第107話 『Perfect Game (13)』
七回表からリリーフした“りん”と対した八人のバッターたち。
この滝南のバッターたちは、ことごとく“りん”の前に沈黙した。
たった一本のヒットを打たせることなく。
たった一人のランナーすら出すことなく。
打者一巡をパーフェクトに抑えきるまで……あと一人。
だが、その“最後の一人”は、こんな練習試合には似つかわしくないほどハイレベルだった。
金属バットの音がグラウンド中に響き渡り、その鋭い打球は、ライト方向へ一直線に向かっていく。
ライトの中曽根が懸命に追うが、とても追いつけそうにない。
しかし、ボールが落ちたのは、幸いにもファールラインの外側……ファールだ。
「うわ~……危なかった~!」
「コラ~! りん~! あと一人なんだから頑張りなさい~っ!」
グラウンド中、隅々まで響き渡る沙紀の大声。
たった今、九死に一生を得たばかりの“りん”は、苦笑するほかなかった。
(ちっきしょ~……。アイツら、好き勝手言いやがって……)
“りん”の投じたストライクは、ストレートも変化球も……全て松岡にミートされた。
大村のサイン通りだったにも関わらず、だ。
(コイツ抑えるの……めちゃくちゃ大変なんだからな……)
“りん”は、バッターボックス内で、すでに構えている松岡を見た。
腰の据わった、安定感ある構えが特に目を引く。
全くスキが見当たらない、洗練された構え。
だが、どんなに素晴らしいバッターであろうととも、和宏は勝負をあきらめるわけにはいかない。
あきらめたら、そこで勝負はついてしまうからだ。
(ここまで来て負けてたまるか……)
“りん”は、ロージンバックをマウンドに、荒々しく叩き付けた。
舞う白い粉は、風に吹かれて、力なく霧散していく。
揺るぎない勝利への決意を胸に、唇を真一文字に結んだ“りん”は、マウンド上に屈み込みながら、大村のサインを覗き込んだ。
◇
ストレート、カーブ、シュート……丁寧にコースを突いてきたそれらを、全て打ち返した松岡は、ほくそ笑んだ。
(さっきの挑発が、こんな形で活きてくるとはね……)
デート云々の挑発をした、予想外の副効果。
前の回までの抜群の球のキレが、この打席に限っては半減していることに、松岡は気付いていた。
その原因は、“絶対に負けられない”という意識が生んだ“力み”に他ならない。
“りん”の身体の柔軟性を活かした“しなやかさ”こそが、“りん”の球に極上のキレを与える源なのだが、それが、この“力み”によって失せてしまっているのだ。
本来のキレを持つ、完全にコースを突いた“りん”の変化球は、いかに松岡といえども、そう簡単に右へ左へ自由自在に打ち返せる球ではない。
だが、和宏自身、自分が力んでしまっていることに気付いていない上、ここまで全ての球が完璧に打ち返されたという事実がある以上……和宏は、“自分と松岡との間には圧倒的な実力差がある”という結論に達するしかなかった。
そんな絶望すべき状況にもかかわらず、マウンド上の“りん”の表情からは、まだ勝利への意思が潰えてはいない。
松岡にとっては、感嘆すべきことだった。
(大したものだよ……その負けん気の強さは)
やはり、女だてらにピッチャーをしているだけあって、根性があるのは間違いない。
しかも、マウンド捌きを見る限り、経験豊富な上に度胸も据わっていそうだ。
(滝南の二軍……イヤ、一軍の連中にも見習わせたいものだね)
打席で金属バットを構えながら、松岡はそう思った。
カウントは、ツーストライクスリーボール。
彼女が、パーフェクトピッチングを狙っているのであれば、当然のことながらフォアボールはありえない。
つまり、次の球がストライクコースに来るのは間違いないだろう。
そして、ストレートを始め、カーブもシュートも通用しないことを、すでに松岡は証明してみせているのだから、もう、このバッテリーは、次に投げる球がなくて困っているはずだ。
ただ一つ……まだ投げていないスライダーを除いては、だ。
松岡は、ポーカーフェイスのまま、ここまで読みを働かせた。
ここまで滝南のバッターをキリキリ舞いさせた、“りん”の最大の武器である“スライダー”。
この球を“完璧”に叩いてこそ、滝南は、女性ピッチャーにパーフェクトリリーフを喫しそうになったという汚名を晴らすことが出来るだろう。
(次は、スライダーしかないはず!)
松岡は、絶対の自信を持って金属バットを握り締めた。
三塁側の滝南ベンチからは、うるさいほど盛んな「シュウさんファイトッ!」といった二軍メンバーたちの声。
今さらながら、女に完璧に抑えられてしまいそうな自分たちの状況に危機感を覚えたに違いない。
この声に負けるものかとばかりに、一塁側の鳳鳴ベンチからも声援が飛んだ。
もちろん、その大半は沙紀と東子の声だ。
マウンド上の“りん”が、大村のサインに大きく頷く。
同時に、マウンド上の空気が張り詰め、ピリピリした雰囲気が醸し出されていく。
サイン交換は、これ以上ないほどスムーズに行われた。
それは、ピッチャーも、キャッチャーも、次に最高の決め球を投げることに異存はないということである。
松岡の中にあった「次の球はスライダーしかない」との思いは、すでに確信へと変わった。
大きく振りかぶったワインドアップモーション。
流れるようなピッチングフォームを経て、地面スレスレの右腕からボールがリリースされた。
そして、フォロースルーの勢いによって、一瞬だけフワリと浮かび上がる“りん”の身体。
まるで……蝶が舞うように。
「―――っ!」
松岡の、眠そうな細い目が、大きく見開かれた。
投げてくるのは、スライダー。
あの、信じられないほど大きく曲がるスライダー……のはずだった。
しかし、“りん”の気迫の篭ったフォームから放たれた球は、スライダーではなく、全く無防備なスローボール。
何の変哲もない……小学生でも打てそうな――。
その球は、フワフワと……松岡の目の前を通り過ぎて大村のミットに収まった。
まるで魔法にかかったかのように、バットを構えたまま動かぬ松岡。
一塁側と三塁側……あっけに盗られたような奇妙な静寂が、両軍のベンチを包みこんだ。
そして、その静けさを破ったのは、主審・山本のコールだった。
「ストライクッ! バッター……アウトォッ!!」
その大仰な声に反応することすらなく、松岡は、ポカンとした顔でマウンド上の“りん”を見た。
大きく右手を掲げた、ガッツポーズ……そして、「どうだっ!」と言わんばかりの嬉しそうな笑顔。
そんな“りん”の様子を呆然と眺めながら、松岡はバッターボックスに立ち尽くした。
「ゲェムセットッ!!!」
一拍置いてから、山本の右手が高らかに上がり、試合終了が宣告された。
2対1……鳳鳴高校の勝利。
勝利投手は“りん”。
七回からの緊急登板であったが、与四死球ゼロ、被安打ゼロ……奪った三振は四つ。
滝南の九人の打者を完璧に抑えた……紛れもないパーフェクトピッチングだった。
――TO BE CONTINUED