、いとも簡単にパネルを打ち抜いた瞬間、“りん”は夏美にとってのヒーローになった。
しかし、今の“りん”はどこか煮え切らない態度で、夏美の視線から目を背けている。
その姿は、とてもヒーローと呼べるそれではなかった。
「どうして“甲子園を目指す”って言ってくれないんだよ!」
「ムチャ言うなよ! 何度も言ってるだろ! ルールなんだから仕方ないって!」
まるで、売り言葉に買い言葉という言葉がピッタリのやり取りだ。
しかも、悔しさのあまり、夏美の瞳はわずかに潤んでいた。
「もういいよっ!」
夏美はプイッとソッポを向いて、帰り支度を始めてしまった。
グラブとボールをスポーツバッグに仕舞い込み、右肩でグィッと担ぎ上げる。
そのまま“りん”と視線を合わせることなく夏美は走り出した。
「りん姉のバカッ!」……と、言い残して。
走り去る夏美の後姿が、夕陽の中に溶け込んでいく。
“りん”と夏美が始めて知り合ってから、もう五ヶ月になる。
だが、こんな後味の悪い別れ方をしたのは、今日が初めてだった。
なぜ、夏美は今日に限って、突然こんなことを聞いてきたのだろう?
一体、夏美は俺にどういう答えを期待していたんだろう?
そんな疑問が、和宏の胸の内にモヤモヤとした影を作るが答えは出ない。
妙にわからずやだった夏美。
どこか煮え切らない態度に終始してしまった自分。
そのどちらにも腹立たしさを感じながら、“りん”は足元の小さな石ころを蹴飛ばした。
――TO BE CONTINUED