第99話 『Perfect Game (5)』
野球部の部室の匂いは、一種独特の匂いがする。
基本的には汗の匂いだが、硬球やグラブの匂いなどが入り混じった不思議な匂いだ。
「りんさん! 着替え終わりましたか?」
部室のドアの外で待つ栞が、ドア越しに話しかける。
えんじ色の帽子をキュッとかぶった“りん”は、返事をする代わりにドアを開けた。
鳳鳴高校のユニフォームに身を包んだ“りん”を見て……栞は驚きの声を上げた。
「うっわぁ……! さすがりんさん! 似合います! っていうか似合いすぎです!」
野球部が所有する、真新しい予備ユニフォーム。
一番小さいサイズを用意してもらったにもかかわらず、多少大きめなのは仕方がないのだが、さすが現役高校球児(←無論“和宏”が……である)だけあって、バツグンの着こなしだった。
背番号のついていない、真っ白なユニフォームに、えんじ色のアンダーウェアと帽子。
柔らかそうな胸の二つのふくらみと、帽子のアジャスターの隙間から出している長いポニーテールだけが、高校球児というには違和感を醸し出していたが……まぁ、そればかりは致し方ないだろう。
「そ、そんなに似合うかな……?」
「それはもう! 私が男だったら惚れてますね」
栞が、冗談なのか本気なのか、よくわからない感じで断言した。
だが、期せずして回ってきたチャンスに舞い上がっている和宏にとっては、そんな褒め言葉すら嬉しく感じてしまう。
日はすでに高く昇り、残暑の日差しがグラウンド全体を照りつけている。
ちょっとした夏気分に、久しぶりに滾る夏好きの血。
“りん”は、口元を緩めながら、帽子のツバをギュッと上げた。
小走りでマウンドまで辿り着いた“りん”は、マウンド上で待ち構えていた大村からボールとグラブを受け取った。
「ごめんね……萱坂さん。突然の話で」
「いやぁ……むしろ嬉しいかな。またこんな風に投げられるなんてね。ケガをした御厨には悪いけど」
しかし、誰がなんと言おうとも、ここ最近の練習の成果を発揮できる絶好の機会でもある。
“りん”は、本当に嬉しそうに笑った。
「はは……そうだね。向こうの先生もOKしてくれて良かったよ」
本来、野球部員ではない“りん”を、エースの御厨に代わるピッチャーとして出場させるにあたり、「部員ではない女子のピッチャーを登板させたいが良いか?」……と、監督の山本は、滝南に了承を求めていた。
結果、快く了承してくれたおかげで、“りん”はこうしてマウンドに立っているのだ。
ふ~ん……と、鼻を鳴らしつつ、滝南のベンチを見やる“りん”。
体格に恵まれた選手たちがベンチに腰掛けている中、ベンチの隅で腕組みをして立っている、少し細身の背番号“2”と、妙に小柄な監督らしき人影に“りん”の視線が止まった。
「女……の人?」
滝南のユニフォームを纏い、帽子を深くかぶっているため、パッと見は男性に見えなくもないが、その体つきや雰囲気からは女性特有のものが漂っている。
「そうなんだ。滝南の監督が女性だなんて話は聞いたことがないから、多分引率の先生とかじゃないかな」
確かに高校野球で女性監督というのは非常に珍しいケースであるし、それが甲子園でも有名な滝南の監督であるならマスコミを通じて有名になっているはずだ。
しかし、大村が聞いたことがないというからには、監督でないのは間違いないだろう。
(……引率の先生……? にしちゃ妙にユニフォームが似合ってんな……)
そのあまりにも不自然な似合い方は、とても、ただの引率の先生とは思えない。
「さ、随分と時間を食ってるから、急いで投球練習しよう!」
大村の台詞が、“りん”を現実に引き戻す。
ハッと、我に返った“りん”は、とっさに笑顔を作って答えた。
「……オ、オーケー!」
“りん”の返事を確認して、大村は、ドスドスと音を立ててホームベースまで駆けていく。
御厨の負傷から、担架で退場……そして、“りん”の着替え。
大村の言うとおり、確かに結構な時間が過ぎていた。
◇
一方、滝南の三塁側ベンチ……滝南のメンバーたちは、浮かれていた。
「おお~、カワイイ! すげぇ美人だぞ!」
「ほんとだっ! いいね~……名前はなんて言うんだ?」
「え~っと、確か……“かやさかりん”……だってよ」
「カワイイ名前~♪」
「いいな~……あんなカワイイ娘が野球してんのかよ鳳鳴は……。俺、鳳鳴に転校しようかな~!」
一斉に沸き起こる、下品な笑い。
マウンド上の“りん”を見る好奇の目からは、もはや練習試合は終わり、あとはお遊び……という感じがアリアリと出ている。
そんな二軍メンバーたちと、一線を画した一角があった。
ベンチの隅……滝南の背番号“2”が、引率の先生らしき女性と、厳しい表情で言葉を交わしていく。
「……副監督。一体どういうつもりですか?」
「何のことかしら……? 松岡君……?」
滝南の背番号“2”……“松岡秀”。
ひたすらクールな細い瞳が表すとおり、その性格もまた常に冷静沈着な、滝南の正捕手だ。
「女性ピッチャーなんかと対戦して何になりますか? ……時間の無駄です」
その松岡は、持ち前の冷静な性格どおりの静かな口調で、副監督に真意を正した。
そもそも、鳳鳴のエース御厨より力の劣るピッチャーが相手では、練習試合の相手としては力不足である。
だから、御厨が負傷退場した時点で、試合を取りやめるべきだった……というのが松岡の考えだった。
にもかかわらず、副監督が“OK”を出したことは、比較的合理的な考え方を持つ松岡にとって、ナンセンス以外の何物でもなかった。
野球部員でもない女性ピッチャーを相手にしたところで、滝南には何一つメリットがないはずなのだから。
「本当に……そう思う?」
「……?」
その時、キャッチャーミットにボールが収まる音が響いた。
“りん”が投球練習を始めたのだ。
「……アンダースロー……?」
大きく振りかぶり、テークバックから投げ終わった後のフォロースルーまで……見事なほど滑らかで洗練されたフォーム。
松岡は、そのフォームの流麗さに、細い目をわずかに見開いた。
「……意外と掘り出し物かもしれないわよ?」
副監督は、嬉しそうに舌なめずりした。
もとより、楽しい出来事に遭遇したときの彼女のクセである。
「……他意は……ないんですよね?」
確かめるように副監督を流し見る松岡。
この練習試合の目的は、あくまで一年生主体の二軍による、実戦形式の練習に過ぎない。
しかし、副監督の表情と態度からは、その本来の目的から外れたモノを感じたからだ。
だが、副監督は、ピンクのルージュのひかれた口元をわずかに上げただけで、何も答えなかった。
―――TO BE CONTINUED