第105話 『Perfect Game (11)』
真夏のような太陽が、一時的に雲に隠れ、グラウンドを直射していた日差しが、幾分薄らいだ。
同時に、少しだけ秋を感じさせる爽やかな風も帰ってきた。
まるで、試合の展開が大きく動いたのを合図にしたかのように。
滝南のキャッチャー松岡は、迷いなく立ち上がった。
“敬遠”である。
守る方からすれば、ランナー二塁三塁よりも、満塁になった方が却って守りやすい。
打球を捕った後、どこに投げてもアウトが取れるからだ。
ボールが四球続き、鳳鳴の八番バッターの中曽根は、一塁ランナーへと変わった。
無死満塁。
そして、バッターボックスには、九番バッターとして“りん”が入る。
「打て~! りん~!」
沙紀の大きな声援が響き渡り、隣に座る東子も負けじとアニメ声を響かせた。
「打ったら沙紀がパフェ奢るって言ってるよ~!」
「そんなこと言ってないわよ~!」
またか……と、脱力する“りん”。
せめて、応援なのか、人を笑わせたいのか……ハッキリさせてほしいものである。
それはともかく……と、“りん”が、右バッターボックスに入った時だった。
松岡は、ゆっくりと立ち上がり、ホームベースにかかっている砂を、足で払い始めた。
「なかなかいいピッチングだね」
「……!?」
ザッ……ザッ……と砂を払う音を立てながら、松岡が審判には聞こえない程度の声で話しかけてきた。
通常、敵味方同士の試合中の私語は厳禁である。
故に、松岡は、主審の山本に見えぬよう、しゃべりながらも“りん”の方を向くことなく、ホームベースに目を落としていた。
「でも、僕たちをパーフェクトに抑えるというのは……ちょっと無理だろうね」
「……!」
あまり長く同じ動作を繰り返しているわけにもいかないからか、ホームベースにかかった砂を足で払い終えた松岡は、それ以上しゃべることなくミットを構えて座った。
(……なんだ? なに考えてんだ……コイツ?)
試合開始から、ずっと目で追っていた、滝南の背番号“2”のささやき。
“りん”は、その意図がわからず、少しだけ首を傾げた。
マウンド上の、背番号“30”は、セットポジションから第一球を投じた。
アウトコース低め……力のある球が、いいコースに決まる。
「ストライック!」
もともと一球目は見送るつもりでいたので、特に問題はない。
仮に打ちにいっても、今のコースに決められては、凡打に終わった可能性が高い。
待っているのは、和宏の好きなインコースである。
(結構速いけど……打てない球じゃねぇな……)
“りん”が、心の中で、そう呟いた時、松岡が立ち上がってホームベース上まで二歩三歩歩いてから、ピッチャーに返球した。
そして、またホームベース上の砂を足で払いながら、先ほどと同じようにしゃべりだした。
当然、審判には聞こえないように……だ。
「次の回、ボクを抑えられるかどうか……賭けをしないか?」
(……はぁっ!?)
松岡の視線が一瞬だけ、怪訝な顔をする“りん”を捉えた。
「ボクがヒットを打てなかったら……キミの言うことを何でも聞くよ」
「……」
「その代わり、ボクが打ったら……一日デートしてもらおうかな?」
(……っ!?)
それだけ言うと、松岡は、またミットを構えて座った。
(……デート? アホか。何が悲しくて男とデートしなくちゃいかんのだ……。いや、それより……なんでこんな時にこんなこと言うんだ?)
そんな感想が、“りん”の頭の中をかすめているところ、第二球が投じられた。
和宏が狙っていたハズのインコースにズバリ。
(いけねっ! 見逃したっ!)
動揺のせいで集中力を欠いたことにより、球の見極めがワンテンポ遅れたのだ。
結果、カウントはツーナッシング。
明らかに打者不利な状況に追い込まれてしまった。
悔しげな表情の“りん”の前を、松岡が、また先ほどと同じように悠然と横切っていく。
そして、ピッチャーにゆっくりと返球しては、再びホームベース上の砂を足で払い始めた。
「どうする? 賭けを受けて立つかい?」
これは、俺の集中力を奪う呟き作戦だ……和宏は、そう思った。
ならば、律儀に答える必要はない。
“りん”は、松岡の台詞など聞こえない振りをして、ただピッチャーを睨みつけた。
そんな“りん”を見て、松岡は軽く鼻で笑った。
「……やっぱり受けるワケないか。まぁ、利口だと思うよ。ボクには勝てないってわかっているってことだから……ね」
そう言い終わると、松岡は、改めて“りん”に視線を流しつつ、ニヤリと笑った。
明らかに「キミとボクとは住む世界が違うんだよ」と言いたげな台詞と表情。
カチン! ……と来ると同時に、和宏の頭には、瞬時に血が上ってしまった。
九回は、滝南の二番、三番、四番が相手。
そして、この目の前にいる松岡は四番。
パーフェクトを目指すなら、この男との勝負も避けては通れない道。
しかも、その勝負に勝たなければ……パーフェクト達成はありえない。
考える余地はない……要は勝てばいいのだ。
和宏は挑発に乗った―――。
「……受けてやるよ。その勝負……」
わざと松岡とは目を合わすことなく……静かに、はっきりとした口調で“りん”は答えた。
「……そうこなくちゃね……」
満足げに微笑んだ松岡は、ゆっくりとミットを構えて座った。
金属バットを構える“りん”の両手に力が篭り、ピッチャーを見る目つきには、これまでにない鋭さが感じられた。
一際強くそよいだ風が、“りん”のポニーテールを激しく揺らしていく。
先ほどまでとは違う、少々緊迫した雰囲気になった中で、マウンド上の滝南のピッチャーが、キャッチャー松岡のサインを覗き込んだ。
少しの間を置いて、力強くサインに頷くと、セットポジションから投球モーションに入る。
ゆっくりとしたモーションから投げ込まれた第三球は、再び“りん”の得意なインコースへ。
先ほど見逃してしまった球と同じコース……絶好球だ。
“りん”は、ベストのタイミングで、その絶好球をフルスイングしようとした……その瞬間だった。
ストレートだと思っていた球が、インコースから、さらに内……切れ込んでくるようにククッと変化したのだ。
(……シュートっ!?)
鈍い手ごたえとともに、金属バットの根元に当たった景気の悪い「ガキンッ!」という金属音がグラウンドに響く。
イージーなサードゴロを難なく捌いたサードが、キャッチャーへ送球してワンアウト。
その球を、松岡がファーストに送って……ツーアウト。
痛恨のダブルプレーだった。
ポニーテールをなびかせながら、ダブルプレー崩れを狙って、一塁の手前まで全力疾走した“りん”は、悔しそうに天を仰いだ。
(ちっきしょ~……! 不覚っ! タイミングバッチリだと思ったのに……)
しかし、悔やんでも、時間は元には戻らない。
野球に“たら”と“れば”は存在しないのだ。
ノーアウト満塁というチャンスが、一瞬にしてツーアウト二塁三塁に変わってしまった。
まだチャンスには違いないが、今の和宏の心の内には、苦い思いだけしか残っていない。
トボトボと一塁側ベンチに引き上げていく“りん”。
その後姿を見て、松岡はキャッチャーマスクをかぶり直しながら、ニヤリと笑った。
(気持ちを前面に押し出すタイプだと思っていたよ。だから、ちょっと挑発して冷静さを失わせれば……こうなるのさ)
カウントはツーナッシング……投手有利だったのだ。
冷静に考えれば、遊び球を放ってきておかしくないところ。
だが、挑発に乗り、熱くなった和宏の頭の中には、そんなことはすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
まさに“不覚”……と言えるだろう。
続く一番バッターの広瀬もピッチャーゴロに倒れ、結局ノーアウト満塁から1点も取る事が出来なかった。
大村のタイムリーヒットで勝ち越しはしたものの、その後のチャンスを逃してしまったことで、鳳鳴ベンチの空気が少々重い。
滝南ベンチと比較すると、どちらが勝っているのかわからないような雰囲気だ。
最終回の攻撃のために、駆け足でベンチに戻っていく滝南ナイン。
プロテクターを外しながら、松岡は小さな声で呟いた。
(……さて、楽しませてもらおうかな。彼女との勝負を……)
―――TO BE CONTINUED