第139話 『学園祭・後編 ~嘘~ (8)』
「ただいま」
大村は、帰宅のあいさつを口にしながら、見慣れた自宅の玄関戸を横に開けた。
どこか心地よく滑らかに響く“ガラガラ”という音とともに、これまた見慣れた玄関の光景が大村の目に呼び込んできた。
母親が愛用するツボ刺激機能付きのサンダル。
妹の忍が履いている白くて可愛らしい小さなスニーカー。
本来ならば父親の大きな革靴もあるはずだが、今日は残業のせいでまだ帰っていない。
おかえり~……と、食事の支度中であろう母親の声が、キッチンの奥からかすかに聞こえた。
居間から玄関の間の廊下には、二階へ伸びる階段がある。
それを、大村はギシギシと軋む音を立てながら駆け上がっていく。
自室に滑り込んだ大村は、鞄を机の上に放り投げ、イスに倒れこむように腰掛けた。
その一つ一つの動作は、どこか投げやりで腹立たしさが込められているように荒々しい。
イスの背もたれにもたれかかったまま、大村はゆっくりと目を閉じた。
(……はぁ……)
出てくるのはタメ息ばかり。
そして、腹立たしさを感じるとすれば自分自身に。
(せっかく告白が出来たと思ったのにな……)
あのデートの日の翌日から“りん”の様子はおかしかった。
あまり笑いかけてくれなくなったし、目も合わせてくれなくなった。
デートの最後にさっさと帰っていってしまったのは、きっと自分が機嫌を損ねるようなことをしてしまったからに違いない……。
そんなことを思いながら、悶々として過ごした一週間。
そして学園祭の日、大村に、“りん”と二人きりで買い出し……という飛び切りのシチュエーションが舞い降りた。
“りん”の『もっと自信持っていいよ』という台詞は、迷える大村の背中を押した。
ひょっとしたら萱坂さんもボクの告白を待っているんじゃないか――。
大村の中にそういう考えが浮かばなかったと言えば嘘になる。いや、だからこそ“告白”をしたのだ。
しかし、それはただの勘違いであることを大村は思い知らされた。
“りん”の戸惑いと困惑の表情によって。
勇気を振り絞った告白だったはずなのに、“断られてしまう”と悟った途端、返事を聞くのが怖くなってしまった。
“りん”と友だちでいることすら出来なくなるなど、大村にとっては想像すらしたくない最悪の事態だった。
――だから……逃げた。
“嘘”をついて逃げてしまったのだ。
大村は右手を固く握り、拳を机の上に叩きつけた。
静かな部屋の中に響き渡ったのは、やたらと大きい打撃音。
ペン立てに差してあったボールペンが、驚いたように飛び跳ね、机の上を転がっていく。
どうして逃げてしまったんだろう。
逃げても何にもならないのに。
どうして嘘をついてしまったんだろう。
萱坂さんが『絶対に嘘とかつかなそうだし』とまで言ってくれたのに。
そんな後悔が頭の中をグルグルと回る。
それは耳元を飛び回る蚊の羽音のように不快だった。
「お兄ちゃん?」
部屋の戸をノックする音と部屋の外から聞こえる妹の忍の声に、大村はふと我に返った。
「……どうした?」
「大丈夫? さっき大きい音が聞こえたけど……」
「大丈夫だよ」
「そう……。ならいんだけど……」
心配そうな妹の声に、大村の罪悪感が募っていく。
妹につまらない心配をさせてしまう兄。
そのみっともなさと自分に対して感じる腹立たしさが、悲しく……そして情けなかった。
「お母さんが、晩ごはん出来てるから早く下りておいでって」
「わかった」
大村が努めていつもどおりの返事をしたせいか、忍は安心したように階段を下りていった。
また静かになった部屋の中に、大村の腰掛ける椅子のギシギシという音だけが響く。
(これが“失恋”ってヤツなのかな……)
以前、一緒に“ブラックポセイドン”のライブに行った時にハッキリと気付いた自分の気持ち。
“りん”の笑顔を頭の中に思い浮かべるだけで、胸焦がれる想いが溢れてくるような。
だが……今はそれが辛い。苦しい。
いっそのこと“りん”のことを嫌いになれたら、どれだけラクになれるだろう。
いや、嫌いにまではなれなくとも、せめてこの想いを消し去ることができたなら。
大村は、天井に備え付けられた円形の蛍光灯を見上げ、大きく息を吐き出した。
(もう……終わったんだ)
自分に言い聞かせるように同じ台詞を三度呟く。
まるで、そう思い込もうとしているかのように。
時計を見ると、さっき忍が晩ごはんの準備が出来ていることを知らせてくれてから結構な時間が過ぎていた。
これ以上モタモタしていると、また忍が呼びに来るかもしれない。
大村はブンブンと頭を振って、ちらつく“りん”の顔をムリヤリ頭の中から追いやりながら立ち上がった。
そして部屋を出た大村は、重い足取りで力なく階段を下りていった。
◇
休みだった日曜日。そして土曜日に行われた学園祭の代休日だった月曜日。
その翌日……火曜日は学園祭が終わってから初めての登校日である。
大村の登校時間は、通学バスの時間の関係上、他の誰よりも早い。
いつもどおり大村はA組の教室に一番乗りをした。
誰もいない静寂な教室に一人。
自分の席に座り、教科書を広げながら、隣の席をチラリと見やる。
大村の隣の席は“りん”の席だ。
その姿を思い浮かべるだけで、大村の胸は締め付けられるような切ない想いに駆られる。
誰も見ていないことをいいことに、大きなタメ息を一つ。
大村は自らを嘲るように笑いながら、机の上の教科書に目を落とした。
時間が経つにつれ、一人……また一人と教室の中に少しずつ人が増えていく。
八時を過ぎる頃には、教室の中はかなり賑やかになっていた。
そんな中、おはよ……と、清々しい朝によく似合う澄んだ声が大村の耳に届いた。
聞き覚えのある声……“りん”の声。
普段どおりの様子で教室に入ってきた“りん”は、みんなにあいさつをしながら、机と机の間を縫って大村の方に歩いていく。
そして席に辿り着いた“りん”は、鞄を机の横の鞄掛けにかけながら大村に笑いかけた。
「大村クン。おはよー!」
はじけるような笑顔。
もう心配事のなくなった和宏にとっては、表情を曇らせる理由などない。
そんな“りん”の笑顔は、遠慮なく大村に向けられた。
久しぶりに見る、その向日葵のような明るい表情に大村の心臓が高らかに鳴った。
同時に、大村の口元から意図しない笑みがこぼれる。
「……な、なに笑ってんの? 大村クン」
「い、いや、ごめん……な、何でもないよ」
慌てて口元を引き締めた大村に、“りん”は訝しげに首を傾げた。
高鳴った大村の心臓の鼓動は、まだ収まりがつくことなくバクバクと音を立てている。
久しぶりに見た“りん”の笑顔は、まるで梅雨明けの太陽のように眩しかった。
その笑顔に、自分に対する恋愛の感情は混じっていないことを大村はもう知っている。
それなのに、胸の高鳴りを押さえきれないでいる。
「そうそう、大村クン。聞いた? 今度ブラポが新曲出すって話」
「え……うん。確か『GLORY DAYS』って曲だよね」
「な~んだ、知ってたのか。まだ知らないだろうって思ったのに」
“りん”は、大げさなジェスチャーで指を鳴らしながら悔しがった。
だが、目は明らかに笑っている。
「バラードらしいけどね」
「え~……ガンガンに激しいロックの方がいいのになぁ」
「はは……そうだね」
嗜好が同じだ……大村は、そう思いながら笑った。
あのデートの日以降、二人の間にあった重苦しい空気は影を潜め、以前と同じ愉しげな雰囲気が帰ってきた。
やがて、沙紀が、東子が……“りん”の周りに集まり始め、話はまたいつもの中身のないバカ話に変わっていく。
東子のおしゃべりに付き合ってはケタケタと笑う“りん”の横顔。
その笑顔を見ているだけで、こんなにも嬉しい気持ちになれる。
大村は、昨夜の苦い思いが嘘のように溶けていくのを感じ、そして気付いた。
もう終わったと思っていた。
だが、まだ終わっていなかった。
むしろ、このまま終わらせてはいけないのだ……ということを。
忘れようとした“りん”への想いは、いずれ時間が思い出に変えてくれるだろう。
逃げるためについてしまった、その場限りの“嘘”とともに。
後味の悪い、卑怯な嘘。
それがある限り、思い出の中にわだかまりが残り続ける。
燻る苦い思いは、いつまでも胸を刺すに違いないのだ。
このままでは、“りん”の笑顔に胸を張ることなど出来ない。
ならば、やるべきことは一つしかない。
やっぱり、この想いを伝えよう……いつの日か、必ず。
大村は、そう決意を新たにした。
一度は伝えることを諦めてしまった気持ちをもう一度。
例え、叶わぬ恋だったとしても。
嘘つきのままじゃいたくないから――と。
程なく担任の種田がホームルームのために教室に入ってくると、騒いでいた生徒たちは慌ててバタバタと席に戻っていった。
いつもの日常といつもの風景。
今日もまた新たな一日が始まる。
本日の日直が、大きな声で号令をかけた。
起立!
礼!
大村は、号令に合わせて礼をしつつ前を見据えた。
その表情は、吹っ切れたように……意志の強そうな唇が真一文字に結ばれていた。