第九話
聖女の奇跡の力。
その名の通り、普通では起こり得ないはずの『奇跡』を起こす力だ。
セラスティアよりももっと前の聖女は、王国が他国から侵略を受けた際に負傷した大勢の兵士たちを奇跡の力で助けたという。
比較的平和な時代を生きたセラスティア自身もいくつもの奇跡を起こした。
水不足にあえぐ地域に雨を降らせ、助からないと言われていた子供の病を治した。
聖女はただ己の血を一滴、証である胸の薔薇に塗りこみ祈れば良かった。
それだけで『奇跡』は起きた。
「どこへ行くのです?」
「!?」
寮を出たところで声をかけられ私は息を呑んだ。
「ユリウス先生……」
「こんな明け方から、どこに行くのですか? ミス・クローチェ」
その低音と鋭い視線に一瞬気圧される。でも。
「話をしに行くんです」
「どなたと」
「……」
私が口ごもると、先生はふぅと息を吐いた。
「先ほど怪しい人影を見かけまして、念のため出て来て正解でした。ミス・クローチェ、自分が今どれだけ危険なことをしようとしているか、わかっているのですか?」
ユリウス先生が怒っている。いや、呆れている……?
当然だ。自分でも無謀だとわかっている。――でも。
「私が彼とちゃんと話をしないと、きっとこの件はいつまで経っても解決しません」
「……彼の目的はわかっているのですか?」
私は首を振る。
「わからないから話をしに行くんです。だから、そこを退いてください」
「出来ません」
間髪入れずに返ってきた言葉にぎゅうと強く拳を握る。
「……それは、私がこの学園の生徒だからですか?」
「その通りです。僕は教師ですから、生徒を守るのも仕事のうちです」
自分から訊いておいて、予想通りの答えにまた胸がちくりと痛んだ。
(ほらやっぱり、結局今も昔も変わらない)
クラウスは王国の騎士だから、王にそう命じられたから私にいつも優しくしてくれて、過保護なほどにいつも私のことを守ってくれた。
セラスティアもわかっていた。だからいつも、苦しんでいた。
(折角生まれ変わって再会出来ても、結局この胸の痛みは同じ……)
「これは、私と彼の前世の話です。ユリウス先生には関係ありません」
言いながら先生の顔が見られなかった。
気持ちがぐちゃぐちゃで意味もなく涙が出そうだった。
「だから、そこを退いてください」
「――貴女は、」
そう、先生が何か言いかけたときだった。
「私からもお願いするよ。そこを退いてくれないかい? 騎士殿」
「!?」
突然上がった声に先生が勢いよく背後を振り返る。
そこにはフードを脱いだ彼が、ルシアン様が先ほどと同じ笑みを浮かべ立っていた。
私を見て彼が嬉しそうに目を細める。
「迎えに来たよ、姫」
「不法侵入です。即刻この学園から立ち去ってください」
先生が私の盾になるように前に出て警告する。
その大きな背中を見て、ついまた彼の幻影を重ねてしまう。
ルシアン様はふぅと呆れたようなため息を吐きながら肩を竦めた。
「君は、今世でも私たちの邪魔をするのかい? 全く、執念深いことだよ」
「執念深いのは、そちらの方ではないのですか?」
「……なんだと?」
ルシアン様の声が一気に低くなって、私はそこで口を開いた。
「ルシアン様、私はあなたについて行く気はありません。ただあなたと話がしたくて来ました」
彼の赤い瞳が私を見て、緊張を覚えながら続ける。
「私には、あの頃のような力は全くありません。なので、何の役にも立てません。だから」
すると彼はくすりと可笑しそうに笑った。
「力がない? 全く? 聖女の証が今もあるのに?」
彼が自分の胸元をトンと指で軽く叩くのを見てギクリとする。
思わず隠すように胸元に手を当てると、彼はまた笑った。
「わかるよ。その力に惹かれてこうしてまた君と逢うことが出来たんだ。大分時間は掛かってしまったけどね」
と、そこで彼は何かに気付いたように「あぁ」と手を打った。
「ひょっとして、今世ではまだ力を使ったことがないのかな。それなら丁度良かった!」
「え?」
何が丁度良かったのかと疑問に思っていると、彼は寮入口の植え込みの方へと視線を送った。
「ついさっき、今の君の婚約者だっていう男が急に襲い掛かって来てね。びっくりして思わず返り討ちにしてしまったんだ」
ざわりと、全身が粟立つ感覚。
(今の婚約者って……)
私は震える足でそちらへ向かう。
綺麗に剪定された植え込みの陰に、まず投げ出したような長い両脚が見えた。そして。
「ラウル……?」
力なく横たわる幼馴染の白いシャツが真っ赤に染まっていた。その傍らには血で濡れたナイフが落ちていて――。
「ラウル!!」
絶叫を上げて駆け寄るけれど彼からは何の反応もない。その顔は真っ白で、まるで……。
「言っておくけれど、先に手を出してきたのは彼の方だ。正当防衛ってやつだよ」
そんな言い訳じみた台詞が聞こえた気がしたけれど構ってなんていられなかった。
彼の傍らに手をついて何度もその名を呼ぶ。
「ラウル! ラウル!!」
私のせいだ。
彼は何も関係ないのに、私のせいでラウルを巻き込んでしまった……!
「落ち着いて」
「……っ!」
先生が、私の向かいに膝を着いてラウルの首筋に手を当てた。
「大丈夫。まだ息はあります」
それを聞いて少し安堵するも、先生は苦渋に満ちた表情で続けた。
「しかし早く処置をしなければ」
「その通り。ほら、姫。早く力を使わないと手遅れになってしまうよ?」
場違いな楽しそうな声。
(力を、使う……?)
――そうだ。聖女の奇跡の力。
それを使えば……『使えれば』、ラウルは助かる……?
(でも、使えなかったら……?)
このまま、ラウルは――。
そう思ったらガクガクと手が震えて、呼吸も上手く出来なくて。
そのときだった。
「姫様」
強い力で両肩を掴まれた。
見上げれば、涙で霞む視界に優しく微笑むクラウスがいた。
「大丈夫。姫様ならきっと出来ます」
「クラ――」
「彼のことは、貴女に任せましたよ」
そうして、ユリウス先生は立ち上がった。




