第11話 『At the end of a day (1)』
和宏は、萱坂家の玄関前まで来て、中に入るのためらっていた。
ことみのパートは、午後4時頃で終わる。
終わった後に、夕食の材料の買い物をしてから帰宅するので、りんより帰りが遅くなることも多かった。
今日は、すでに午後6時を過ぎているので、もうことみが帰ってきているのは間違いない。
それどころか、夕食の準備すら終わろうとしているようだ。
その証拠に、玄関にまで完成間近のカレーのいいにおいが漂ってきている。
ためらいの理由は、今日、のどかとの別れ際に言われたことだった。
『当面は振舞いに気を付けて。中身が入れ替わっている(しかも男に)なんてばれたら、面倒なことになるかもよ。特に家の人にはね。』
(そんなこと言われてもなぁ・・・。)
和宏には、誤魔化し通せる自信などなかった。
いかに“りんの記憶”があるとはいえ、親子の機微まではわかるはずもない。
(・・・まぁいいや。なんとかなんだろ。)
どんなピンチの時にでも発動される和宏の特殊スキル。
いや、むしろ“ピンチの時にこそ発動されるスキル”なのかもしれない。
和宏は、逡巡をやめて玄関の扉を開けた。
「ただいま~。」
「あらぁ、おかえり~。遅かったじゃな~い。」
キッチンから、あの妙に間延びした返事が返ってきた。
心臓をバクバク言わせていた和宏は、この緊張感ゼロの声を聞いて、少し落ち着きを取り戻す。
ことみは、リビングに入ってきた和宏の姿を見て、開口一番に言った。
「どぉ、具合は?大丈夫~?」
「う、うん。大丈夫だった。」
「そぉ。ならいいんだけど。」
(・・・スイマセン。一日中保健室で寝てました・・・。)
心配そうなことみに、和宏は少しばかりの罪悪感を覚える。
「晩ゴハンは食べれる?」
「うん。食べれる。」
「じゃあ、着替えてから下りてらっしゃい。」
「は~い。」
和宏は、ひょいひょいと階段を上がって、“りんの部屋”に入ってドアを閉めた。
途端に出るため息。
(ふぅ・・・。沙紀や東子と話してる時も思ったけど・・・やっぱり“りんの口調”でしゃべるのはこっ恥ずかしいな。)
『うん。食べれる。』とか『は~い。』とか。
まるで、自分が“男”であることを隠して、女装しながら“女の子”の演技をしている気分だ。
当然のことながら、和宏には“その手の趣味”はないので、それは和宏にとって苦痛以外の何者でもなかった。
とりあえず、セーラー服を脱いで、部屋着のスウェットに着替える。
基本的に“脱いだら脱ぎっぱなし”の和宏には、脱いだ制服をハンガーに掛けて片付けるなんて習慣はないのだが、振る舞いに気を付けろと言われた手前、(面倒くさいと思いながらも)普段の“りん”の行動様式に沿って、脱いだ制服をちゃんと片付けた。
(よし・・・メシだ。)
まずは食欲・・・と言わんばかりに、和宏は一階に降りることにした。
一階のダイニングテーブルには、すでに装われたカレーライスが二人前。
すでに席に座っていたことみは、りんが降りて来るのを待っていた。
「いただきま~す。」
ことみと和宏は、揃って食べ始める。
徐々に食事が進む中、唐突にことみが口を開いた。
「りん~?ひょっとして・・・カレシ出来た?」
和宏のスプーンと皿が衝突して、「ガチャン!」という大きい音を発した。
ことみは、和宏の明らかな動揺を見て、それはもうニンマリと微笑む。
「なんか、朝から様子が変だからぁ~・・・恋煩いかと思ってぇ~♪」
(なんでそんなに楽しそうなんデスカ、アナタ。)
和宏は、「この状況はヤバイ!」と瞬時に直感した。
このままでは、なし崩し的に“カレシがいる”ということにされてしまう。
まだ、カノジョもいないというのに。
ここは、全力を挙げて否定せねば・・・和宏の本能とか第六感あたりがそう告げている。
和宏は、両手でテーブルを「バン!」と叩きながら言った。
「カレシなんかいね・・・。」
「いね?」
「・・・いないわよ。」
危うく「カレシなんかいねぇよ。」と言いそうになった和宏は、すんでのところで踏みとどまったものの、ことみは、そんな言葉遣いなど気にしていないようだった。
しかも、ことみのニンマリ度が、さっきより1.25倍ほどアップ(当社比)している。
「本当にいないの~?あやしいわぁ~?」
「いないったらいません!」
「ムキになるところがあやしいわぁ~?」
ことみのめちゃくちゃ楽しそうな様子が、はっきりと見て取れる。
和宏の頭の中には、“手遅れ”の三文字が、我が物顔で飛び回っていた。
しかし、簡単にあきらめるわけにはいかない和宏は、最後の手段を試みた。
「さ、お母さん。冷めないうちに食べましょ。」
カレシ云々の話などなかったかのように、努めて冷静にカレーを口にかき込む。
そんな和宏の様子を見て、ことみは少し不満げな顔をしながら、再びカレーを食べ始めるのであった。
(・・・ふっ。任務完了。)
誰から受けた任務かは定かではないが、とりあえず、和宏は勝利の味をかみ締める。
勝利の味の染み込んだカレーは、(なんとなく)格別であった。
キレイにカレーを食べ終わった和宏は、自分の皿とスプーンをキッチンに持っていき、当然のようにそれを洗い始めた。
それを見たことみが、驚いたように言う。
「あらぁ、りんが何も言われてないのに自分から洗い物をするなんて珍しいわねぇ。お母さん感激!」
和宏の家は、父子家庭である。
食事を作るのは父の役目、食器の片付けや皿洗いは和宏の役目と決まっていたので、一種の習慣であった。
和宏は、キッチンのシンクで、自分の食器を洗いながら言った
「お母さんも食べ終わったら食器ちょうだい。洗ってあげるから。」
「!!!・・・まぁっ!!!、やっぱりカレシねっ!カレシが出来たからそんなに優しいのねっ!」
(・・・何故そうなるっ!?)
先ほど、完了したはずの任務が、また舞い戻ってきた。
それも、さっきより格段に難易度が上がっている感じがするのは気のせいだろうか。
「いやぁん、うれしいわぁ。りんにカレシが出来たなんて。・・・今度お家に連れてきなさい。ネッ?」
(『ネッ』って言われましても・・・。)
明らかに暴走することみ。
このまま暴走すればどこまで行くのか・・・最後まで見たいような気もするが、そういうワケにもいくまい。
「だ・か・ら、いないって言ってるでしょ?」
「わかったわよぉ~。じゃあ、気が向いた時でいいから連れてらっしゃい。ネッ?」
(・・・だめだこりゃ。)
どういうわけか、ことみの中では、揺るぎのない結論が出てしまっているようだ。
もはや、“何を言ってもムダ”的な空気を、ひしひしと感じる。
(まあ、よく考えたら、“様子がおかしいのはカレシが出来たから”ってことにしておいた方が、何かと都合がいいかもしれねぇな。)
そう考えた和宏は、それ以上返事をするのをやめ、食器洗いに専念した。