第12話 『At the end of a day (2)』
午後8時ちょっと前。
食器洗いが終わる頃、ソファに座ってテレビを見ていたことみが言った。
「りんちゃん。ほら。“テキサスに愛を込めて”が始まるわよぉ。」
(・・・ナニソレ?)
「今週はトールくん、どうなっちゃうのかしらねぇ?」
(・・・トール?)
ちなみに、“テキサスに愛を込めて”は、主人公のトールとナミの、アメリカのテキサス州を舞台にした愛の物語である。
週一の連続テレビドラマで、女子高生の間で人気のドラマらしい。
主演のトール(若い男性タレントを多く抱える大手プロダクションが現在猛烈プッシュしている新人タレント)は、ことみのお気に入りだ。
(・・・女子高生に人気のドラマか。ことみ母さん・・・精神年齢低そうだからな。)
和宏は、何気に失礼なことを思った。
毎週、りんも一緒に見ているようだが、当然、和宏が興味を持てるようなドラマではない。
(・・・「裏番組のナイターを見よう」とか言ったら、どんな顔されるかな。)
それはそれで怖いので、和宏は、想像だけに留めることにした。
そんなことを考えた瞬間、また感じたあの“目まい”・・・。
「どうしたのぉ?見ないの?」
「う、うん・・・。ちょっと今日は疲れたかな。」
「そぉ。じゃあ、お風呂に入って早く寝ちゃいなさい。疲れていると、カレシにいい笑顔を見せてあげられないわよぉ♪」
(・・・もぉええっちゅうねん。)
和宏は、返事もソコソコに、目まいを堪えながらバスルームに入った。
ちゃぷんと湯船につかりながら、リラックスする和宏。
ようやく、さっきの目まいも直ってきた。
(のどかの言ったとおりだな・・・。)
和宏は、今日の帰り際ののどかの様子を思い出していた。
『とと、もう5時か・・・。帰らなきゃ。』
『なんか用でもあるのか?』
『ま、まぁ。・・・ちょっとね。』
『・・・?』
不自然に動揺するのどか。
のどかは、その動揺を取り繕うように言う。
『そ、そうそう。言うのを忘れていたよ。例の頭痛の件だけど・・・。』
『ああ、そうだそうだ。あんなの初めてだったぞ。なんでだ?』
『多分、“脳のオーバーヒート”だと思うよ。』
『オーバー・・・ヒート?』
“脳のオーバーヒート”とは、普通は使わない言い回しであるが、この場合に限っては、言い得て妙であった。
普通、人間の脳が保存する記憶は、自分1人分だけであり、脳は必要に応じて、その記憶にアクセスすることになる。
しかし、今の和宏は“二人分の記憶”・・・“和宏の記憶”と“りんの記憶”を持っている状態だ。
常人であれば、脳が記憶のアクセス先を変更する必要なんてないのだが、和宏は、ある時は“和宏の記憶”に、次は“りんの記憶”に、といった具合にアクセス先を頻繁に変更した。(っていうかそうせざるを得なかった。)
それが、脳にとって過度の負担となり、“オーバーヒート”に至った。
『と、言うワケ。まぁ、これも仮説だけどね。』
『・・・カセツ?』
『・・・もういいから。』
『・・・ハイ。』
のどかは、『ヤレヤレ・・・。』と思いながら、言葉を続ける。
『わたしも最初は“オーバーヒート”してたから。』
『へぇ、そうなんだ。』
『“目まい”が徴候だから、目まいを感じたら、すぐに考えるのをやめてリラックスするといいよ。“頭痛”までいくと、脳が相当の休みを必要するみたいだし。』
今日、頭痛を感じてから6時間以上眠ってしまった和宏にとっては、確かに頷ける話だった。
目まいを感じたら、“りんの記憶”を手繰るのをやめて休めばいい。
それくらいで今日のような出来事を回避できるなら何とかなりそうだ、と和宏は思う。
『ところでさ・・・帰らなくていいんだっけ?』
校舎の大時計をチラ見した和宏は、確認するようにのどかに聞いた。
釣られたように、のどかもチラリと大時計に目を向けると、次の瞬間、のどかの表情が凍りついていた。
『はわわ〜、イカン!もうこんな時間ぢゃないか!』
校舎の時計が、5時20分を指していた。
のどかは、さっきまでの冷静沈着さが嘘のように大慌てで、鞄を片手に、我先にと斜面を下り始めるが、途中でピタリと止まる。
そして、あっけに取られる和宏の方を振り向いたのどかは、手を振りながら笑顔で言った。
『じゃあ、また明日!・・・りん!』
そして、のどかは、一目散に斜面を駆け下りて、校門に向かって走っていく。
和宏は、戸惑いながら、手を振り返すのが精一杯だった。
(妙に落ち着き払った奴・・・って思ってたけど、あの慌てぶりは面白かったな。)
和宏は、思い出し笑いでニヤニヤする。
“脳のオーバーヒート”の徴候である“目まい”を感じた時は、考えるのをやめてリラックスすればいいと言われたので、さっそく風呂でやってみたら、効果テキメンだった。
3分もしないうちに、目まいは全くなくなってしまった。
(それはいいんだけどな・・・髪洗うのが面倒くさすぎるぞ。)
腰まである、りんのロングヘアは、洗ってリンスをするだけでもかなり大変だ。
髪を洗うだけで10分くらいかかったかもしれない。
洗い終わった髪は、そのままでは湯船につかる時邪魔になるので、頭の上に巻き上げて、その上からタオルを巻いた。
ただでさえ長い髪の毛が、濡れているため、なおさら頭が重く感じる。
(うう・・・この髪、邪魔だ・・・。)
今日一日、顔を動かすたびに髪が気になってしょうがなかった。
もともと丸坊主なだけに、その違和感は相当なものである。
出来ることなら、「バッサリ」とやってしまいたいと思う。
すでに20分を超えたバスタイム。
和宏は、子どもの頃から長湯嫌いだったのだが、何故か今日は長湯がイヤじゃない。
身体が、リラックスを求めているのだろうか。
湯の中の身体を眺める。
色白で・・・形の良い胸。
和宏は、おもむろに、その胸をさわって、少し揉んでみる。
(やわらけ・・・。)
まさか、“おっぱい”が、こんなにやわらかくて、弾力があるものだったとは・・・と和宏は思った。
しかし、くすぐったいような慣れない刺激に耐えかねて、すぐに揉むのをやめたものの、急に自分のしたことがとてつもなく恥ずかしいことだったような感じがした。
(・・・何やってんだ・・・俺。)
その恥ずかしさを誤魔化すかのように、バシャッと水面を叩き、天井を見る。
もわもわと上がる湯気を見ながら、昨日までの日常が和宏の脳裏に浮かんだ。
親父・・・。
クラスメイトたち・・・。
野球部のチームメイトや監督・・・。
(みんな、今頃何してんのかな・・・。)
みんなの顔が、湯気の中に浮かんでは消える。
そして、トリを飾るように、大野美羽の笑顔が浮かんできた。
(・・・チェッ。)
思い出したら辛くなるだけなのに・・・いつまでも忘れられないでいる。
そんな自分に対して、和宏は、両手で頬っぺたをパチンを叩いた。
でも、一瞬だけジンと感じた痛みは、心の奥の切なさを消し去ってはくれない。
和宏は、ため息をつきながら、彼女の笑顔を振り払うように湯船を出た。
パジャマに着替えた和宏は、まだテレビを見ていることみに「おやすみ」をして、そそくさと部屋に戻った。
まだ寝るには早い時間だったが、和宏は一刻も早くベッドに横になりたかった。
それだけ今日は疲れているのだろう。
ドアを閉めると・・・そこは無機質な蛍光灯の明かりが照らし出す部屋の中。
今日はいろいろなことがありすぎたせいか、今朝起きるなり途方にくれたことすら、ずいぶんと前の出来事のような錯覚に陥りそうになる。
和宏は、自分の身体の違和感・・・耳や肩にまとわりつくロングヘアの違和感も、着けているブラジャーの違和感も、全てを振り払うかのようにベッドに倒れこんだ。
―――明日起きた時・・・全てが元通りになっていたら、どんなにいいだろう。
そんなことを考えながら、あっという間に寝入ってしまった和宏。
和宏の長い長い1日が、今ようやく終わった。