第十話
――私なら、出来る?
クラウスの……いや、ユリウス先生の言葉に突き動かされるように私はすぐそこに落ちていたナイフを手に取った。
思い切って血の付いていない柄に近い方の刃に指を滑らせると、ちりっとした痛みが走りじわじわと血液が浮き出てきた。
反対の手で制服の襟元を開け、夢でセラスティアがしていたように薔薇の証にその血を塗りこむ。
あとは目を閉じて一心に祈るだけだ。
(お願い、助かって……!)
両手を組んで強く、強く奇跡を願う。
聖女の証が少しずつ熱を持ち始める。――この感覚には憶えがあった。
その熱が徐々に全身に広がって、瞼の裏が綺麗な薔薇色に染まっていく。
――大丈夫。
セラスティアもこうして数々の奇跡を起こしてきた。
だから、もう大丈夫……!
(目を覚まして、ラウル!)
「……うっ」
小さな呻き声が聞こえて目を開けると、ラウルの身体が淡く薔薇色の輝きを放っていた。
『薔薇色の奇跡』……あの頃、そう呼ばれていた輝きが役目を終え霧のように消えていく。
目を背けたくなるほどに真っ赤に染まり破れていたシャツも新調したかのように綺麗になっていて、彼自身の傷も塞がっているはずだと確認しなくてもわかった。――そういう確信があった。
「ラウル?」
「……っ」
名前を呼ぶと彼がゆっくりと瞼を上げていき、その瞳が私を見上げた。
「……レティ……?」
寝惚けているかのようなぼうっとした瞳が、次第に正気を取り戻していって、
「俺……!」
ガバっと彼は勢いよく起き上がった。
そしてすぐに思い出したのだろう、刺された場所を見下ろし恐る恐るというふうにそこに触れてからシャツを一気にたくし上げた。
やはり、その場所に傷はない。
「なんで……だって俺、アイツに刺されて……っ!」
と、ラウルはすぐ傍に落ちていた自分の血で濡れたナイフを見つけたようだった。
「一体、なにが……」
酷く混乱したような瞳がこちらに戻ってきて、しかしそれは私の胸元で留まり大きく見開かれた。
「それ……」
「っ!」
聖女の証が丸見えだったことに気付いて私は慌てて襟を直した、そのときだ。
「素晴らしい!!」
大きな歓声が上がり驚く。
ハっとして見ればユリウス先生の向こうで、ルシアン様が顔を輝かせていた。
「その力。あの頃と同じ、まさに聖女の奇跡の力だ!」
「アイツ……っ!」
ラウルが立ち上がって、私も震える足を叱咤してなんとか立ち上がる。
――そうだ。まだ安心は出来ない。
「あなたの目的は何なのですか?」
そう低く訊いたのは彼の前に立つユリウス先生だ。
「彼女に何をさせようというのです」
するとルシアン様はうっとりした笑みを浮かべたまま続けた。
「私の目的は今も昔も変わっていないよ。私はただ、愛おしい姫を私の手で守りたいだけだ」
愛おしい姫、という言葉とこちらに向けられた視線にぞくりと震えが走る。
「守る……?」
ラウルが訝し気に呟いた。
「あぁ、そうさ。あの頃は叶わなかったからね……」
すると彼は急に悔しげに顔を歪めた。
「だから、ずっとずーっと捜していたんだ。今度こそ、この手で姫を守るために」
「意味がわからねぇ。レティを誘拐しようとしているお前が、レティを何から守るってんだ」
ラウルが苛ついたように訊くとルシアン様はスっと腕を上げ、“彼”を指差した。
「この男からさ」
(――え?)
まっすぐに指差されたのはユリウス先生だった。
「……」
「はぁ? どういうことだよ!?」
先生は何も言わない。
代わりにラウルが怒鳴ると、ルシアン様は恨みのこもった恐ろしい形相で答えた。
「この男が、私の愛おしいセラスティア姫を殺したんだ!」
「!?」
――瞬間、目の前が真っ暗になった気がした。
「聖女は18歳で国のために命を捧げる……? 冗談じゃない! こっんな素晴らしい奇跡の力を持つ聖女が、そんな若さで意味もなく国のために死ななくてはならないなんて馬鹿げているにも程がある!!」
ルシアン様はまくし立てるように早口で続ける。
「だから私は姫を婚約者に欲しいと願い出たんだ。断れないとわかっていたからね。これで彼女を守れると思った。――なのに、なのに君が!」
もう一度彼がユリウス先生を強く指差すのを、ゆらゆらと揺れる視界の中で見ていた。
「本来姫を守る立場にあるはずの騎士の君が! 彼女を殺したんだ!!」




