第117話 『デートじゃない! (1)』
9月28日の日曜日……16時。
“ブラックポセイドン”……通称“ブラポ”のライブが隣の福岡県で行われる。
今、人気絶頂の“ブラポ”は、特に男性に対して絶大な人気を誇るロックグループだ。
大村や和宏もまた、その熱狂的なファンのうちにカウントされている。
そして、いつかはライブに行ってみたい……常日頃からそう思っていた和宏に、大村からの思わぬお誘いがあったのは夏休み中(第86話参照)のこと。
狂喜乱舞した和宏は、約束の日が近くなるにつれて、“ある感覚”と戦う羽目に陥っていた。
そう。油断すると楽しみのあまりカオが緩みそうになる感覚と。
(あ~……やっと終わったぁ~!)
金曜日の2年A組の教室。
ホームルームも終わり、待望の放課後である。
帰り支度を整えた“りん”は、他の生徒たちと同様に、両手で伸びをしながら教室を出た。
念のため、ニヤニヤとした笑いがこぼれて、周りに不審な目で見られないように堪えながら。
そのせいで、注意力が散漫になっていたのかもしれない。
「ぐふっ!」
“りん”は、ドラ○エで隣国の惨状を命からがら伝えに来た瀕死の兵士Aが王様の前で息絶える時の声……に似た声を上げた。
廊下に出た途端、パタパタと急ぎ足で走ってきた生徒のヒジが、モロに“りん”のみぞおちに入ったたからだ。
(~~~っ)
みぞおちに走った衝撃に、声にならないうめき声を上げ、うずくまる“りん”。
そんな“りん”の目の前にしゃがみこんで、苦痛に歪んだ顔を心配そうに覗き込む人影。
「ご、ごめん! 大丈夫……かい?」
聞き慣れた声と、どこなく変な女子高生離れしたしゃべり方。
“りん”の目の前には、大きなクリクリした瞳を心配げに曇らせたのどかの顔があった。
あぁ、ぶつかってきたのはのどかだったのか……と思いながら、とりあえず“りん”は「大丈夫」とだけ答えようとした。
「だい……ぢょ……ぶ……」
しかし……みぞおち直撃による呼吸不全(?)のため、声が絶え絶えにしか出てこない。
ようやく呼吸が整って、声が出るようになったのは、それから約一分後のことだった。
「う~、とりあえず……もう大丈夫……」
「本当にゴメン。急いでたから……」
時として、妙なドジをやらかすのどかだが、基本的にはあまり慌てない冷静沈着タイプである。
そののどかが、こうして廊下をパタパタと走ってきたのが、意外と言えば意外だった。
「実は……今日は夕方から団体客の宴会が入ってるんだ。だから、今から事前の買出しに行かなくちゃいけなくてね」
のどかの心配げな表情の中に、かすかに嬉々としたモノが混じっている。
おそらく、その宴会とやらが、のんちゃん堂の売り上げに直結するからだろう。
“りん”は、へぇ……と声を上げながら、次の瞬間……表情を固まらせた。
“あるもの”が“りん”の視界に飛び込んできたからだ。
(……っ!)
“りん”は、“それ”から目を逸らすように視線を泳がせた。
ハッキリいって不自然なコトこの上ない動き。
のどかは、思いっきり怪訝な表情で首を傾げた。
「ど……どうしたんだい? 急に」
「いや……あの……」
「……?」
のどかは、モジモジしている“りん”を、挙動不審者をみるような目つきで見つめている。
和宏は思った。
のどかは、まだ気付いていない……と。
これは、ちゃんと教えてやらねばイカン……と。
モジモジしてる場合じゃない……と。
“りん”は、一回深呼吸をして意を決した。
「あ、あのさ……」
「なんだい?」
「パンツ……見えてますけど」
……。
……。
しゃがみこんだのどかのスカートの奥から覗く白。
なんという破壊力(?)だろう。
事態に気付いたのどかは、サッとスカートで“それ”を隠して……みるみるうちに顔を真っ赤にさせていく。
(うわぁ……スゲェ真っ赤になったーっ)
例えるならブルゴーニュ地方の赤ワインのような……そんな見事な赤さ加減。
気の毒なほど真っ赤になったのどかを見ていると、まるで申し訳ないことをしてしまったかのような気すらしてくるのが不思議だ。
その罪悪感に駆られるように、“りん”は精一杯のフォローを入れた。
「だ、大丈夫だよ。少ししか見てないからさ」
「そーゆーモンダイじゃない!」
やっぱりフォローになっていなかった。
真っ赤な顔のまま、頬っぺたを膨らませるのどか。
ただでさえ童顔なのに、こんな仕草までされては、もはや微笑ましい……という形容詞しか出てこない。
相変らず不服そうな表情ののどかだったが、ついさっきまで急いでいたことを思い出したかのように立ち上がった。
「じゃあ……急がなくちゃいけないから、先に行くよ」
「あぁ」
「それと……さっきはゴメン」
「ん……もう大丈夫だよ」
そう言って、大げさなジェスチャーでお腹をさする“りん”。
そんな“りん”を見て、のどかはいつものように笑いながら、生徒用玄関の方向へ走っていった。
結局、“あの日”(前話参照)以来、のどかの様子はいつもと何ら変わらなかった。
だが、和宏の頭の中からは、相変らず「あの表情には、どういう意味があったんだろう?」という疑問が離れないでいる。
その答えは、今となっては知る由もないが、ひょっとするとあれは気のせいだったのではないか……と思うほど、今日ののどかも元気だった。
「まぁ……いいか」
さっきの真っ赤なのどかの顔……あの微笑ましい童顔を反芻しながら、“りん”は小さく笑った。
◇
生徒がいなくなって、ガランとした教室。
普段とは裏腹に、人通りも少なく閑散とした廊下。
今日の放課後は、どういうわけか校内に残っている生徒は少ないようだ。
鞄を肩に掛けた“りん”は、何気なしに窓の外を見上げた。
秋の深みのある青色が空一面に広がり、その空には、ふんわりとした綿菓子のような白い雲が浮かんでいる。
この秋晴れの晴天に加え、金曜日の放課後……“もう帰るだけ”という絶好のシチュエーション。
もし、“開放感メーター”というものがあるのなら、今の和宏の中の“それ”は、間違いなく針が振り切れているはずだ。
「あ! り~ん!」
「もう帰るのっ?」
もう帰ろうかと生徒用玄関に向かおうとした“りん”を呼び止める“いつもの声”。
低音の効いた沙紀の声と、ノーテンキな東子のアニメ声である。
「ああ。何も用事ないしな……なんか用?」
“りん”は、部活に入っていないため、基本的に放課後は居残る必要がない。
だから……今日も帰宅してから、例の場所で“野球の練習”をすることになっている。
無論、夏美と一緒に。
「用……てワケなじゃいんだけどね……」
沙紀が、東子と顔を見合わせて、バツが悪そうに笑う。
言ってはなんだが、何かを企んでいるとしか思えない笑い方だ。
そんな二人に、“りん”は疑いの眼差しを向けた。
だが、常にマイペースの東子は、そんな“りん”の目を気にすることはなかった。
「あのさっ♪ 明後日のアレ……何時から?」
「……『アレ』ってなんだよ?」
「んもうっ!」
素なのか、とぼけているのか、わからない感じで聞き返す“りん”に、東子は頬っぺたを膨らませながら、周りに聞こえぬように声を潜めた。
「……デ・ェ・トッ!」
「そんなんじゃないと何回言えば……」
明らかに沙紀と東子は勘違いをしている。
だが、何度それを指摘しても、改まる気配はゼロだ。
「……で? 何時から?」
そんなことは聞いてないから……という前置きがピッタリの沙紀の台詞。
おそらく、あと百回言い聞かせても、正しく認識することはないだろう。
“りん”は、「ヤレヤレ……」と思いながら、しょうがなく答えた。
「16時開演だから、14時くらいには家を出るつもりだけど?」
「……午後2時ね~……♪ オッケーっ♪ じゃっ、アタシたち部活行くからっ♪」
「そ、そうね。というワケで……バイバイ! りん!」
用事は済んだ……とばかりに、沙紀と東子は、手を振りながら駆けていく。
あまりに怪しい態度の二人の背中に向かって、“りん”は、念のために釘を差した。
「ついてくるとか言うなよっ!」
だが、クルリと振り返った沙紀と東子は、爽やかな笑顔のまま答えた。
「大丈夫よ! 絶対についていかないから!」
「そうそう! だから心配しないで~っ♪」
そう言い残して、風のようにあっさりと去っていった二人。
そして、しばしボーゼンとする“りん”。
(あ、怪し過ぎる……)
ひょっとすると……“りん”は今、重大なミスを犯してしまったのかもしれない。
開放感に浮かれ、余計なことを口走ってしまったのだから。
――TO BE CONTINUED